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作成日時:2024.08.08
更新日時:2024.11.04

【連載】その1 呉越同舟のブラジル遠征/その2 関東リーグ開幕その光と影/その3 日本代表バンコクの悲劇|第3章 カスカヴェウの逆襲|第1部 黎明期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ

第1部 黎明期

第3章 カスカヴェウの逆襲(2000年2月~2001年2月)

その1 呉越同舟のブラジル遠征
その2 関東リーグ開幕その光と影
その3 日本代表バンコクの悲劇

その1 呉越同舟のブラジル遠征

2000年2月、失意のカスカヴェウは成田空港にいた。マリオ安光が企画したブラジル遠征に参加し、バルエリという街で行われる「BARUERI CUP」に出場するためである。もう1チーム、ファイルフォックスに選手権の決勝で敗れ、再出発を図りたいアスパがいた。

BARUERI CUPの出場チームは、グループAがコリンチャンス(眞境名オスカーの古巣)、ウインプロ(のちにファイルフォックスの小松竜一が留学、日本代表が練習試合も行う)、GM/シボレー、日本のアスパ、グループBがバネスパ(のちに難波田治、木暮賢一郎が留学)、パルメイラス(のちのシュライカー大阪ドゥダの古巣)、バルエリ、日本のカスカヴェウである。ブラジルの出場チームはトップクラスのチームばかりだった。しかもこのBARUERI CUPの合間を縫ってサンパウロFCやBORDONなどとも試合をした。夢のようなフットサルツアーだ。

ところでBORDONといえば、お気づきの方もおられるだろう。のちに藤井健太がアスパから独立し、立ち上げたチーム名と同じである。なんでも、このBORDON戦で大量にプレゼントされたユニフォームがBORDONと書いてあったのでユニフォーム代を節約するために命名したとのこと。いかにも関西人の藤井らしい。

さて、結果は、両チームとも全ての試合で10点以上の大差を付けられるもので、順位は最下位であった。しかし、両チームにとって選手権の負けを取り戻すほど収穫のあるツアーだった。とにかく、ディフェンスばかりしていたので守備が強くなったことは確かである。ちなみに、いくつかスコアを紹介しよう。

カスカヴェウ 0-11 コリンチャンス
カスカヴェウ 2-13 パルメイラス
アスパ 3-16 コリンチャンス
アスパ 1-12 ウインプロ

この遠征には、実は両チーム以外に3人のメンバーが帯同していた。ファイルフォックスのオスカーと難波田、そしてウイニングドッグの木暮で、彼らもカスカヴェウに混じって試合に出場した。この出会いが、のちに木暮がファイルフォックスに移籍し、カスカヴェウと対決するきっかけになろうとは、本人も当時は知る由もなかった。

2000年3月、彼らにとって息つく暇もなく、日本代表の選考会が始まった。それは5月に行われる第2回アジア選手権に向けたもので、第1回とは異なり、今度は正真正銘、3位になれなければこの年に行われる第4回の世界選手権に出場できない。

監督は、前回に続いてマリーニョ、コーチはのちに第4回アジア選手権で日本代表監督になる目黒FCの原田理人で、各地で選考会が行われた。最終選考会に残った関東勢のメンバーを紹介すると、ファイルフォックスから上村信之介、難波田、渡辺英明、カスカヴェウから市原誉昭、前田喜史、相根澄、目黒FCから須田芳正(前回大会はコーチで元浦和レッズ)、GKの古島、プレデターから岩本昌樹、ウイニングドッグから木暮、アムニスバカジュニアーズから清野乙彦(元名古屋グランパス)、NACからGK金澤信二(かつてエスポルチ藤沢)が選ばれた。

ちなみにアムニスバカジュニアーズとは、すでに紹介したサッカーのサポーター集団ウルトラニッポンで有名な植田朝日が立ち上げたチームで東京都リーグに所属し、好成績を納めた時期もあった。また、清野は、ヴェルディジュニアユースから帝京高校、名古屋グランパスという経験の持ち主で、木暮の小学校時代のサッカーチームの先輩であった。

関西勢は、アスパから藤井、安川知広、異色はフットサル経験がこの時はほとんどなかった元ヴィッセル神戸の鈴村拓也(のちにマグ、スペインリーグ、デウソン神戸)であった。

