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作成日時:2024.08.13
更新日時:2024.08.17

【連載】その1 合従連衡とチーム消滅/その2 リーグの乱立/その3 イランの壁|第4章 再び戦国時代へ|第1部 黎明期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ

第1部 黎明期

第4章 再び戦国時代へ(2001年1月~2002年3月)

その1 合従連衡とチーム消滅
その2 リーグの乱立
その3 イランの壁

その1 合従連衡とチーム消滅

2001年1月の第1回スーパーリーグ優勝、2月の第6回全日本選手権優勝の戦績を残し、これからはカスカヴェウの時代と思われたものだが、実際はそうではなかった。再び、関東は戦国時代に突入、様々なチームの合従連衡(がっしょうれんこう)が行われた。これらは、全日本選手権が終了する2月から新しいシーズンが始まる4月頃まで続くのが常である。したがって、2001年の春頃の話である。

まずはのちに第3勢力として化ける3つのチームがこの頃、誕生している。

1チーム目はシャークスである。シャークスは、第1回スーパーリーグの最終節に行われた第2回の参入戦決勝で勝ち残り、世に出ることになった。のちに第3回スーパーリーグ優勝、第5回関東リーグ優勝、第4回地域チャンピオンズリーグ優勝と化けるが、当時はまだまだ無名の存在であった。静岡県伊豆の韮山高校サッカー部出身のメンバーが設立したチームで、主力メンバーは、「FC FUN」(眞境名オスカーが指導していたチーム)に在席、フットサルを学んでいたのだった。メンバーには石川昌史、岩本健寿、八重樫理人、横山哲久(のちにカスカヴェウ)らがいた。

また、ガロから大量に選手が移籍、飛躍的にチーム力が増すのだが、これはのちのことである。

2チーム目はのちにフウガ目黒からフウガドールすみだへと改名していくことになる「ボツワナ」である。都立駒場高校サッカー部OBでつくられたチームで、高校所在地が目黒であった関係で目黒がついている。このチームが衝撃的デビューを果たして世に出るのは1年後のことであり、この時期はもっぱら民間大会で活躍していた。メンバーには木村幸司、太見寿人、茨木司朗、関健太朗らがいた。

むろん、このチームがのちに関東リーグ3連覇や、地域リーグに所属しながらにしてFリーグクラブを破っての全日本選手権優勝といった金字塔を打ち立てることになるとは誰も想像していなかった。

3チーム目はフトゥーロである。それは当時、衝撃的なニュースであった。なぜなら、ファイルフォックスの主力メンバー上村信之介が渡辺英朗、小野大輔、橋田桂二、GK伊藤喜影らを引き連れて独立したからである。上村といえば、ファイルフォックスの顔ばかりではなく、ミスター・フットサルと呼ばれ、日本フットサルの顔と言っても過言ではない存在である。しかし、全日本選手権の敗戦をきっかけに、第3章での述べたように日系ブラジル人との確執や自分なりの理想のフットサルを求め、新たなチームづくりを目指すことになったのであろう。チーム名がそれをよく物語っている。フトゥーロとは、未来を表す。

この3つのチーム設立の裏で、2つのチームが消滅している。

フトゥーロの設立は結果的に、老舗の府中水元クラブの消滅につながってしまった。というのも、当時はクラブの名称変更はそれほど厳密なものではなく、府中水元クラブのフットサル部門が独立した形で、フトゥーロへの名称変更が認められた。つまり、フトゥーロが府中水元クラブの枠で関東リーグ出場権利を得ることになり、府中水元クラブの関東リーグ出場権はなくなったというわけである。

この時、フトゥーロに移籍せずに残ったメンバーは府中アスレティックFCを設立し、東京都リーグから関東リーグ昇格を狙うしかなかった。その残ったメンバーとは、すでに紹介した中村恭平以下、中村ファミリーの面々である。

実力者揃いの府中アスレは、最短の1年で関東リーグ昇格を果たすこととなる。しかし、「日本」と名の付くタイトルを手にするのはずいぶん先の話になる。それが叶ったのは、2009年にFリーグ参入が認められてから7シーズン目の2015年7月19日、Fリーグのリーグカップ戦決勝で常勝・名古屋オーシャンズを破った時である。

再出発からは15年、府中水元クラブ時代の1997年第2回全日本選手権優勝から数えると、実に18年ぶりの「日本一」のタイトルということになる。チーム関係者、とりわけ当時GMの中村恭平をはじめ中村ファミリーの喜びはひとしおであったろう。

ちなみにその後、ホームアリーナである府中市立総合体育館のキャパシティー問題で立川に移転せざるを得なくなり、「立川・府中アスレティックFC」を経て、2022年からは立川アスレティックFCとして存続している。

