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作成日時:2024.08.07
更新日時:2024.08.17

【連載】その4 両雄と日系ブラジル人/その5 登竜門の大会/その6 アトレチコミネイロの衝撃|第2章 ファイルフォックス時代|第1部 黎明期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ

第1部 黎明期

第2章 ファイルフォックス時代(1998年11月~2000年2月)

その4 両雄と日系ブラジル人
その5 登竜門の大会
その6 アトレチコミネイロの衝撃

その4 両雄と日系ブラジル人

1999年4月、静岡県の浜松アリーナにて、珍しい大会が開かれた。日本の競技フットサルのレベルアップに大きく貢献した大会と言っても過言ではない、「コパジャル」(COPA JAL、ジャルカップとも言う)である。

日系ブラジル人のチームに混じって日本人チームが参加するカップ戦で、甲斐にブラジルのフットサル留学を薦めたマリオ安光が主催者である。もともと、日系ブラジル人だけの大会だったのだが、日本のフットサルの普及状況を見て、日本人チームの参加を呼びかけた。スポンサーは日本航空のブラジル旅行専門の代理店「JINTER」でブラジル旅行客の集客を目論んでのことであるが、フットサルの普及において、社長・吉村恭悟の功績は大きい。

この大会に、ファイルフォックス、カスカヴェウが出場したが、ファイルフォックスは4位、カスカヴェウは予選リーグ敗退で終わっているから、いかに日系ブラジル人チームの実力が高いかがわかる。

優勝した日系ブラジル人チームは、群馬を拠点とするイパネマズKOWAで、ダニエル大城、のちにプレデターやウイニングドッグの助っ人参加したこともあるシーナ、それとオスカーも変則的にファイルフォックスから参加していた。このチームは3カ月後に開催される日系ブラジル人チームと日本人チーム混在の通年リーグ、リーガ天竜でも優勝していて、当時はおそらく日本一のチームだったに違いない。

そのリーガ天竜であるが、1999年7月、天竜市の天竜体育館を拠点に始まった。天竜市は2005年に浜松市に編入されたが、体育館の場所は、東名高速の浜松インターから約1時間ほど天竜川を上ったところにある。主催はのちにウイニングドッグの監督、アグレミーナ浜松の設立にもかかわったマリオ安光である。日系ブラジル人チームに混じって日本人チームも参加を呼びかけて7月にスタートし、翌年の1月までの全6節の通年で戦おうというものであった。

リーグは1部と2部があり、1部は9チーム、日本人チームはファイルフォックス、カスカヴェウ(スポンサーの関係で「ピットスポット」の名称で出場)、関西からアスパ、府中水元クラブ、2部は10チーム、日本人チームはウイニングドッグが参戦している。

余談になるが、このリーグに足繁く通い、フットサル記事を書くライターらしき人物がいた。それは翌年、日本初のフットサル専門誌「フットサウマガジン ピヴォ!」を創刊した編集長の山下浩正であった。のちにメディアとしてフットサル界に大きくかかわるわけであるが、原点は天竜の地だったかも知れない。

コパジャルおよびこのリーガ天竜は当時の日本人チームのレベルアップに大きく貢献した。理由は、日本人チームとブラジル日系人チームと混在であるから、当然、日本人チームは本場のブラジルフットサルを勉強できた。何よりも、あたかもブラジルへ行ったような雰囲気を味わえる点、日本人チームのモチベーションは上がったものである。

次に、ファイルフォックス、カスカヴェウ、アスパ、府中水元クラブなど日本ではトップクラスのチームが関東、関西から車で3時間あまりもかけて通うほどレベルが高いという点である。

3点目は、期間は比較的短いが、通年制を取っていたこと。いわゆるリーグ戦の特長として、長期に渡って真の実力を発揮できる場であった。当時は、通年リーグはまだ少なく、実は、このリーグがのちにスーパーリーグを生み出す原動力となっていた。

日本人チームの成績であるが、カスカヴェウが2位に入る健闘を見せたが、やはり3時間の車移動のハンデもあり、ファイルフォックスは4位、府中水元クラブが5位、アスパは6位に終わった。2部のウイニングドッグも成績はふるわなかった。それでも、本場ブラジルのフットサルが少しでも学べる点は魅力的で、第2回以降もプレデター、ガロなどが参入した。

