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作成日時:2024.08.12
更新日時:2024.08.17

【甲斐修侍×関野淳太/特別対談】「当時は、上村信之介がいるチームを倒すことが目標だった」|フットサル三国志の源流を紐解く

PHOTO BY舞野隼大、フットサル三国志

きら星のごとくさまざまな強豪チームが現れ、合従連衡(がっしょうれんこう)を繰り返し、いくつかのチームは全国リーグへと昇格した。それはさながら、三国志のようである。

これはフットサル三国志の冒頭部分からの抜粋だ。

「合従連衡」とは「時の状況や利害に従って、国や組織、企業などが結びついたり離れたりすること」であり、著者・木暮知彦氏による「三国」の定義は、ファイルフォックス、カスカヴェウ、およびこの2チームを取り巻く強豪チーム群、である。

始まりは、第1回全日本選手権が開催された1996年1月から綴られ、現在に至るまでその系譜は受け継がれている。いわゆる黎明期から始まる歴史書。それが、フットサル三国志である。

当時を知る方々によって「三国」の定義について思うところがあるかもしれない。

だが、合従連衡が続くなかで関東を中心とした日本フットサルの世界に規則や秩序が生まれ、整い、確固たるものへ変わっていく様を、あの情熱に満ちた激動の時代を、「三国志」になぞらえることには、概ね了解いただけるのではないだろうか。

史実に基づきながら木暮氏の細やかな解釈で綴られたフットサル三国志だが、当然、全てを網羅できているわけではない。そこで今回は、“第2国”であるカスカヴェウの甲斐修侍と“第3国”の筆頭格であるロンドリーナの関野淳太に、当時を振り返ってもらった。

数奇な巡り合わせを辿る両者は当初、“始まりのチーム”で共にプレーし、そこから分かれ、そして今、ペスカドーラ町田で再び、志を共にして歩んでいる。甲斐は監督として、関野はクラブの社長として。

2人の回顧録を、ぜひとも「フットサル三国志」と併せて読んでいただきたい。

インタビュー=高田宗太郎
取材協力=
塩ホルモン・炭火焼肉 小澤商店 厚木旭町店

始まりの「アズー」からカスカヴェウとロンドリーナへ

──まずは、2人の出会いを教えてください。

甲斐 スポコネ(※)か、週末に山中湖スポーツセンターで大会に出た時、どっちかだと思う。

※世田谷区瀬田にあった「スポーツコネクション」というスポーツクラブのフットサルコートでアズーの練習は行われていた

関野 たしか水曜の練習の時ですよ。僕はその頃まだサッカーをやっていて、広山(晴士)さんに「フットサルの練習するから来い」と誘われて行ったのがアズーの練習だったと思います。

──当時、甲斐さんは安田和彦さんと山中湖のフットサル施設で働いていて、広山さんたちと立ち上げたのが伝説のチーム「アズー」ですね。のちにエスポルチ藤沢の代表を務める広山さんと甲斐さんの関係は?

甲斐 広山ちゃんとは同学年で、中学生の頃に、今のサッカーで言うところのナショナルトレセンの選抜チームの大会で1週間くらいの合宿で一緒だったんだけど、一瞬で大親友になった(笑)。

──水曜日に都内で練習をして週末は山中湖で大会に参加するというアズーの活動に人が集まってくるなかに関野さんもいた。

関野 そうですね。僕が最初に行った時は、修ちゃんがいて、安田がいて、(足立)恵蔵くん、コバさん(小林康紀)、黒さん(黒岩文幸)、若井田(篤彦)先生がいたかな。

──ファイルフォックスの監督になる眞境名オスカーさんはまだ?

甲斐 オスカーは数カ月くらい経ってからかな。

関野 そうですね。全日本選手権の山梨県予選が始まる頃だったと思います。

甲斐 オスカーと照屋(アルベルトサダオ)さんが合流して、俺らはフットサルを知らなかったから、サロンフットボールをしていたオスカーに基本的なことを教わって。

──第3回全日本選手権大会は、山梨、関東を勝ち抜き、全国大会でルネス学園甲賀に敗れて準優勝となりました。アズーはそこで活動を終了するんですよね。

甲斐 そう、その1年でチームの活動は終わり。俺と安田が山中湖からこっちに出て来て、アズーの選手たちもエスポルチ藤沢に移ったのが2年目。山中湖を拠点にチームの活動を続けていくのは無理があったんだよね。