もう一つ、チームが消滅している。ウイニングドッグである。もともとウイニングドッグはサッカー好きの仲間が集まってできたチームであり、指導者がいるわけでもなく、チーム運営のスタッフがいるわけでもなかった。そのうえ、木暮賢一郎が前年ブラジル遠征に参加してブラジルフットサルの技術をチームにもたらしたが、それは良い時もあれば対立を生む時もあった。

そして、日系ブラジル人を助っ人に擁しながら、全日本選手権の全国大会に勝ち進むことができなかった。この敗退でこれらの問題点が顕在化、ウイニングドッグは分裂状態になっていた。その状況を見逃さなかったのが、木暮とブラジルツアーで一緒だったオスカーと難波田治で、2人が木暮を誘い、ファイルフォックス移籍が決まったのである。岩田雅人、GK江村周人も後を追ってファイルに入団した。

ちなみに木暮は上村らがファイルから抜ける話はあとから知ったという。なお、ウイニングドッグ設立の小原兄弟は、一時期ロンドリーナに移籍することになるが、そののち競技フットサルからは引退。ウイニングドッグ自体もエンジョイ系フットサルチームとして一時期活動していたが、競技フットサルの第一線からは姿を消してしまった。

まさに合従連衡、めまぐるしく人とチームが動いた2001年の春、お宝写真というとなかなか迷う。ここは、最初に紹介したチームということでシャークスにしよう。なぜなら、シャークスは故あって、府中水元クラブやウイニングドッグと同様に消滅してしまう運命にあり、ここで紹介しておきたいからである。

この写真は、2シーズン目を迎えたスーパーリーグの集合写真で、シャークスにとっては、初めてのひのき舞台であった。代表者は、後列左端の石川昌史で、静岡県伊豆の国市の韮山高校サッカー部出身である。韮山高校サッカー部出身には、前列右端の攻撃の中心ピヴォ・八重樫理人、前列左から3番目の後ろを固める長身フィクソ・岩本健寿、後列左から5番目のアラ・太田健太郎らがいた。前列中央は、桐蔭学園サッカー部出身でインターハイベスト16の経験をもつ内池達徳(のちにファイルフォックス)、後列中央は、木暮と小中学時代に読売ヴェルディで同期、オスカーに声をかけられバンフ東北で全日本選手権の第9回大会優勝メンバーにもなった前田大輔、後列左から3番目は、のちにカスカヴェウ、ペスカドーラ町田でプレーし、同チームのトップとアスピランチの監督になった横山哲久などのタレントを揃える。のちにガロからの大量移籍でさらに力をつけ、関東リーグ優勝にまで登りつめるチームになった。創設者の石川は、将来のFリーグ参入を目指すくらいのチームづくりをこの時から考えていたが、その参入の壁は予想以上に高く、志なかばで挫折してしまった。むろん、この時はそれを知る由もない。

その2 リーグの乱立

2001年3月、カスカヴェウは全日本選手権優勝の勢いを駆って再びブラジル遠征を敢行する。バネスパインターナショナルカップに参加するためである。この遠征にはほとんどの優勝メンバーが参加したが、早くもボーン77から移籍した金山友紀もいた。

これを見る限り、カスカヴェウはチーム強化に余念がないと思われるが、必ずしもそうではなかった。甲斐修侍、前田喜史はブラジルの本家カスカヴェウとプロ契約を結ぶことに成功、遠征のあとそのままチームに合流、半年間ほど日本不在となってしまうからである。また、のちの話になるが、以前からイタリアリーグ移籍に挑戦していた相根澄がようやくその夢の実現に成功、同じくこの秋からはカスカヴェウを抜けることになってしまう。カスカヴェウにもこの頃から弱点が芽生えていた。

このように、新たなチームの出現と一時期を築いたチームの消滅などにより、ファイルフォックスの2連覇、続くカスカヴェウの逆襲で2強時代が続くかと思われた関東三国志は再び戦国時代に突入する。

実際、2001年3月に開催された第2回関東リーグは、ファイルフォックスはこの年から参入するも戦力ダウンは否めず、ウイニングドッグ、エスポルチ藤沢は消滅、カスカヴェウ、府中アスレティックFCは都リーグを経ていないため参加できずといった状況で、どのチームが優勝してもおかしくなかった。

