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作成日時:2024.08.05
更新日時:2024.08.17

【連載】その4 小金井ジュール、井の頭くな、マルバ/その5 エスポルチ藤沢、ファイルフォックス、目黒FC/その6 ガロFC東京、ウイニングドッグ|第1章 チーム勃発|第1部 黎明期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ

第1部 黎明期

第1章 チーム勃発(1995年~1998年12月)

その4 小金井ジュール、井の頭くな、マルバ
その5 エスポルチ藤沢、ファイルフォックス、目黒FC
その6 ガロFC東京、ウイニングドッグ

その4 小金井ジュール、井の頭くな、マルバ

府中水元クラブ、アズーに続いて、第3勢力もこの頃から活発にフットサルに挑戦する。まずは「小金井ジュール」だ。小金井を拠点とする東京都社会人チームに所属するサッカー兼フットサルのチームである。フットサルではダイコクジュールの名前で東京都から出場する。監督は、梶野政志(のちに関東フットサル連盟委員長)で、選手には寺本尚史、原靖(のちに両者は関東選抜に選ばれる)などがいた。

続いて「井の頭くな」は、主に青山の神宮フットサルクラブ(コート)で活動、岡山孝介(のちにプレデター、バルドラール浦安、ペスカドール町田、しながわシティ、フウガドールすみだ監督など)、高島大輔(のちにイタリアに渡りセリエBでプレーなど)、嶋根明宏(のちにプレデター)らがいた。

神宮といえば、この時期、このクラブを拠点にフットサルも盛んに行うサッカーチームがあった。それは、1970年設立の関東社会人サッカーリーグに所属する名門チーム、エリースFCである。そのメンバーに、のちに多くの優秀なフットサルプレーヤーを輩出する「GALO☆FOOTBALL CLUB」(以下、ガロ)を設立する横田年雄がいた。しかし、そのガロが全日本選手権に参戦するのはもう少しあとのことである。また、塩谷竜生(のちのプレデター監督、バルドラール浦安代表)が率いるBoocchiというサッカーチームがあったが、このチームも神宮でフットサルをやっていた。その関係でのちにプレデターへ発展するわけであるが、これもまた少しあとのことである。

いずれにしても、神宮も競技フットサル発展にとってなくてはならない地であった。
茨城では、マルバの前身の「SHNHA&CO.+MALVA」がこの頃から登場し、県大会で優勝、関東予選に出場している。選手には、のちにマルバの監督を務める浅野智久がいた。浅野は中学時代、読売クラブ(現在の東京ヴェルディ)のジュニアユースに所属、その後ブラジルにサッカー留学した経験の持ち主で、日本代表候補にもなった。

1997年末、いよいよ第3回全日本選手権の関東地域予選が始まった。第3回から、開催地枠が設けられ、東京都予選優勝チームはストレートで決勝大会に進むことができ、都予選2位が関東予選にまわる仕組みとなった。

前回優勝の府中水元クラブは、都予選で優勝、順当に決勝大会進出を決めた。小金井ジュール(ダイコクジュール)は府中水元クラブに破れ、関東予選にまわり、「井の頭くな」はベスト8で都予選敗退となった。

一方、アズーは山梨で出場、県予選優勝を果たし、関東予選に出場した。関東予選ではダイコクジュールを下し、ついに決勝大会へ初出場、野望に一歩近づいた。この時、敗れたダイコクジュールは関東第2代表で決勝大会に進出している。

明けて1998年1月、第3回全日本選手権決勝大会が始まった。アズーは快進撃を続け、決勝に進む。その原動力になったのは眞境名オスカーであり、ブラジル時代にプロのフットサルチームであるコリンチャンスに所属していただけあって、本物のブラジルフットサル技術をチームにもたらした。準決勝はダイコクジュールを下し、ついに決勝に進む。しかし、決勝の相手は第1回全日本選手権の優勝チーム、ルネス学園甲賀サッカークラブであり、引いて守ってすばやいカウンターで点を取るミニサッカースタイルに敗れてしまった。ダイコクジュールは4位に終わっている。

ところで、都予選を勝ち抜いて決勝大会に進んだ府中水元クラブはというと、予選リーグで鹿屋体育大学サッカー部に引き分けたことが響き、得失点差で敗退に。ちなみに、難波田治(のちにファイルフォックス、大洋薬品バンフ、湘南ベルマーレ、東京都オープンリーグの闘魂など)はこの時、府中水元クラブのメンバーであった。

また、この時のルネス学園甲賀サッカークラブには、すでに紹介した藤井はもちろん、板谷竹生、原田健司(両者はのちにファイルフォックス)がいた。また、鹿屋体育大学サッカー部には安藤信仁(のちにカスカヴェウ、カフリンガ東久留米など)がいた。ちなみに、原田は現在の日本代表・原田快(こころ)の父親である。

この第3回大会に当時の横浜マリノス(現在の横浜F・マリノス)が参加していたことを知っているとしたら、相当のフットサル通といえる。第2回大会から日産自動車がスポンサーになったことから話題作りのために若手を中心に参戦したものであるが、準決勝でルネス学園甲賀サッカークラブに12-2で敗れている。のちに「フットサルはJリーガーのセカンドキャリア論」が起こったことがあったが、この時は、フットサル自体の知名度が低かったこともあり、マリノスの参戦はそれほど話題にならなかった。