関野 きつかった(笑)。だいたい金曜の夜に山中湖に集合して土日に大会に出て、大会では優勝しないといけないミッションがありましたから。

甲斐 アズーはサッカーの元プロばかりだったから普通にやれば負けなかったんだけど、サロンフットボール時代からのフットサルプロパーのチームで千葉のトキガネというチームに、初めて決勝で負けた。俺らも全然やれるんだけど、なかなか点が入らない、ゲームが捗らない、結果0−1で負けて。「どうやらちゃんとフットサルを練習しているチームらしい」と聞いて「俺らもちゃんとフットサルを勉強しよう」となり、監督に大塚(和宏)さんを呼んで、大塚さんがオスカーを引っ張って来てくれた。俺らもそこから「エル」とか「エイト」とかをやり出して全日本で準優勝して、それでエスポルチをつくっていくのが1997年から1998年の流れだね。

伝説の歴史が読める!【連載】フットサル三国志

──エスポルチでの活動期間は?

甲斐 俺は1年。エスポルチにいた1998年の夏に、リーガ天龍選抜で俺と市原(誉昭)が呼ばれて初めてブラジルに行って、そこでとんでもない衝撃を受けて。帰って来てからもブラジルのフットサルはああだこうだと話をして、ビデオもたくさん撮ったから戦術や練習メニューにもこだわり始めて、「修さん自分たちでチームを作りましょう」という雰囲気になっていった。でもそのシーズンはエスポルチでやり切ろうと。だから、第4回全日本選手権の関東大会で負けるまでがエスポルチでの活動期間だったね。

──その1998年の夏に行ったブラジルの街がカスカヴェウですか?

甲斐 そう。それで選手権を終えて1999年1月から3月にカスカヴェウをつくるんだけど、その時のメンバーでリーガ天竜に出て優勝した。当時、イパネマズチャップリンビデオというチームがあって。

──日系ブラジル人チームですか?「BFC KOWA」のような。

甲斐 BFC KOWAになる前のチーム、アズー時代から何度も対戦したけど本当に強かった。最初にやったのは埼玉県の久喜市の体育館だったかな、1-10で負けて。淳太いたよね?

関野 いました。ヒカルド(比嘉リカルド)、ドゥダ、シナ、ダニエル大城……衝撃でしたよね。

甲斐 ハンパじゃなく強かった、ボッコボコに負けて。次が2-4、その次が1-3で負けて、エスポルチ時代も含めてなかなか勝てなかった。で、その1999年の初頭に、カスカヴェウという名前はまだなかったかもしれないけど、カスカヴェウをつくるメンバーのフィールドプレーヤー6人で、1人はほとんど出てないから実質5人で戦って、初めて勝ってリーガ天竜に優勝した。そこで、「よしやろう」となった。

──そこに関野さんはいないんですよね?

関野 僕はいなかったんです。

甲斐 裏切り者だから(笑)。

関野 いやいや(笑)。修ちゃんは誘ってくれたんですけど、当時、自衛隊の学校に通っていてあまりエスポルチの練習に行けていなかったし、カスカヴェウは練習回数も多かったので参加できる自信がなかった。エスポルチは週1くらいでしたし、広山さんにも恩があったので残ったんですけど。

──遅れてカスカヴェウに合流とはならなかったんですか?

関野 修ちゃんたちが抜けてから、阿久津(貴志)や(奥村)敬人、伊久間(洋輔)、大地(悟)とかを引っ張って来ていたので、自分だけ抜けるというのはなかった。しばらくしたら、若いやつらから「淳太さんチームをつくりましょうよ」という話が出て、修ちゃんに相談したらスーパーリーグの構想を練っている時期だったので「淳太もチームをつくって参加してくれ」と。それで全員でエスポルチを抜けてチームを立ち上げました。カスカヴェウと同じように自分が留学していたロンドリーナという街の名前から「PSTCロンドリーナ」と名付けて。

──関野さんはロンドリーナにあるPSTCこと、パラナ・サッカー・テクニカル・センターに留学していたんですか?

関野 いえ、僕がいた頃はまだなくて、僕はPSTCの創設のアドバイスをしていたんです。当時、日本人留学生が高い費用を取られてほったらかしにされて、その日本人が万引きしてしまうというようなことがブラジルで社会問題になっていた。そこで日系人の人たちが「我々で学校を作ろうと思うのだが、淳太どう思う」と。

──アドバイスを求められて?