東京都からは、ファイルフォックス、ガロ、小金井ジュール、フトゥーロに改名する前の府中水元クラブが参戦。

神奈川県は、ぺったんこが落ちてブラックショーツが参入、ロンドリーナ、ブラックショーツの2強の指定席がしばらく続く。

茨城県は、F・U・Aが落ちてソラが参戦となった。群馬県は第1回と変わらず、渋川カルチェットであった。

千葉県はようやく県リーグ体制が整い、単独チームが参加、プレデターに加え、キューピー、メイクナインが参戦する。キューピーは、のちに柏フットサルクラブRAYOと改名、のちに解散したメイクナインから主力選手を吸収して関東の強豪チームに育っていく。監督はGKも兼任する小林豊、選手には小竹洋一(のちにフトゥーロ)、根本久敬(のちにマルバ、ステラミーゴいわて花巻)、亀井靖之、二見宙、丸田陽介らがいた。メイクナインには、のちに柏に合流した朝妻真一、岩田圭祐、吉川正一らがいた。

大会結果は、小金井ジュールが優勝、2位には府中水元クラブが入り、間隙を縫って古豪が優勝するリーグとなった。なお、この大会も12チーム参加、2ブロックに分けて最後に順位決定戦で優勝を決める変則的な方式であった。

第2回関東リーグ開催から2カ月後、5月に入ると新たに2つのリーグが立ち上がった。

一つは2001年5月4日、5日に行われた「地域チャンピオンズリーグ」である。これは、地域リーグのチャンピオン同士が集まって日本一を決めようというものである。しかしながら、地域チャンピオンズ「リーグ」とはいえ、2日から3日間の集中大会であった。その第1回大会には、関東からは関東リーグ優勝の小金井ジュール、そして準優勝の府中水元クラブから名称変更したフトゥーロが出場した。ちなみに、関西代表はアスパから名称変更した、藤井健太率いるボルドンであった。

結果は、小金井ジュールが初代チャンピオンに輝き、2位はボルドン、3位にフトゥーロとなった。

もう一つのリーグは、同じくすでに紹介したダニエル大城が経営する群馬県大泉町のブラジルフットサルセンターと、1999年にマルバの浅野智久が水戸にオープンしたフットサルコートを使って行われる「リーガフットサルジャパン」である。こちらは通年リーグであり、リーガ天竜の関東版のような日系ブラジル人チームと日本人チームの混合リーグである。日本の参加チームはマルバ、オスカーの人脈でファイルフォックス、地理的条件の良い埼玉の高西クラッシャーズ、千葉のNAC、山形のFC小白川などであった。日系ブラジル人チームはむろんイパネマズKOWA、ジョナス、チアゴを擁するERVA DOCEなどである。

ファイルフォックスはスーパーリーグの時は民間リーグの出場に難色を示していたが、日系人脈という理由に加え、通年リーグに出場していないとレベルを維持できないという考えのもと、参加したものと思われる。

この結果、通年リーグは、この年から通年になった第3回関東リーグ(2001年5月~2002年1月)、3年目を迎えるリーガ天竜(2001年5月~2002年1月)、2年目を迎えるスーパーリーグ(2001年6月~2002年1月)、そしてこの年にスタートしたリーガフットサルジャパン(2001年5月~11月)の4つが同時並行で開催されることになった。

第3回関東リーグは、府中水元クラブがフトゥーロとなって出場するほかは、第2回とほとんど同じ顔ぶれとなった。第2回リーガ天竜はフットサル世田谷、関東リーグとスーパーリーグと掛け持ちのロンドリーナ、慶応BRBらが参戦。

スーパーリーグには昨年のチームに、ブラックショーツ、シャークスらが加わった。リーガフットサルジャパンには関東リーグからはファイルフォックス、マルバが参戦。各チームは4リーグを地理的条件や思惑がからんですみ分けて参加することとなった。だが、この状況は長くは続かない。なぜなら、あまりに過密スケジュールだからである。

やがては通年の関東リーグに統一されていくわけであるが、まだまだ時間がかった。

ここでのお宝写真は、リーガ天竜とならんで、日本のフットサルに大きく影響を及ぼした大泉町のブラジルフットサルセンター(BFC)にしよう。BFCは群馬県邑楽郡の大泉町にあり、大泉町は〝ブラジルの街〟と言われるくらい外国人(外国人の居住率は15%と言われ、当時日本一)、とりわけブラジル人、日系ブラジル人が多く住んでいる。

工場で働く彼らのスポーツとしてフットサルが盛んになった歴史は府中と同じで、実際、府中と大泉町間のフットサルに関する人脈、情報連絡網はかなり密なものがあり、とりわけ、オスカー人脈が強い。ファイルフォックスの助っ人、のちのバンフ東北の助っ人の多くは大泉町を拠点とした選手たちである。