さて、この頃の貴重な写真といえば、第2回大会の決勝戦など、たびたび笛を吹いた審判の松崎康弘を紹介しよう。第4回大会の決勝、ファイルフォックス対筑波大学蹴球部の時の写真である。松崎は、長らく一級審判員としてJリーグの主審を務め、その後は日本サッカー協会常務理事、フットサル委員会委員長、Fリーグ最高執行責任者(COO)となって、フットサル界をリードした。フットサル審判員制度が立ち上がったのは2000年のことであり、それまではサッカーの審判がフットサルの審判を兼ねていたのだ。

その5 エスポルチ藤沢、ファイルフォックス、目黒FC

1998年4月、選手権でアズーが準優勝を遂げたことに刺激を受け、新年度が始まると多くのフットサル専門チームが勃発する。また、フットサルの普及もこの頃から盛んになり、都府県レベルの地域リーグが発足、東京都では第1回のフットサルリーグが始まった。このリーグには、府中水元クラブ、小金井ジュール、目黒FCなどが参加した。

ちなみに目黒FCは、目黒を拠点とするチームで、のちに第4回アジア選手権日本代表・ヘッドコーチとなる原田理人が監督を務め、元セレッソ大阪で第3回アジア選手権日本代表の横山恵介、同じく元浦和レッズで第2回アジア選手権日本代表の須田芳正らを擁するチームで、無論、第4回アジア選手権に挑戦する。のちに目黒FCはIPD FCへと変わっていくが、フウガ(のちのフウガドールすみだ)と同じ目黒で少なからず因縁がある点は興味深い(フウガは当初FUGA MEGUROと名乗っていた)。

しかし、この年の大きなトピックスは、なんと言っても全日本選手権で準優勝したアズーの解散である。カスカヴェウの前身となるエスポルチ藤沢とファイルフォックスに分かれた。このフットサル三国志における2強が実は当初、同じチームであったことは大変興味深い。まずはアズーで悔しい思いをした甲斐は、さらに上を目指すためにチームの活動拠点をもっとアクセスの良い場所に移すことを決意した。そして、大塚のもとで藤沢、横浜あたりに拠点を移し、エスポルチ藤沢を創設したのだ。

メンバーには、先の選手権で知り合った、中学時代からブラジルサッカー留学経験をもつ市原誉昭(のちにプレデター、バルドラール浦安、ペスカドール町田、湘南ベルマーレ)が加わった。市原はブラジルのサッカー留学を終え、甲斐と同じくプロサッカー選手を目指すもそれが叶わず、選手権で知り合った甲斐に合流する道、すなわちフットサルの道を選んだのだ。エスポルチ藤沢は、神奈川から第4回全日本選手権に挑戦した。

一方、ブラジルフットサルをもたらしたオスカーは、かねてより日本のフットサルには監督が必要だと思っていた。そこに、鵜飼孝(のちにシャークス、ゾット早稲田のコーチなど)がトップでやらないかと誘ったことで、ファイルフォックスの設立を決意、府中に戻って府中人脈を中心に人材を集めることとなった。鵜飼は中学時代、読売クラブジュニアユースに所属、U-13の世界選手権、東海大菅生高校からブラジルサッカー留学を経験するなどの経歴をもち、これを機会にフットサルに転向するのであった。

この2人に府中水元クラブから上村、難波田、前田喜史(のちにカスカヴェウ、名古屋オーシャンズ、府中アスレティックFC、ペスカドーラ町田、徳島RAPAZコーチなど、現在はペスカドーラ町田のコーチ)、定永久男(のちに名古屋オーシャンズ、バサジイ大分、シュライカー大阪のGKコーチ)らが加わった。難波田と前田は高校が同級だった。また、定永は大阪の日系ブラジル人主体のチームでゴールキーパーをやっていたが、オスカーの人脈で誘われ、東京に出て来たのだ。彼らも第4回全日本選手権を目指す。

1998年夏、甲斐と市原は短期間ではあるが、ブラジルの「CASCAVEL」(カスカヴェウ)にフットサルの武者修業に出かける。誘ったのは、マリオ安光で、豊橋、天竜あたりでフットサルのスクールや大会開催、ブラジルへフットサル留学の斡旋などを主たる仕事にしていた。府中市と同じように豊橋、天竜地域も日系ブラジル人が多く働いており、フットサルが盛んに行われていた。そして府中市を中心とする関東地方とも情報チャネルを築きつつあった。

ちなみにCASCAVELは安光のブラジルの故郷の街で、サンパウロから西に500キロ離れた場所にある。実はこの近くには「LONDRINA」(ロンドリーナ)という街もあり、2つの街が日本のフットサルチーム名の由縁になっていることは興味深い。もっとも、ロンドリーナ(のちの湘南ベルマーレの母体)の立ち上げは2000年であり、甲斐と市原がカスカヴェウを訪れた時よりだいぶ後のことである。

