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作成日時:2021.02.19
更新日時:2021.02.19

「順風満帆な“地域生活”を捨ててFに再挑戦。仙台に向かう道中は、不安で仕方がなかった」【Fの主役は俺だ!全チームインタビュー|加藤翼|シュライカー大阪】

PHOTO BY高橋学

Fリーグ ディビジョン1、12チームの監督&注目選手を対象にした全チームインタビュー。題して「Fの主役は俺だ!」。コロナ禍を乗り越えてきた各チーム、各選手に、終盤戦への意気込みを聞く。

この1、2年で、瞬く間にFリーグにその名を刻む男がいる。シュライカー大阪の加藤翼だ。昨シーズン、ヴォスクオーレ仙台で19点を奪った男は、今シーズンから大阪に加入。大阪サテライトでプレーした2014年以来、6年ぶりのカムバックとなったが、前線で起点となるプレーや、自ら相手ゴールを脅かすプレーで違いを生み出し、ピヴォとしての存在感は日を追うごとに増している。

しかし、彼は決して順風満帆ではなかった。

一度は、デウソン神戸の選手としてピッチ立ったが、その後Fリーグをあきらめ、地域にカテゴリーを落とした。関西リーグに所属するフエルテ大阪では、チームの代表兼監督兼選手という、全てを担う重要人物となった。しかし加藤は2019年、もう一度Fリーグで戦うことを選んだ。

それはなぜなのか?

そこには、並々ならない決意があった。後には戻れない覚悟があった。加藤翼の知られざる生き様に迫る。

取材・文=舞野隼大、本田好伸
※インタビューは1月7日に実施しました


シュライカー大阪|永井義文監督のインタビューはこちら
その他、全チームの監督、注目選手のインタビューはこちら


仙台でのFリーグ挑戦がラストチャンスだった

──ここまでのパフォーマンスを振り返るといかがですか?

昨シーズンと比べても難しいですよね。良いコンディションになってきたところで新型コロナウイルスのクラスターが発生してしまい、チーム活動が1カ月休みになってしまいました。そして復帰から1週間後に試合。最高潮のパフォーマンスをほぼ出せていないという状況です。

──休止期間中はどんな様子だったのでしょうか?

メンタル的にきつかったですね。日頃から消毒やマスク着用などを徹底していましたが、それでもチームから10人の陽性判定が出てしまいました。ずっと外には出られなかったので家にいました。

──復帰してすぐ、4週間ぶりとなる11月29日のY.S.C.C.横浜戦は全員が重そうでした。

間違いなく体が動いていなかったですね。

──今シーズンは(取材時点で)5得点です(2月114日時点で11得点)。

少ないですし、自分が目指す数字としてはダメですね。

──ただ、ゴール以外に、ピヴォで起点となったり、アシストをしたり、かなり際立っています。

仙台ではどちらかといえばフィニッシャーでしたが、大阪では、味方のレベルも高いですし、僕がフィニッシュするだけではなく、僕を使って決めてもらうことも増えました。タメをつくったところにうまく顔を出してくれる選手が多いので、状況を認知して選択できるので、アシストは増えていますね。

──加藤選手は以前サテライトでプレーしていて、仙台から今シーズン戻ってきました。念願がかなったということですよね。

大阪からオファーをいただき、素直にうれしかったですね。

──やはり大阪のトップチームに戻ることが目標だった。

そうですね。大阪出身ですし、戻りたいけど、伝統も実力もあるクラブなので、僕の気持ちだけでは戻れません。だからこそオファーはうれしかったです。

──大阪サテライトからデウソン神戸でデビューしましたが、そこから関西リーグのフエルテ大阪へ移りました。Fリーグではなく、なぜ地域へ移籍したのでしょうか?

デウソン神戸では、僕自身が戦えていませんでした。心も体も未熟だった。1カ月間サテライトに行けと言われたのですが「それだったらいいです」と退団して、フエルテに行きました。

──その後、フエルテで3年ほどプレーして、再び仙台でFリーグへ。どうして再挑戦しようと?

大阪時代の同世代は、年下ですけど、堀内迪弥や田村友貴、水田貴明、檜山昇吾とかがいます。それに、Fリーグ選抜やサテライトで活躍していたり、結果を出して日本代表に選ばれたりする選手が出てきたり……僕は地域で続けようと思っていましたが、心のどこかでは「Fリーグでやりたい」、「結果を出したい」という気持ちがありました。だから、25歳の年にラストチャンスと腹をくくって仙台に行きました。

──仙台では最終的に19点を挙げてブレイクしていた印象です。

3巡の戦いの最中で監督交代もありましたし、さまざまな側面からコンディション調整が難しかったですね。1巡目はミスを恐れていましたし、うまくフィットできないまま2得点。でも、2巡目、3巡目は本来の持ち味を出せ流ようになりました。少なからず、1年でみんなに顔と名前を覚えてもらえたかなと。

自分の中で日本代表が近くなってきた

──この先は、日本代表もより現実的な目標になるのではないかと思います。

仙台の頃から日本代表への思いはあったのですが、なりたいという気持ちだけで、まだ現実的ではありませんでした。今のチームで、(元日本代表でもある)永井(義文)監督と話しているときに必ず「日本代表」というワードが出てくるので意識できましたし、僕の中でその場所が近くなってきた感覚です。

──永井監督はどんな監督ですか?

表裏がなくて、熱いですね(笑)。ただ、試合に向けてかなり分析していますし、1%でも勝てる材料があるなら必ずそれを試す監督だと思います。

──永井監督はピヴォだったこともあり、アドバイスを受けることもありますか?