写真は、まさにそのファイルフォックスとJAL CUPの常勝優勝チーム、イパネマズKOWAとの練習試合の模様である。写真を見てもわかるとおり、外から見ると倉庫で、中に入ると、目いっぱいコートで、2F階に回廊のような観客席を作っている。したがって、この構造を知っているファンはかなりのフットサルフリークと言える。当時はBFCには優秀な選手、チームが多く、こぞってリーグや練習試合に大泉町まで通う競技志向のチームは多かった。ちなみに、この写真の背番号2番は小宮山友祐、黄色いユニフォームの背番号9番はダニエル大城である。

その3 イランの壁

地域チャンピオンズリーグ、4つの通年リーグの合間を縫って、2001年7月にイランで行われる第3回アジア選手権の日本代表選考が行われた。選考のスタートは2001年4月で、約3カ月に渡って行われたのである。

誰が監督になるか注目されたが、なんと元Jリーガーの木村和司となった。

選考方針も明確であり、元Jリーガーを選ぶ方針が打ち出された。おそらく、第2回の成績から、アマチュアのフットサルプロパー選手では厳しいという評価がなされたものと思われる。また、その頃、Jリーガーのセカンドキャリアについての議論があり、まことしやかにフットサルはJリーガーのセカンドキャリアになりうる説が流れたものである。

最終的には、フットサル系では、GK定永久男、相根、渡辺、木暮、大塚和慎(近鉄百貨店)、上村、関新、金山、元Jリーガー系ではGK田北雄気(元浦和レッズ)、横山恵介(IPD FC、元セレッソ大阪)、鈴村拓也(神戸ハーバーランド、元ヴィッセル神戸)、鈴木正治(元横浜マリノス、名古屋グランパスエイト)、奥原崇(元FC東京)、佐々木博和(元セレッソ大阪)が選ばれた。

ブラジルにいる甲斐、前田の候補辞退はやむを得ないものの、藤井、市原誉昭、難波田らが選考から漏れたのは、監督の好みもあるが、選考となる場が曖昧だったことも影響している。これは第2回のマリーニョ監督の時もそうだったが、当時は公式的な通年リーグが存在していないため、監督がスカウティングしようにもどこに行ったらよいかわからず、推薦リストからピックアップして決めていかざるを得ない状況にあった。

歴史が浅かったと言ってしまえばそれまでだが、都県レベルの通年リーグ、地域レベルの通年リーグ、そして全国レベルの通年リーグというピラミッド構造になるには、相当な時間がかかったことを改めて感じる。

2001年7月、いよいよイランにて第3回アジア選手権(のちに「アジアカップ」に名称変更)が開催された。

日本は予選グループAとなり、イラン、チャイニーズ・タイペイ、シンガポール、パレスチナと同組であった。結果は、チャイニーズ・タイペイに6ー5、シンガポールに8-1と勝利したが、イランに4-8、パレスチナに2-3と敗れ、予選リーグ2位になれなかった。イランに負けたのは仕方がないとして、パレスチナに負けたのは大誤算であった。

それでも運よくワイルドカードで決勝トーナメントに上がり、準々決勝は、カザフスタンに2-2の末にPK戦で勝ち、なんとか準決勝に駒を進める。しかし、そこに立ちはだかったのは再びイランで、2-8で敗戦、3位決定戦に回ることとなった。

3位決定戦は韓国に1-2で敗戦、結局、前回と同様の4位で終わった。

<大会結果>
7月15日 ◯日本 6-5 チャイニーズ・タイペイ 相根4、大塚、上村
7月15日 ◯日本 8-1 シンガポール 関3、奥原2、大塚、上村、佐々木
7月16日 ⚫︎日本 2-3 パレスチナ 関、木暮
7月16日 ⚫︎日本 4-8 イラン 鈴村3、上村
7月18日 ◯日本 2(PK5-4)2 カザフスタン 大塚、相根
7月20日 ⚫︎日本 2-8 イラン 相根、鈴村
7月20日 ⚫︎日本 1-2 韓国 金山

敗因はいろいろとあり、木村監督も述べていたが、最終的には個人のスキルアップが挙げられる。そのためには通年のトップリーグが必要不可欠であることが一番の要因であるように思う。イランの壁は厚かった。

今回のお宝写真は、第3回アジア選手権のパンフレットに掲載された日本代表の集合写真にしよう。このパンフレットを持っている日本人は極めて少ないと思う。というのも、この選手権の開催が2001年7月で、同年9月11日にアメリカで同時多発テロ事件が発生したことからもわかるとおり、隣国のアフガニスタン紛争から政情不安定のイランへ行く日本人の応援団は極めて少なかったからである。実際、テロとは無関係ではあるが、決勝戦ともなると会場はイラン人で満員、恐怖に近いものを感じたものである。

パンフレットから借用したため、登録の関係で全選手は写っていない。後列の右端が木村和司監督、後列中央に渡辺、前列の左端に鈴村、右端に木暮が写っている。

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