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作成日時:2024.08.06
更新日時:2024.08.17

【連載】その1 ファイルフォックス初優勝/その2 第1回アジア選手権/その3 追うカスカヴェウとそのスポンサー|第2章 ファイルフォックス時代|第1部 黎明期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ

第1部 黎明期

第2章 ファイルフォックス時代(1998年11月~2000年2月)

その1 ファイルフォックス初優勝
その2 第1回アジア選手権
その3 追うカスカヴェウとそのスポンサー

その1 ファイルフォックス初優勝

1998年11月、いよいよ第4回全日本選手権大会の東京都予選が始まった。その決勝トーナメント1回戦、ファイルフォックス(大会参加名は「FIREFOX IPANENA'S」)は、井の頭くなを一蹴する。続いて小金井ジュールを下して、準決勝で府中水元クラブと対戦する。ファイルフォックスの勢いは止まらなかった。このまま、府中水元クラブも破って決勝へ。優勝すれば開催地枠でストレートに決勝大会へ進める。

もう一方の山では、初出場同士のガロ対ウイニングドッグが決勝トーナメント1回戦で当たった。結果は乱打戦となり、サッカーに一日の長があるガロが10-6で勝利、準決勝に進む。

しかし、そのガロもサッカーの東京学芸大学蹴球部に破れ、東京都予選敗退となってしまう。ガロもウイニングドッグもこの敗戦をきっかけにサッカーを脱して、本格的にフットサルに取り組み、のちには関東予選で対決するまでに成長するのであった。

決勝はファイルフォックス対東京学芸大学蹴球部となり、ファイルフォックスが勝利、ストレートで決勝大会出場の切符を手に入れた。

続いて12月、関東予選が開催された。

エスポルチ藤沢は神奈川県予選で優勝し、関東予選に進出する。しかし、府中水元クラブがファイルフォックスに破れ、関東予選に回って来たため対戦することになり、なんと敗戦してしまう。刺激を受け、十分研究した府中水元クラブに敗れるという皮肉な結果になったのだ。

だが、その府中水元クラブも決勝で筑波大学蹴球部に破れ、4回目にして選手権出場を逃してしまう。この結果、以降は選手権に出場することなく、第3勢力に甘んずることとなる。

こうして、第4回全日本選手権大会の予選大会は、三国志1強のファイルフォックスが生き残り、もう1強のカスカヴェウの前身とも言えるチームのエスポルチ藤沢は敗れ、第3勢力の府中水元クラブ、小金井ジュール、のちのプレデターにつながる井の頭くな、ウイニングドッグ、ガロらも決勝大会進出は叶わず、それぞれの思いで、1998年を終えることとなった。

明けて1999年1月、第4回大会が始まった。初出場のファイルフォックスは、府中水元クラブから移籍した定永久男、上村信之介、難波田治、前田喜史、渡辺英明(のちにフトゥーロ)らの設立メンバーに加え、オスカー人脈で日系ブラジル人の「助っ人」を補強、イパネマズKOWAからダニエル大城、比嘉リカルド(元アルビレックス新潟、のちにデウソン神戸、ヴォスクオーレ仙台、立川アスレティックFC、しながわシティ監督)なども加わり、戦力に厚みを増して出場している。

この結果、次々とサッカーチームを破り、ついに初出場、初優勝してしまう。決勝の相手は、関東予選で府中水元クラブを破った筑波大学蹴球部であった。前半7分、上村のなめるような左サイドのドリブル突破から右のファーに決める先制点で勢いに乗り、「助っ人」大城のハットトリック、難波田の強烈なトゥーキックのミドルシュートなど、終わってみれば6-2と圧倒した。ちなみに、前回大会でアズーが決勝で敗れたルネス学園甲賀サッカークラブの卒業生で藤井健太を中心に構成するアスパも予選リーグで下している。

優勝の要因は、監督のオスカーも含め、日系ブラジル人の影響が大きく、ブラジルを源流とする彼らの卓越した足元の技術、ゴール前の決定力はファイルフォックスのみならず、日本のフットサル界になくてはならない存在となった。

大城はのちに兄のエジバウドと群馬県大泉にブラジルフットサルセンターなるコートをオープンし、日本人との交流大会の開催を通じて日本フットサルのレベルアップに貢献した。比嘉リカルドは、のちに帰化して日本代表に選ばれ、キャプテンを務めるなど同じく日本のフットサルのレベルアップに貢献した一人である。