関野 「日本人留学生だけを集めた学校を作っても意味はないから、ブラジル人の中に日本人が留学できる学校を作るべきだ」とか、PSTCの会長の家に居候していたので、いろいろ伝えましたね。日本でロンドリーナを立ち上げる際に「PSTCの認知度を上げるためにチーム名に付けるね」という流れでした。

──PSTCは今も?

関野 ありますよ。ブラジル代表に入るような選手を7、8人輩出しているので、連帯貢献金で潤っているんじゃないですかね。

「フットサル三国志」プロジェクト|クラファン詳細ページ
https://camp-fire.jp/projects/view/745928

打倒・上村信之介=打倒・ファイルフォックス

──フットサル三国志の著者・木暮知彦氏による三国の定義は、ファイルフォックス、カスカヴェウ、その他です。ロンドリーナは“その他”になってしまうのですが……。関野さんから見てファイルやカスカヴェウはどんな存在でしたか?

関野 ロンドリーナをつくった時は、この二大巨頭になんとか追随したいというか、目標という感じではないですけど、ライバル心はありました。なんとか負かしたいという。

甲斐 俺らがエスポルチに行くタイミングでファイルができたんだけど、俺と市原はオスカーに呼ばれていたんだ。「ファイルで一緒にやろう」と。

──そうなんですね!

甲斐 だけど、ファイルには上村信之介がいて、当時は「信之介がいるチームを倒したい」と思っていたから、ファイルは倒すべき相手だった。あの時代の話をするなら、信之介が与えた影響力には触れないといけない。俺らを含めて当時の人をたくさん引き込んだわけだから。

関野 今でも初めて見た時のことは覚えています。アズーの時にスポコネに府中水元クラブが来て、そこに信之介がいたんですが、強烈でした。

甲斐 俺が初めて見たのは府中水元が優勝した選手権の第2回大会の決勝だった。テレビ中継で見たんだけど「なんだコイツは!」と、「来年、コイツらに勝とう」と思って。それでアズー時代は、スポコネに府中水元に来てもらって、毎週水曜日は2時間ずっとゲームをしていた。

関野 信之介のお兄さん(上村周一郎)とか、中村三兄弟(中村恭平、中村俊仁、鞁島三郎)も来てましたよね。

──えっ、アズー対府中水元が毎週ですか?

甲斐 最初はミニサッカー対サロンフットボールって感じだったけどね。俺らはサッカーで飯を食ってた元プロ選手もいた集まりだったけど、チンチンにされるわけ。

関野 めちゃくちゃうまかったですよね。

甲斐 アズーの選手はコンタクトとか技術的なものは高いんだけど、フットサル的な技術や戦術が分からなかったから最初はもう、ね。それがだんだん慣れていって「第3回全日本で水元に勝とう」と言っていたんだけど、目標にしていた水元がまさかのグループリーグで敗退しちゃって。

関野 お互い全国大会に進んだんですけど、そこでの直接対決はできなかったんですよね。

甲斐 でも俺らは俺らで決勝で藤井健太を擁するルネス学園甲賀に大敗するっていう。

関野 カウンターで点を取られて1-6でした。

甲斐 だから当時、俺らがなにを目標にフットサルをやっていたかと言うと「信之介たちを倒すこと」だった。

関野 最初の頃はそうでしたね。

──翌年は「打倒・上村信之介」が「打倒ファイル」に。ということは、甲斐さんにとって「ファイル=上村信之介」だった。

甲斐 そう。俺だけじゃなくて当時はみんなそうだったと思うよ。だから、信之介が抜けた後はファイルより信之介が新たにつくったフトゥーロとの対戦が楽しみだったかな。小野(大輔)とヒデ(渡辺英朗)もいたしね。

──エスポルチ時代、結成初年度のファイルとの対戦は?