優勝は、コパジャルに続いてイパネマズKOWAであった。メンバーには大城、比嘉、ジョナス、山崎チアゴらがいた。

大城、比嘉の名前でわかるとおり、彼らはオスカーつながりでファイルフォックスの助っ人で、選手権になると顔を出していた。大城は日系ブラジル人の街、群馬の大泉町にブラジルフットサルセンターというフットサル施設を経営し、同じく日系ブラジル人チームと日本人チーム混合の大会やリーグを開催している。

ちなみに9月に行われた大会にはカスカヴェウ、ウイニングドッグ、プレデターが出場。なお、イパネマズKOWAはその後「BFC KOWA」へと発展、のちに群馬県より関東リーグ2部に昇格している。

コパジャル、リーガ天竜、ブラジルフットサルセンターの大会などを通じて、日本人チームと日系人チームの交流が盛んになり、この頃から日系ブラジル人が日本人チームのメンバーに助っ人で入ることが多くなってきた。

例えば、翌年の選手権のウイニングドッグは監督にマリオ安光、選手では「シ ブラジル」のシャンジ、プレデターでは大城、シーナなどである。それには理由がある。日系ブラジル人にとって、日本の選手権やリーグ戦に出場することは彼らの存在感を示すことになり、名誉であることと、場合によってはアルバイト料が入るメリットがある。

一方、日本人チームにとっては即戦力の補強である。しかし、必ずしも成功するわけではない。やはり、選手権だけの即席ではチームワークに難があり、日系ブラジル人選手が孤立してしまうケースも多く、逆に弱点になってしまう場合もあった。

さて、その後はというと、残念ながら日系ブラジル人の姿は関東では少なくなった。当時から年月が経過し、経済情勢も大きく変化した。少なくとも関東リーグではもはや復活は望めないだろう。

今回のお宝写真は、知る人ぞ知る浜松市の天竜体育館で繰り広げられたリーガ天竜の日本人チームと日系ブラジル人チームの熱き戦いの一コマである。

試合当日は、体育館入口前にブラジルのガラナジュースやシュラスコなどの店が出る。体育館の中はポルトガル語の簡単な選手名鑑が配られ、ポルトガル語のポスターが掲示され、審判も、観客も日系ブラジル人など、外も内もブラジルで試合をしている雰囲気が醸し出されていた。ちょうど、ブラジルやスペインの2部クラスの小さな街の体育館の雰囲気に極めて似ているのだ。選手たちにとっては、東京を早朝に出て、東名高速を走り、時には2試合をこなして舞い戻る強行軍だったが、ブラジルフットサルに触れることができる至福の時だったに違いない。

その5 登竜門の大会

1999年5月、新しい試みの大会が沼津で開催された。第15回全国選抜フットサル大会である。それまでの選抜大会は地域から選抜されたチーム同士の大会であったが、この15回大会から地域の個人が選ばれ、その選抜チーム同士で優勝を争う大会に変わったのである。逆に、地域の選抜チームの大会はのちの地域チャンピオンズリーグとなった。ちなみにその前までの選抜大会の優勝チームは、12回、13回が府中水元クラブ、14回がアスパとなっている。

サッカーだと国体があって、それが選手個人の励みや個人の発掘につながるが、フットサルには国体がない。本大会はその替わりの役割を狙うものであった。しかしながら、実際この時に選抜チームを組めた地域は北海道と東京だけで、まだフットサルの普及が進んでいないことがうかがえる。

もう一つ、本大会の目玉は、第1回アジア選手権の日本代表メンバーのほとんどが日本フットサル連盟推薦の日本選抜として出場している点であった。

結局、決勝は日本選抜と関東選抜の戦いとなり、3-2で日本選抜が勝利して日本代表の面子を保った。しかし、1点差であったこと、内容的に遜色なかったことから、戦った関東選抜の選手はもちろんのこと、観戦していた他チームの選手も日本代表が手に届くところにあると感じたのではないだろうか。