今回の貴重な写真は、優勝カップを手にするファイルフォックスのこの2人、若き日のオスカー監督と、のちに闘将と言われるとは思えないほど初々しい難波田である。難波田はこの時まだ22歳であったが、すでにキャプテンマークを巻いている。キャプテンシーはその後もいかんなく発揮され、ファイルフォックスを4度の選手権優勝に導いたのであった。また、2000年代前半の日本代表の中心選手としても活躍した。

その後、東京都3部リーグの「闘魂」を立ち上げ、楽しむ競技フットサルにチャレンジしている。この「闘魂」には、かつてFリーグで活躍したレジェンドたちが参加し、話題になったものである。9年目を迎えるFリーグの開幕戦のエキジビジョンマッチに出場し、年齢がそうさせたのか強シュートでならした難波田らしくない華麗なキーパーの股を抜くゴールは、観客を大いに沸かせたものである。

ちなみに難波田は小学校教員になったあと、学習塾を立ち上げ、経営のかたわら、現在は、ペスカドーラ町田のコーチを務めている。

その2 第1回アジア選手権

1999年2月になると、もう一つの大きな大会に向けてフットサル界が動き出した。3月5日からマレーシアのクアラルンプールで開催される第1回アジア選手権である。1カ月前に行われた第4回全日本選手権大会が選考の場になり、監督は日本サッカーリーグ(JSL)のフジタでプレーしたマリーニョ(のちにトヨタ)、コーチに目黒FCで元浦和レッズの須田芳正、ファイルフォックスからはGKの定永、エスポルチ藤沢からは同じくGKの金沢信二、フィールドはファイルフォックスから上村信之介、府中水元クラブから中村俊仁、エスポルチ藤沢から市原誉昭、相根澄らが選ばれた。

アスパからは藤井と原田健司が選ばれ、グレートホッチポッチから安藤信仁が選ばれている。グレートホッチポッチは、第3回大会では鹿屋体育大学サッカー部で出場していた卒業メンバー中心で構成されたチームで、第4回大会では3位になっている。なお、ファイルフォックスの前田、難波田も選ばれたが怪我で辞退した。

あらためて記念すべき第1回のフットサル日本代表を紹介しよう。
(所属はいずれも当時)

監督:マリーニョ
コーチ:須田芳正(目黒FC)
選手:
GK 定永久男(ファイルフォックス)
GK 金沢信二(エスポルチ藤沢)
GK 若林孝治(清水市役所)
FP ラモス瑠偉(元Jリーガー)
FP 安藤信仁(グレートホッチポッチ)
FP 原田健司(アスパ)
FP 向薗泰洋(NTT 九州)
FP 市原誉昭(エスポルチ藤沢)
FP 上村信之介(ファイルフォックス)
FP 相根澄(エスポルチ藤沢)
FP 中村俊仁(府中水元クラブ)
FP 藤井健太(アスパ)

ところでなんといっても特筆は、元Jリーガーのラモス瑠偉がマリーニョ人脈から選ばれ、出場したことである。このことは、のちに何度となくフットサル界とJリーグとの関係が議論されるきっかけとなった。

結果であるが、日本はカザフスタン、マレーシア、ウズベキスタンと同組のグループBに入った。グループAは強豪イラン、タイ、キルギスタン、シンガポール、韓国である。予選リーグは、1勝2分けで辛うじて2位で決勝トーナメントに進出。しかし、決勝トーナメントはA組1位のイランに2-5で敗戦、3位決定戦でもカザフスタンに2-2からPK戦で敗れ、4位に終わった。残念ながらラモス効果は発揮できなかった。

実は、この大会は、2000年にグアテマラで開催予定の第4回FIFAフットサル世界選手権のアジア予選を兼ねるはずだったが、決定は都合により次回に持ち越された。結果的に日本はもう一度チャンスを得た(3位までが世界選手権に出場できる)。

ちなみに、対戦成績と得点者を紹介する。藤井が7得点と大活躍、ラモスも2得点と存在感を示した。

・予選リーグ
△日本 5-5 マレーシア 藤井3、中村、上村
◯日本 4-1 カザフスタン 藤井、安藤、ラモス、相根
△日本 5-5 ウズベキスタン 藤井2、市原2、上村

・決勝トーナメント
⚫︎日本 2-5 イラン 中村2
⚫︎日本 2(PK3-4)2 カザフスタン 藤井、ラモス

大会後の周囲の評価は、強豪イランに2-5と、敗れたものの予想したほど大差ではなく、3位決定戦もPK負け、これならば次回は3位には入れるだろうくらいの楽観論があった。結果的にはそれが命とりになるのだが……。