甲斐 その年はファイルにはヒカルドとかもいて勝てなかった。選手権の第4回大会の全国で倒すつもりが、俺らは関東で負けて、全国大会はダントツでファイルが強かった。

──翌年は、カスカヴェウ結成1年目です。

甲斐 公の場で初めての対戦は、アトレチコミネイロ来日イベントの前座試合。俺らが3-0か4-0で勝って、その次は第5回大会の東京都都予選準決勝で当たって、荒れた点の取り合いのなか後手後手になって負けてしまった。3位決定戦に勝って関東大会に進んだけど、神奈川代表の小原兄弟率いるウイニングドックの勢いにやられて全国には行けなかった。カスカヴェウを結成した年は実力はあったけど、望むような結果を出せなかった。勝負の難しさを感じた年だった。

──この第5回大会もファイルが優勝して2連覇。そして翌年はファイル結成3年目、カスカヴェウ2年目です。

甲斐 その年の第6回大会でカスカヴェウが優勝するんだけど、ファイルには、東京都予選の決勝で3-1で勝って、全国の決勝では4-2で勝っての優勝だった。

関野 その全国の決勝が駒沢体育館でしたね。ロンドリーナのメンバーでカスカヴェウの応援に行ったんですよ。

甲斐 そうそう。スーパーリーグが始まった年だったからね。

──打倒・信之介を達成してカスカヴェウが初優勝、ここで時代は一区切りですね。翌シーズンは上村信之介、渡辺英朗、小野大輔らがファイルから抜けてフトゥーロができました。

甲斐 そう、そんな時代の流れだったね。

アンオフィシャルなスーパーリーグ発足の裏側

──甲斐さんは「スーパーリーグ」の発起人であり、代表者でもありました。発足の動機は、通年リーグの必要性を感じたからですか?

甲斐 この頃は選手権が最大の目標で、1年間それだけのためにやっていた。それ以外はワンデー大会やリーガ天竜に出ていたけど、正真正銘の真剣勝負ができるのは、選手権が行われる年末年始しかなかった。そのためだけに1年間やっているのは正直もったいないと思って。上を目指す志のあるチームを集めて、極端な話、どこかの体育館を借りて5〜6チームで対戦して、それを定期的にやりながら年末を迎えられたらいいなと。

──観客にフットサルを見せる、という発想は当初はなかったんですか?

甲斐 そうそう。スタートはお互いに切磋琢磨できる場を作ろうという発想だった。それで、ファイル、プレデター、ガロ、府中アスレ、ロンドリーナ、ウイニングドッグと、考えられるチームの代表者に集まってもらって「こういうリーグをみんなでやりませんか?」という話をしたら、プレデターの塩谷(竜生)さん、浅野(清春)さんが特に前向きで、そこにアスレの(中村)恭平さんも加わり、ショーアップもしていくという方向へ進んでいった。

フットサルマガジンピヴォ!の山下浩正編集長やフットサルネットの山戸一純さんの協力で専門メディアへの露出も増えたけど、あの時代にフットサルの試合がレギュラーでCS放送されたのは塩谷さん、浅野さん、恭平さんがいたからだし、運営面であのお三方がいなかったらスーパーリーグは成り立っていなかった。

──当時のファンにとっては「フットサルを見る」、甲斐さんや関野さんたちにとっては「フットサルを見せる」ということの始まりですよね。

甲斐 淳太、覚えてる? 開幕当日に参加チームの全選手を集めてMFP藤沢の駐車場で話したこと。「これからは今までとは違って見られる側になるから、着替えや食事の場所やタバコを吸う選手は人前で吸わないとか……そういうことも意識しよう」と。

関野 懐かしいですね。僕の一番の思い出は2年目の最終節、勝ったほうが優勝するという、有明コロシアムでやったカスカヴェウ対ロンドリーナの試合です。最終スコア10-9なんて、なかなかないですよね。

──ドゥダの股抜き、伊久間さんのボレー、その試合もスカイAのスーパーフットサルで放送されました。スーパーリーグは3年で終幕しましたが、時計の針を進めましたよね。

関野 たしかに、スーパーリーグがなければFリーグは2007年に発足していなかったと思う。スーパーリーグに参加していたチームがのちのち、Fリーグに参加していますし。

──カスカヴェウがペスカドーラ町田に、ロンドリーナが湘南ベルマーレ、プレデターがバルドラール浦安になった。この3チームはオリジナルエイトで、府中アスレティックFCは3年目から参戦して、今は立川アスレティックFCです。

甲斐 スーパーリーグ2年目にはマグ(現シュライカー大阪)も参加していたからね。

──一方で、スーパーリーグはアンオフィシャルなリーグだったので、参加しなかったチームもあります。発起人で代表者の甲斐さんへの風当たりも強かったのではないでしょうか。