その関東選抜には、ファイルフォックスから前田、エスポルチ藤沢から黒岩文幸、甲斐、広山晴士、安田和彦、ウイニングドッグから小原拓也、小原信也、木暮、府中水元クラブから鞁島三郎、歳森浩一郎、小金井ジュールから寺本尚史、原靖、目黒FCから横山恵介らが選ばれている(なお、この選抜は3月に行われた関東リーグプレ大会が選考基準となっているため、その時のチーム名で表記)。

ちなみにこの選抜大会の目論見に合致した選手が木暮で、彼は関東選抜に選ばれ、日本選抜と戦ったことが、サッカーからフットサルへ転向したきっかけになったという。19歳の時であった。

1999年6月、当時の民間大会として規模、参加チームの実力とも最高峰と思われる「第1回FDCカップ」の決勝大会が山中湖スポーツセンターで行われた。春頃から全国で予選が始まり、日本一を競うものである。

主催は株式会社セリエ、大会スポンサーはフットサルダイジェストで、予選からの結果が本誌のフットサルコーナーに掲載されるので、競技志向の選手にとっては励みになる大会であった。まだ、フットサル専門誌のフットサルマガジン ピヴォ!が創刊されていなかったため、いわゆる定期刊行物のマスメディアに掲載される唯一のフットサル大会だったのではなかろうか。

なお、セリエはサッカー大会の運営、サッカーの海外応援ツアーの旅行を主催していたが、のちにフットサル日本代表の応援ツアーも手がけることになる。

この第1回大会の優勝はカスカヴェウであった。ちなみに第2回大会の優勝はウイニングドッグ、続いてEstrela、BFC KOWA、フトゥーロ、カフリンガと続くが、優勝チーム名から見てもわかるとおりレベルの高い大会で、当時としては強くなりたい、あるいは目立ちたいチームの登竜門となる大会であった。

ちなみに、翌年の2000年8月には、同じくメディアと結びついた登竜門の大会、「第1回ピヴォ!チャンピオンズカップ」が開催されている。

余談になるが、FDCカップの優勝チームは、セリエが主催する日韓親善フットサル大会に出場できる副賞があった。カスカヴェウは韓国に遠征し、そこでも優勝を果たしている。この時、同時に女子の日韓親善フットサル大会も行われ、そこに参加していたのが、女子の強豪チームでのちに第1回全日本女子フットサル選手権大会で優勝するパラレッズであった。彼女たちが本格的に競技フットサルに転向した理由は、この大会でカスカヴェウの試合を見て刺激を受けたからだという。こんなところにもカスカヴェウの影響が出ている。

今回の貴重な資料は、第15回全国選抜フットサル大会のパンフレットから抜粋した主要地域の選抜メンバー表である。北海道選抜を見ると、エスポラーダ北海道の監督を務め、ゼネラルマネージャーを経て現在は一般社団法人日本フットサルトップリーグの専務理事を務める小野寺隆彦の名前がある。

また、GKの角田麻人は、のちに上京してウイニングドッグに加入、その後シャークスに移籍した。2000年7月に行われたFCバルセロナと日本選抜の親善試合のメンバーにも選ばれている。関東代表では前述した木暮の他、その頃の関東の競技フットサルをけん引するメンバーが多数選ばれている。

日本フットサル連盟(以降、JFFと称す)が推薦した日本選抜は、ほぼその年の2月に行われた日本代表のメンバーであるが、注目すべきは、同じJFF推薦の「MINATODANI.FC」(静岡、のちに田原FCと改名)のメンバーである。

のちの名古屋オーシャンズ、日本代表GKの川原永光、のちに第4回アジア選手権の日本代表、その後、アグレミーナ浜松の運営会社社長にもなった和泉秀実、のちにアグレミーナ浜松監督になった前田健一などの名前がある。まさに登竜門の大会であった。

その6 アトレチコミネイロの衝撃

1999年8月15日、急速にレベルアップしたはずの日本フットサル界を驚かす衝撃的な試合が東京の駒沢屋内球技場で行われた。ブラジルのプロフットサルチーム、アトレチコミネイロと、ファイルフォックスとカスカヴェウ合同チームの試合が行われたのである。アトレチコミネイロは、当時のブラジルリーグの優勝チームで、ジーコフットサルクラブ(ジーコブランドのフットサルスクール運営団体)の設立イベントで来日したのだ。