いろいろと教えてくれますが、選手には一人ひとり異なる型があるので、押し付けないですね。「翼には翼のスタイルがあるから、引き出しとして持っておきなさい」と。ただ、本当にピヴォのスペシャリストなので、話を聞いて吸収して、成長してやろうという気持ちがあります。

──改めての質問になってしまいますが、自分の強みはどこだと思いますか?

ゴール前での引き出しの多さだと思っています。その場面で、シュートなのか、パスなのかなどですね。今シーズンもそうですけど、ゴール前で思い切り打って入ったシュートは多くありません。どちらかというとタイミングを外して、相手の逆を突くようなシュートが得意だと思っています。

──たしかに、シュートの前にパスをもらうシーンから駆け引きをしていますよね。相手をよく見て、足元のうまさよりも駆け引きで勝っていく印象はあります。

そこはすごく意識しています。日本代表に入り、世界の相手と戦う際には1対1で勝てないことも出てきます。ボールを受ける前から勝負しないといけないと考えて毎日トレーニングしています。

──終盤戦に向けた意気込みを聞かせていただけますか?

この企画にあるように「主役は俺だ!」ってずっと思っています。でも、結果を残さないといけません。大阪自体も、本来であればこの順位にいるチームではないと思っています。それに、外国人選手が抜けたから弱くなったと言われるのも嫌です。だからチームのために結果を残し、自分自身も日本代表に入りたいです。

「フエルテを捨てて仙台に行くんだな」と言われた

──もう少しお話を聞かせてください。いつからフットサルを始めたんですか?

(2015年に引退した)瀬戸彬仁アンバサダーには、子どもの頃から教わっていました。瀬戸さんとは家族での付き合いもあり、僕が高校3年生の頃に「俺、サッカーをやめます」と伝えたら「一度、フットサルの試合を見においでよ」と誘ってもらったんです。試合を見て、すごいなと。僕もやってみたいと伝えると、セレクションがあるから受けてみたらと勧めてもらいました。

──当時、2012年くらいですよね。無類のパスワークを誇るクワトロセットと、3-1を使い分けるフットサルは衝撃的だったのではないでしょうか?

いえ、実はフットサルの、特に戦術のことはあまり知らなくて……。うまい、くらいの印象でした。「なぜ間で止まるんだ、そこは普通、抜けていくだろう」とか、理由もわかりませんでしたね。だから、サテライト時代に最初に教わった当時の林浩平監督が恩師ですね。今もトップチームでコーチをしています。

──フエルテ時代のことを少し聞きたいのですが、ご結婚はその頃?

そうですね。僕が23歳の頃でした。その当時は、フエルテの2年目の時に僕が代表兼監督兼選手となって、スクールも立ち上げて、全日本選手権にも出場して、「よし、3年目に行こうぜ!」という時に、仙台からオファーをもらいました。正直、めちゃくちゃ悩みました(苦笑)。

──地盤がかたまり始めていたんですね。

はい。トップの下部組織として、サテライトにU-18もありましたし、組織が整ってきていた頃で、利益も出るようになっていました。僕がクラブの代表を離れるということで「翼が代表をやめるならチームをやめる」という人もいましたし、クラブの存続が危うい状況でもありました。結果的には送り出してもらえましたが、なかにはそのことをよく思わない人もいました。「フエルテを捨てて仙台に行くんだな」とも言われましたし、「結果を出さないと大阪には戻って来れない」と思っていました。

──それは悩みますね……。

まさに人生の岐路でしたね。今はこうして大阪に戻って来られましたが、仙台には車で向かっていたのですが、その道中は不安で不安でたまらなかったです(苦笑)。

──仙台では一人暮らしだったんですか?

1カ月くらいで、奥さんと子どもを呼びました。

──お子さんも生まれていたんですね。まさに人生の決断。

みんなに言われましたよ。「やめとけ」、「今の生活を捨てるんか」って。

──それこそ、当時のフエルテにはFリーグから離れた水上洋人選手や水田選手もいましたよね。

そうなんです。Fリーグの選手として生活していく難しさを知っているからこそ、「お前の気持ちはわかるよ。でも、大丈夫? できるのか? 結果を出せるのか?」って言われました。

──選手として上を目指したい気持ちと、家族を含めた人生プランですよね。

そうです。でも、奥さんに相談した時は、「もう決まってるんやろ?」って言われた。

──すごく理解のある奥様ですね……。

「うん、決まってる」と伝えたら、「わかった」って。でも、それから奥さんのご両親にも話しに行かないといけなかったですし、自分だけのことではないですから、当時は本当に必死でした。

──仙台ではそんな想い背負ってプレーしていたんですね。最初にお話しされていた「大阪からオファーをもらえた時はうれしかった」という言葉に、より実感が込められていたことを感じます。

込もっていますよ。大阪の大森(洋)GMには、僕がFリーグから離れる時に「本当にやめるのか?もう戻って来られないぞ。もうちょっと頑張れないのか」と言ってもらいました。その頃の僕は「頑張れません」と言ってやめてしまいました。そんな自分に対してまたオファーをしてもらえて。認めてもらえたうれしさと同時に、ちゃんと成長した姿を大阪で見せたい、還元したいという気持ちでしたね。

──大阪に帰ってきたことで、フエルテの関係者とは何か話をしたのでしょうか?

はい、大阪に復帰する前にクラブの元OBやスタッフの方にも連絡しました。「去年は迷惑をかけました。大阪に戻ってきます」と。だから今はもう、後ろ指を刺されるようなことはないですね。

──胸を張って大阪に帰って来られた。

はい、本当によかったです。

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