甲斐 どうだったかな。風当たりがキツかったとかはあんま覚えてないけど、仮に発起人・リーグ代表として俺ひとりが悪者になることで、結果的にフットサル界がいい方向に進んだのであれば、それで良かったと思います。

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技術だけで戦っていた昔と今を比べるのは難しい

──当時を振り返るに当たって「ブラジル」は欠かせないワードです。

甲斐 1998年に初めて行った時は、経験したことのない衝撃を受けた。ボコボコにやられて、フットサル特有の技術や戦術に触れて、それがきっかけで翌年から毎年行くようになったけど、その度に理解も増えたり、やられ方も1年前とか違うケースになったりで、日本には絶対にない環境で試合ができて、得られるものは山ほどあった。

──スマホやYouTubeはもちろん、情報も指導者もない時代でした。

甲斐 当時、ブラジルに10日滞在することは、日本での半年間の練習に匹敵していたと思えるほど得るものがあった。個人としてもチームとしても奥深さを経験したし、行かないと学べないし、行かない限り成長はないと思っていた。行くたびに見えるものが違っていた。

──もし当時、ブラジルのプロ監督が日本にいたら違っていましたか?

甲斐 どうだろう。のちにブラジル人の監督を呼びたいと思って交渉をしていたし、監督がいたらと思うことはあったけどね。

──それはFリーグ発足前ですよね?

甲斐 発足前の、スポンサーがつき始めた頃かな、その可能性を探り始めたのは。それより前は、コートの利用料も自分たちで払っていたし、当然、監督を雇う経済力もなかったので、成長のためには毎年ブラジルに行き続けないといけないという認識だった。弾丸ツアーでも2、30万円はかかるけど、借金してでも行く価値はあったと思う。

関野 ロンドリーナとしてブラジル遠征をしたことはないけど、(横澤)直樹や伊久間は弾丸ツアーに同行して、練習方法などをいろいろと持ち帰って来ていましたし、ビデオを見たりして参考にしていました。チームとして海外の衝撃を受けたのは、2004年のインターコンチネンタルカップかな。

──ブラジルのカルロスバルボーザ、スペインのカステジョンなど各国の王者が集まった大会ですね。

関野 体は強いし、うまいし、ボコボコにされて圧倒的な差を感じた。当時ブラジル代表のベットンやエウレルは、ロンドリーナでガタイのいいほうだった敬人よりも高いし幅もあるし、強いし速かった。

甲斐 当時はどんなに頑張っても勝てなかったよね。フィジカルベースも経験値も違うし、渡り合うのは難しかった。俺らもいつ行ってもボコボコにされていたから。

関野 相手はプロでしたしね。

──それから20年近く経ちましたが、当時の選手と今の選手の違いは?

甲斐 今とはルールも違って、当時はコンタクトもスライディングも禁止だったから、そもそも競技として違う気がする。当時は技術だけで戦うイメージだったから、今と比べるのは難しいかな。

関野 フィジカルベースは、今の選手たちのほうが圧倒的に高いですよね。

甲斐 当時のうまい選手で集まっても、ブラジルやスペインと戦ったら勝負にならなかった。ベットンとかエウレル、ファルカン、レニージオとは戦えないほどの差があったけど、今の選手はフィジカルベースが格段に上がったから、違いは見せつけられたとしても、喰らいつくことはできる。経験値やうまさの差はあっても、コンタクトでは戦えるところまできた。それは、Fリーグを通して長い時間をかけて積み上げてきた成果だと思う。

──プレー強度が全く違う、と。

甲斐 そうそう。「昔の選手のほうがうまかった」とか聞くけど、その選手が今のフィジカルコンディション、高いインテンシティのなかで昔と同じプレーをできるのか。当時、俺なんかプレイングタイムでほぼフル出場していたけど、それが可能なプレースピードと強度だったからできていただけで、今だったら無理だと思うけどね(苦笑)。

関野 先日、2002年当時のそれこそカスカヴェウ対ファイルフォックスの試合映像を見る機会があったんですが、プレースピードは「遅い」と感じましたね。当時はそんなことは思わず、ジョガーダ(戦術的なサインプレー)ばかり練習していましたから。改めて、現代のレベルが上がっていることを実感しました。

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