更新日時:2024.08.17
【連載】その4 海外挑戦ブーム/その5 両雄とボツワナの出会い/その6 ファイルフォックス優勝の裏側|第4章 再び戦国時代へ|第1部 黎明期|フットサル三国志
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第1部 黎明期
第4章 再び戦国時代へ(2001年1月~2002年3月)
その4 海外挑戦ブーム
その5 両雄とボツワナの出会い
その6 ファイルフォックス優勝の裏側
その4 海外挑戦ブーム
第3回アジア選手権の前後、日本のフットサル界に、第1次海外挑戦ブームが起きた。その理由の一つは、年1回のアジア選手権の定着と、世界的に見ても、ブラジル、スペインを中心にプロリーグが充実しはじめていて、フットサルで食べていけるかもしれないという情報と期待があったからである。
もう一つは、指導者不足で、本物のフットサルをを指導できる監督・指導者が極めて少なく、日系ブラジル人と試合をするか、ビデオで学ぶしかない時代であった。
さらにもう一つは、通年リーグ、全国リーグ設立を「もう待っていられない」「世に出たい」という渇望であった。
その先鞭を付けたのは、ブラジルのカスカヴェウとプロ契約を結ぶことができた甲斐と前田である。2人は、全日本選手権が終わった2001年3月のカスカヴェウの遠征を終え、そのまま現地ブラジルに残ることになった。
一方、まったくの同時期にライバルのファイルフォックスもブラジルに遠征していたことは大変興味深い。カスカヴェウの遠征先は、以前紹介したパラナ州カスカヴェウ市で、カスカヴェウ以外に慶応BRB、リーガ天竜選抜も同行、現地のチームと大会形式で試合を行うものであった。
この時、慶応BRBに混ぜてもらったGKに川原永光(のちに日本代表、田原FC、バルドラール浦安、名古屋オーシャンズ、アグレミーナ浜松)がいた。川原はこの時、現地カスカヴェウのチームから入団の誘いを受けるほど高評価を得た。この時の経験が、川原にとってその後のフットサル人生の転機になるのだった。
ファイルフォックスの遠征先は、サンパウロの外れのアルジャ市で、FC FUNとボルドンの合同メンバーでつくられた臨時のチームも同行、日系人のフットサル大会に参加するものであった。ファイルフォックスには、ウイニングドッグから移籍した木暮、岩田、GK江村がいた。臨時のチームにはのちにスペインにも挑戦する福角有紘(ボルドン、マグ、プレデター、バルドラール浦安、ファイルフォックス、多摩大学フットサル部監督)がいた。
ちなみに両チームの遠征先は700キロも離れていて、お互いに連絡を取り合って同時期に遠征したわけでもなく、全くの偶然なのである。それだけ、当時は何かに飢えていたことをうかがわせるものがある。
この遠征にはファイルフォックスの難波田は参加していなかったが、8月になると、難波田は木暮を伴ってブラジルのバネスパに短期留学を行った。難波田は、アジア選手権の代表メンバーに漏れた悔しさ、木暮は期待されながらアジア選手権では何もできなかった悔しさを秘めての留学であった。難波田にとっては2度目、木暮にとっては3度目のブラジル経験である。
留学先のバネスパは当時ブラジルの強豪チームで、あのファルカンがいた。また、のちに2人は日本フットサル界にかかわる人物と出会うことになるが、当時は想像できなかったことだろう。その人物とは、名古屋オーシャンズ、バサジィ大分で監督を務めた館山マリオである。
続いてカスカヴェウの相根が2001年9月にイタリアへプロ契約を勝ち取るために出発した。すでに3度目の挑戦であるが、11月にはセリエAの「IFCチャンピーノ」入りを果たす。イタリアは外人枠が1つだけなので、契約できたことは快挙であった。