サッカー日本代表サポーターで有名なウルトラス・ニッポンの植田朝日もラモスつながりか、現地で応援をしていた。植田はのちに「ボンボネーラ」、ボカならぬ「バカジュニアーズ」などのフットサルチームを立ち上げ、少なからずフットサル界に影響を及ぼした。

ところで、当時のアジアカップは日本のフットサル界にとってどんな位置付けだったかを記しておく。2008年までは毎年開催されていたが、2010年からAFCフットサルクラブ選手権が始まったため、2年に1回になった。アジアナンバーワンを決める国同士の大会であるが、4年に1度のワールドカップ開催の時はアジア枠の代表を決める予選大会でもある。

今回のお宝写真は、中村恭平氏に提供してもらった記念すべきアジアカップ選手権第1回大会の代表メンバーの集合写真である。

中央にキャプテンマークを巻くラモス、向かって右から安藤、市原、2列目中央に原田、後列左から藤井、相根、中村、上村らの、今でいうレジェンドたちが映っている。

ここで、あらためてアジア選手権がフットサル界にどのような影響を及ぼしたのか振り返ってみよう。

まず、フットサルの原点は「する」にあるため、エンジョイ志向層のいわゆる「する」フットサルに対する影響力はどうであろうか。エンジョイ層の増加につながったのか。

残念ながら、当時は日本代表の試合が始まったばかりなので望むべくもないが、2回、3回と開催が進み、今となってもフットサル施設関係者の話を聞くと厳しいという。簡単にいえば、エンジョイ志向層の多くは、見るのはサッカー、するのはフットサルと割り切っており、サッカーに刺激を受けて「する」ことはあっても、フットサル日本代表の試合には無関心が多いという。

実際、2002年の日韓ワールドカップの頃、フットサル施設は飛躍的に増加した。

次に、「見る」フットサルの位置付けはどうであったろうか。サッカーでは、日本代表戦を数多く日本で開催し、これが「見る」サッカー人口を増やしてきた。しかし、フットサルは残念ながら日本での開催が少ない。

これも第1回、第2回の同時に論ずることは早すぎるが、今となっても日本で開催される国際親善試合は、年間1回程度であり、アジア選手権などの壮行試合の意味合いが強いものである。残念ながら、日本代表があるからと言って、「見る」フットサルの人口増加にはなかなかつながっていないのが、今も昔も変わらない現状である。

では、当時の日本代表はどんなインパクトをもたらしたのだろうか。率直にいえば、〝早く簡単に日本代表になれる機会〟を選手に与えたということである。黎明期のマイナースポーツがオリンピック種目になり、オリンピック選手になれることがエキスパートを生み出す原動力になる理屈と同じである。

簡単にというと当時の日本代表選手には失礼に当たるかもしれないが、少なくともサッカーの競技志向プレーヤー人口の多さに比べると、圧倒的にフットサルのそれは少なかったので、確率的に可能性が高い。そのインパクトは大きく、遊びやサッカーの延長線上でフットサルを見ていた選手たちを専門フットサルプレーヤーへと駆り立てたのだ。この原動力は図りしれないものがあり、現在のFリーグにつながったことは間違いない。

もっとも、サッカーのように学校あるいは企業の厳しいピラミッド構造の淘汰の仕組みによってふるいにかけられて選出されたわけではないし、無論プロでもないから、サッカーを見てきた世間一般からすると、戦いぶりやモチベーションに物足りない印象を受ける。この大会は世界選手権がかかっていなかったので結果が4位だったことへの批判も少なかったが、次の大会では、簡単に日本代表になれてしまったかのように言われ、選手のモチベーションに批判が集中するのであった。もっとも、まだ全国リーグすらない状況でプロのJリーグと比べられても、といったものであったが……。

その3 追うカスカヴェウとそのスポンサー

1999年3月、記念すべき大会が開催される。それは、関東フットサルリーグ(以下、関東リーグ)のプレ大会である。関東リーグの正式な第1回大会は翌年の2000年3月であるが、事前準備の大会が開かれたのである。

参加チームは府中水元クラブ、ウイニングドッグ、エスポルチ藤沢、小金井ジュール、目黒FC、マルバなどである。この時の優勝はウイニングドッグ、2位は小金井ジュール、3位はエスポルチ藤沢、4位は府中水元クラブとなっている。