アトレチコミネイロは、ブラジルの国内リーグ優勝、トビアス、ファルカン、レニージオ、インジオ、エウレオ、レナトなどブラジル代表メンバー、もしくは同クラスを擁するチームで、今でも滅多にブラジル代表との試合はお目にかかれないことを考えると夢のようなチームである。

そのチームと国内最強の2チーム合同チーム、いわば日本代表チームが戦うのであるから、その試合を見逃すまいと駒沢屋内球技場には多くの観客が集まった。

日本チームのメンバーは、ファイルフォックスから上村、渡辺、原田、GK定永、カスカヴェウからは甲斐、前田、相根らが出場した。日本チームの先発は、甲斐、上村、前田、相根、GK定永、これはこの時点では日本選手としてベストメンバーに近い。

アトレチコミネイロの先発は、トビアス、レニージオ、ファルカン、インジオ、GKシダオ、これはブラジル代表メンバーである。奇しくも日本代表対ブラジル代表戦の様相を呈していたというわけである。このことは、極めて重大な意味を持つ。なぜならこの時、日本代表はアジアの国としか戦ったことがなかったからだ。世界基準を経験する機会は民間の手によって先にもたらされたということである。

試合は序盤からブラジルがボールを支配する。そのうえで、彼らは極めてシンプルに攻撃を仕掛けてきた。支配力からDFを引きつけ、あとはダイレクトかワンタッチでDFを引きはがして、ぽっかり空いたスペースに選手が入り込み、シュートというパターンである。

日本は前半だけで10点を奪われ、ようやく後半、ドリブル突破に活路を見出し、中上拓也(マグ、カスカヴェウ)のゴールで1点を返したが、1-14の大差で敗れてしまった。今でこそ、日本とブラジル、スペインの代表戦でそのくらいの大差がつく可能性があることは知っているが、当時は世界基準を知らなかったので、まさに衝撃であった。

ちなみに、前日には日系ブラジル人選抜とアトレチコの試合が行われたが、こちらも2-17の大敗であった。日系のメンバーは、大城、ジョナス、ドゥダ、山崎、シャンジらベストメンバーであったから、いかに日本と世界に差があるかということを2日間に渡って思い知らされたことになる。

小気味いいほどのダイレクトパスやワンタッチの簡単で正確なパスに翻弄され、最後は無人のゴールに決められるものであった。「さわやかに負けた」と言うと語弊があるが、ブラジルのすごさに感嘆したものである。

考えてみると、第1回全日本選手権大会が始まり、本格的に競技フットサル時代が幕を開けた数年ほどは、ミニサッカーから脱却する意味で正確なパス回しによって相手を崩すフットサルが志向されていた。

その原点は、このアトレチコミネイロにあったような気がする。そして、それは時として、ゴールを狙うことよりもパス回しを優先し、〝カッコ良さ〟を狙う風潮を助長する側面もあった。とにもかくにも、サッカーチームが専門フットサルチームに変貌し、アトレチコミネイロのフットサルスタイルに切り替えるまでには勝利がともなわないジレンマが待っていた。そのジレンマを府中水元クラブ、ファイルフォックス、カスカヴェウらが先鞭をつけ、打ち破りつつあるのだが、まだまだ世界基準には届かない現実を思い知らされた。何かが足りないのである。その答えを探す次の数年が始まるわけであるが、それは実は民間主導で行われたリーグ戦であった。

さて、今回のお宝写真は、アトレチコミネイロのマヌエル・トビアスのシュートシーンである(カスカヴェウに影響を与えた黒と白の縦ジマのユニフォームにも注目)。ブラジルのフットサルといえばファルカンが有名であるが、この頃は、トビアスがスーパースターであった。サッカーで言えばペレのような存在と言われている。世界最優秀選手3回、ワールドカップには1992年から4度出場し、2度優勝している経歴の持ち主である。

このシーンは、前述した日系ブラジル人との試合で見せたキーパーの股を抜くゴールのもので、本来なら強烈なシュートが持ち味なのだが、この試合では強いシュートはあまり打たなかった。おそらく、日本相手だからだと思うが、長い脚でゆっくりボールをキープし、簡単にボールをゴールに流し込む決定力の高さが印象的であった。

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