さて、今回のお宝写真は、まさに呉越同舟のブラジル遠征の記念写真である。後列向かって左からオスカー、木暮、難波田、市原、安田、甲斐、遠藤、中野歩、前列左から黒岩文幸、前田、GK松原君守(ルネス学園出身)、中村、高島大輔の面々である。

その2 関東リーグ開幕その光と影

同じ2000年3月、いよいよ正式に第1回関東リーグが始まった。都県レベルのリーグにおける上位リーグが常設されるわけで、フットサルの普及と技術レベルの向上に期待がかかった。しかしながら、まだ通年リーグではなく3月5日から26日までの間で3日間ずつ、小金井総合体育館、千葉公園体育館、小田原アリーナなどで行われた。

参加チームを紹介しよう。東京からは府中水元クラブ、ガロ、小金井ジュール、東京リーグ選抜、神奈川からウイニングドッグ、エスポルチ藤沢、ぺったんこ、千葉からプレデター、千葉リーグ選抜、茨城からマルバ、F.U.A、群馬から渋川カルテットの12チームである。ここには、準備が整わず、ファイルフォックスやカスカヴェウの名前はない。また、山梨、栃木はまだ県リーグがないため、チームを送り込めなかった。

試合方式は会場、費用の関係から12チームをA、B両ブロックに分けてリーグ戦を行い、ブロック同士の順位決定戦を行う変則的な方式で、これは第2回まで続いた。

結果であるが、1位、2位決定戦はガロとプレデターが対戦して1-1の引き分けとなり、同時優勝となった。3、4位決定戦はマルバが5-3で小金井ジュールを下し、3位となった。

マルバには〝赤い彗星〟の異名をとった赤い靴は履き、彗星のごとく足が速い鈴木洋一(のちにウイニングドッグ)、清水健、根本和典、斉藤俊彦、GK杉山哲一(のちにファイルフォックス、名古屋オーシャンズ)らがいた。

期待された関東リーグであるが、ファイルフォックス、カスカヴェウが参加していないため、困った現象も起きた。それは、3カ月後に開催された第16回全国選抜フットサル大会には、関東リーグが設立されたこともあり建前上、ファイルフォックス、カスカヴェウの選手は選ばれなかったからである。

その第16回全国選抜大会は、2000年7月、北海道で開催された。この大会は同月末に行われるスペインの名門バルセロナとの親善試合に出場する日本選抜の選考を兼ねていた。

前回と同じく、選抜を送り込めたのは北海道と関東であったが、関東選抜は、監督に松村栄寿、コーチに中村恭平、選手はガロからGK石渡良太、関新、横田年雄、府中水元クラブから鞁島三郎、中村俊仁、小田野直規、エスポルチ藤沢からGK小林康紀、黒岩、豊島明、奥村敬人、プレデターから岩本、ウイニングドッグから木暮、鈴木、小金井ジュールから古林直樹、渡辺裕貴が選ばれている。

豊島はかって、横浜マリノスユースに在席、サッカーでブラジル留学、帰国後フットサルに転身した経歴の持ち主で、日本代表に選ばれる逸材であった。のちにロンドリーナ、湘南ベルマーレへと進んだ。また、アグレミーナ浜松の監督を務めたこともある。

大会結果は、関東選抜が地元の北海道選抜を2-0で下して優勝した。準優勝の北海道選抜にはGK角田麻人がいたが、これをきっかけに上京、最初はウイニングドッグに入り、のちにガロ、カフリンガへと進んだ。また、小野寺隆彦がいたが、のちにエスポラーダ北海道の監督になっている。

選抜大会開催の6日後、優秀選手で構成される日本選抜とスペインの名門FCバルセロナとの親善試合が幕張メッセで行われた。その大半が関東選抜であったため、関東選抜対バルセロナの様相であったが、1-9で日本選抜は敗れた。

せっかくの国際大会であったが、ファイルフォックス、カスカヴェウの選手がいなかったのは残念なことであった。ちなみに両チームは関東リーグに参加するよう薦められていたが、ファイルフォックスはすでに都リーグに所属していたため第2回から、カスカヴェウは新チームであったことからまずは都リーグから出発せざるを得ず、関東リーグにお目見えするのは第4回からであった。