さて、今回のお宝写真は、〝ミスターフットサル〟こと上村信之介である。すでに何度も上村の名前は出現しているが、藤井健太と同様、第1回全日本選手権から出場、日本代表も経験したいわゆるレジェンドの1人である。上村のテクニックは天才的で、〝これぞフットサル〟を体現し、見る者を魅了した。

誰がいつから名付けたかは不詳だが、ミスターフットサルの称号にふさわしい。この写真は第2回全日本選手権の決勝で、府中水元クラブが三菱黒崎フットボールクラブを4-1で下して優勝した際のインタビューのものである。この時、上村は4点中3点を挙げているが、どれも素晴らしいテクニックによるものであった。

その6 ガロFC東京、ウイニングドッグ

神宮を拠点に活動していたエリースFCの横田年雄もいよいよ立ち上がる。設立当初は東京都だったが、関東社会人サッカーリーグの名門エリースFCのメンバーと一緒にガロを設立したのだ。東京にこだわり、正式には「GALO FC東京」と命名した。

陣容は、横田はもちろんのこと、監督兼選手として横浜マリノス出身の河上哲也、下山修平、村松淳二(両者はのちにシャークス)、関新(のちにシャークス、湘南ベルマーレ、カフリンガ東久留米)、石渡良太(のちにシャークス、ペスカドーラ町田、ファイルフォックス、現在は町田のGKコーチ)、伊藤淳(のちにエスポラーダ北海道、ステラミーゴいわて花巻)などがいた。ガロは、横田の理論派にして熱血指導により、のちに多くの若手優秀選を輩出した。

例えば、横江3兄弟といわれる塁(ルイ)、怜(レオ)、亮(リオ)は有名で、怜はペスカドーラ町田でプレーしてFリーグ初代得点王となり、日本代表にも選出された。また、塁は、グアムのフットサル代表監督を務めたこともある経歴の持ち主で、のちにFC東京のサッカースクールコーチ(フットサル担当)となった。他にも、怜と同じく日本代表にもなった小山剛史(のちに名古屋オーシャンズ、府中アスレティックFC)、西野宏太郎(のちにシャークス、シュライカー大阪、リガーレ東京など)ら、そうそうたるメンバーがガロ出身である。元日本代表・滝田学もガロ出身で、のちに府中アスレティックFC、ペスカドーラ町田でプレーしたことは周知である。

横田はそののち、フットサルスクール横田塾の立ち上げや、GALO NOTEなるブログでフットサルの質を啓蒙、フットサルの普及に貢献した。

1998年5月、神奈川県川崎市を拠点にするチームに、のちにアジア最優秀選手まで昇りつめる18才の新人が入団した。チームは「ウイニングドッグ」で、選手は木暮賢一郎(のちにファイルフォックス、名古屋オーシャンズ、シュライカー大阪監督、フットサル日本代表監督を務めた)。ウイニングドッグは当初、川崎市社会人リーグに所属するサッカーチームだった。1997年、小原拓也、小原信也の兄弟で創設。信也は、中学時代に読売クラブジュニアユースに所属し、高校卒業後はアルビレックス新潟でプレーしたことのある実力者であった。

木暮は大学受験浪人している時期に、読売クラブジュニアユースの先輩である信也に誘われ、ウイニングドッグに参加。練習コートが家から近かったこともある。

ウイニングドッグも他のサッカーチームと同様に遊びでフットサルに取り組んでいたものの、民間大会で優勝するにつれ、次第にフットサルにのめり込んでいった。とりわけ、アズーからエスポルチ藤沢に移行しつつあった甲斐、市原らの影響がある。

偶然にも横浜市営地下鉄センター北にあるフットサルコート、フットサルクラブ横浜で両チームは練習しており、交流が生まれたのだ。

ウイニングドッグは、彼らの練習ぶりを見て、今まで民間大会で数多く優勝してきた自分たちのフットサルはなんだったのかというほどに衝撃を受けた。木暮も当初は大学に入ったらサッカーに戻るつもりでいたが、フットサルに興味をもつようになったのである。そして、第4回大会の選手権に挑戦することになるが、エスポルチ藤沢との競合を避け、東京からのエントリーを選んだ。この時、木暮の小学校時代の同級、国学院でサッカーをやっていた岩田雅人もサッカーをやめ、ウイニングドッグに参加した。岩田はのちに木暮とともにファイルフォックスに移籍する。岩田はその後、湘南ベルマーレで「Fリーガー」になったが、その後はファイルフォックスに復帰し、若手の支えになった。

このガロとウイニングドッグは少なからず因縁がある。選手権の東京都予選でお互い初出場で初対決。両者はその後もいくつかの死闘を演じることになるのだった。

今回の貴重な写真は、のちのことになるが、伝説のリーグ「スーパーリーグ2001」のガロの集合写真である。前列向かって右側が横田である。元々ガロとはブラジルのサッカーチーム、「アトレチコミレイロ」の愛称であるが、左上スミの星のマークも南十字星を表していて、横田の強烈なフットボール王国ブラジルへの憧れが込められている。

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