この大会のあと、甲斐は、最強のチーム作りを目指し、エスポルチ藤沢と決別。カスカヴェウを立ち上げる。これに、市原、相根、安田がついていくことになり、ファイルフォックスから前田、グレートホッチポッチから安藤、サッカー社会人リーグに所属する九曜クラブの縁でGKの遠藤晃夫(のちにファイルフォックス)らが合流した。

拠点はファイルフォックスと真っ向勝負を選んで東京に移し、東京体育館と羽田にある東京ベイフットサルクラブを主な練習場にした。この東京ベイフットサルクラブは、バンフスポーツゼネラルマネージャーの櫻井嘉人(株式会社バンフスポーツ社長、のちの名古屋オーシャンズのゼネラルマネージャー、社長)が運営するフットサルコートであった。そこでカスカヴェウと櫻井は出会い、ほどなく、カスカヴェウはバンフスポーツのスポンサードとなる。

バンフ、すなわち櫻井の野望はここから始まったのだが、それが実を結ぶにはしばらく時間がかかった。

ちなみに、この東京ベイフットサルクラブの現場運営には川前真一(のちに日本フットサル施設連盟事務局長、スポーツ関連企画運営会社の株式会社リンクアンドシェア社長)が携わっており、その経験から、のちにフットサル施設業界の発展に尽くすのであった。日本フットサル施設連盟は、2003年4月に設立されている。

この頃からフットサル施設が競技志向チームになんらかの支援を行うことが広まった。山中湖スポーツセンターのアズーに始まり、FUNフットサルクラブのファイルフォックス、横浜フットサルクラブのエスポルチ藤沢、ウイニングドッグ、そして東京ベイフットサルクラブのカスカヴェウ、なかには「フットサル世田谷」のようにコート名を冠にするチームも現れた。関西ではアスパがその例である。

なお、フットサル世田谷はのちに女子の「パラレッズ」、FUNフットサルクラブは「FUNレディース」のスポンサーにもなり、女子フットサル界の発展に貢献した。

支援内容の多くは練習コートの提供、選手を運営スタッフとして雇用、フットサルクリニックの開催などであるが、アマチュアチームにとっては貴重な支援となり、競技フットサルのレベルアップに貢献したといえる。施設にとっても、集客や長い目で見たフットサルの普及などのメリットがあった。

しかし、この支援関係は矛盾もはらんでいる。公式競技は室内で行うものであるから、お手本とする競技志向のチームが室内、すなわち公共施設に流れるのではないかという心配と、次第に競技志向とエンジョイ志向の差がはっきりしてくると集客効果も薄れるからである。また、チーム側も公共施設の開放が進むにつれ、公共施設利用を重視した。

フットサルチームの応援といえば、シューズ、ユニフォームなどの用品サプライヤーのスポンサーもこの頃から盛んになっていった。アスレタとカスカヴェウ、トッパーとファイルフォックスの関係は、フットサルブーム到来もあって、相互に大きなメリットをもたらした。

とりわけ、ユニフォームのアスレタは、のちにカスカヴェウの優勝で大ヒット商品に成長する。アスレタは株式会社アスレタの社長、丸橋一陽がデザインしたもので、すでに消滅してしまったブラジル代表のコーヒー豆のロゴを復活させたことで有名である。ヒット要因は、ブラジルのコーヒー袋で見かける親しみやすいロゴと、ブラジルのテイスト、そしてTシャツ風ユニフォームが、街で着たままフットサルができるフットサルの〝いつでもどこでもスタイル〟にぴったりマッチしたからであろう。

今ではフットサルにとどまらず、街着としての地位を確立し、サッカーブランドとしても認知を強めている。なんでも、アスレタを新宿のスポーツショップ、ギャラリー・2に持ち込んだところ、ヒットした時は、3、4カ月で5000枚近く売れたという。カスカヴェウ、アスレタ、ギャラリー・2の関係は、ペスカドーラ町田となっても続いた。

今回のお宝写真は、当時のアスレタ製のカスカヴェウのユニフォームである。

関東リーグ時代のユニフォームで、黒と白の縦ジマの強いイメージを懐かしく感じるオールドファンも多いのではないだろうか。向かって左胸にはアスレタのロゴ、右胸にはガラガラ蛇のエンブレムが入っている。縦ジマは、のちに登場するブラジルのチャンピオン、衝撃のアトレチコ・ミレイロの縦ジマを採用し、がらがら蛇のエンブレムは、チーム名の由来となったブラジルのカスカヴェウの町のシンボルをイメージしたものだという。いずれも強くブラジルの影響が出ているものである。

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