今回のお宝写真は、「記念すべき第1回関東リーグ優勝のプレデター(同時優勝ガロ)の集合写真である」と言いたいところだが、残念ながら記念の集合写真が手元になく、翌年、2001年のスーパーリーグの集合写真である。そうは言っても貴重な写真であり、バルドラール浦安の監督を務めたこともある米川正夫(後列中央)、のちにペスカドーラ町田などで監督を務めた岡山孝介(米川の右隣)が映っている。

また、9年目のFリーグ開幕節のオープニングイベントで観客を沸かせたパフォーマンスグループ「球舞」の帖佐浩二郎も前列中央に映っている。

その3 日本代表バンコクの悲劇

2000年4月、日本代表の最終選考合宿が小田原アリーナで行われた。

世界選手権の出場をかけたアジア選手権は5月5日からタイのバンコクで開催される。最終合宿に代表に残ったメンバーは、GKが金澤、定永久男、札幌ベアフッドの高間専一郎、FPに須田、相根、上村、市原、藤井、前田、難波田、鈴村、アスパの安川の合計12名であった。この12名の数がのちにバンコクの悲劇を生む一つの要因になった。

カスカヴェウはファイルフォックスを押さえて最多の3人、相根、市原、前田を送り込んでいる。以降、この3人は長らく日本代表の中心メンバーとなった。

そして2000年5月、本番のアジア選手権予選が始まった。予選リーグは、日本は強敵イランと同組のグループAに入った。結果はウズベキスタンに4-2、イランに2-6、マカオに12-1、キルギスに6-0で3勝1敗となり2位通過を果たす。ここまでは予定どおりの戦いであった。むろん、1位はイランで4勝0敗である。

結果、準決勝では、グループBで1位のカザフスタンと、勝てば2位以上で世界選手権出場を果たす戦いへ。カザフスタンには前回大会の3位決定戦でPKで敗れている。

ここは一気に決めて決勝に進出し、世界選手権の切符を確保しておきたいところだ。3位決定戦に回ってしまうと、地元タイとの戦いになってしまう。しかし、そんな願いも空しく、6ー9で敗れてしまった。前半は2-1とリードしたが、後半、攻めにいったところを速攻のカウンターをくらっての逆転負けである。国内でもよく見られるフットサルチームがサッカーチームに速攻で敗れるパターンであった。速攻を受けた際にファウルで止める悪循環もあって、後半だけで9ファウル、4つの第2PKを決められてしまったことからもわかるように、相当なプレッシャーがあったのだろう。試合をうまく運ぶ余裕はなかった。

翌日は、イランに2ー8で敗れたタイとの3位決定戦に。すでにタイに来てから6試合目を迎え、疲れはピークであり、しかも藤井を前日のレッドカードで欠き、難波田は怪我を押しての出場、相手はホーム、日本にとってはハードな条件がそろってしまった。

それでも、前半は3-2とリードした。後半も、いったんは逆転されたが再逆転もした。しかし、最後はタイのホームパワーに圧倒されて力つきた格好で6-8で敗戦、3枚目の世界選手権の切符は開催国タイに譲り、世界選手権出場は叶わなかった。

ちなみに成績は、以下のとおりである。

5月5日 ◯日本 4-2 ウズベキスタン 藤井2、上村、相根
5月6日 ⚫︎日本 2-6 イラン 前田、相根
5月7日 ◯日本 12-1 マカオ 市原3、安川3、前田2、相根2、上村、鈴村
5月8日 ◯日本 6-0 キルギス 市原3、藤井、上村、相根
5月11日 ⚫︎日本 6-9 カザフスタン 前田2、市原2、藤井、難波田
5月12日 ⚫︎日本 6-8 タイ 難波田2、須田、前田、相根、上村

バンコクの悲劇という言葉は、フットサル専門誌「ピヴォ!」の第2号、アジア選手権の速報記事内で使われた言葉である。

今回のお宝写真は、バンコクまで応援に行ったフットサルネット・山戸一純提供の一コマである。世界選手権がかかる3位決定戦、2000年5月12日、19時12分、前半15分、難波田のパスを上村がアウトサイドキックのワンタッチでシュート、3-1としたシーンである。上村らしい技ありシュートで、ここまでは日本のペースだったのだが……。

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