一方、スペインにはプレデターの高島大輔が2001年6月から9月までスペインリーグ4部に練習生として参加している。高島はカスカヴェウがブラジル遠征に向かった2000年2月にその一員として参加したが、それ以来、海外志向が強くなり、その後はイタリアに渡り、2002年にはセリエBのナポリのチームに所属することになる。イタリアはもともと日本からのサッカー留学生が多く、サッカーからフットサルに転向、フットサルチームに所属する選手もこの頃から多くなった。坂本敬太郎、玉置竜平らがそれであり、玉置は第3回アジア選手権の代表候補に選ばれた。
スペインではこの年、もう1人プロの道に挑戦した選手がいた。それは千葉県リーグ(のちに関東リーグ)、セニョールイーグルスの八尋智志である。彼はサッカーのプロ選手を目指して南米ウルグアイに3年間サッカー留学した経験の持ち主である。しかし、残念ながらプロの道は開けなかった。
このように、甲斐、前田、難波田の刺激を受けた彼らの海外プロへの挑戦は、のちに市原、小竹、根本、岩本、木暮、小野、鈴村らを生み、サッカーになぞらえ「海外組」といった言葉も出るようになるのだが、それにはまだ時間がかかるのであった。
お宝写真は、海外遠征した前田と難波田の仲の良い写真にしよう。2人は高校の同期であり、前田はカスカヴェウ、難波田はファイルフォックスとライバル関係であったが、奇しくも、2023ー2024シーズンからペスカドーラ町田のコーチとして、甲斐監督のサポートをしている。
その5 両雄とボツワナの出会い
日本に話を戻して、再び選手権地域予選が始まる季節になってきた。すでにブラジルでのプロ契約を終了した甲斐、前田は8月末にカスカヴェウに戻り、スーパーリーグに参戦すると同時に選手権の準備に取り掛かった。しかし、準備期間が十分あるのか不安を残す状況ではあった。
一方のファイルフォックスも当然、選手権モードに突入する。上村らの抜けた穴をウイニングドッグから移籍した木暮、岩田、GK江村、FC FUNから小宮山、オスカー人脈で中里パウロ、三井賢、高校を出たばかりの佐藤竜らを呼び寄せて強化を図った。しかし、難波田は年末まで帰国しないためやはり不安を残していた。ちなみに、木暮は9月に帰国したが、ニューヨークで起きた9.11同時多発テロに遭遇、ニューヨークで足止めされたという。
この年に入団した小宮山は1979年生まれで、ファイルの木暮、岩田、他チームでは小野(フトゥーロ)、豊島(ロンドリーナ)、中沢亮太(府中アスレティックFC)、西野宏太郎(ガロ)らの同期に比べると遅咲きデビューであった。当時は、その後、小宮山が日本代表キャプテンにまで登りつめるとは誰も思わなかった。
2001年10月27日、選手権の第7回大会の都予選が始まった。場所は立川市泉市民体育館である。ここで大波乱が起きる。カスカヴェウがなんと予選のグループリーグでボツワナに0-2で敗戦、決勝トーナメントすら上がれずに選手権から姿を消したのである。たしかに不運はあった。交通渋滞にはまって一部の選手がキックオフに間に合わなかったことや、審判のジャッジ、それに、コートが狭く、試合時間も今では考えられない10分ハーフのランニングタイムといったことなども影響したかもしれない。
しかし、そのボツワナがのちのフウガで、関東リーグ3連覇、選手権優勝を飾ったとなると、素直にボツワナを讃えるべきであろう。まさに戦国時代の象徴である。奇しくもこの時、隣のピッチではファイルフォックス対小金井5戦が同時に行われており、ファイルフォックスはボツワナ勝利の歓声を隣で聞くことになった。これも何かの因縁だろうか。
ここで少しボツワナのフットサルとのかかわりについて触れておこう。
すでに紹介したとおり、ボツワナは都立駒場高校サッカー部のOB仲間が集まって結成されたチームで、その中心にはキャプテン木村をはじめ、太見、関らがいた。目黒の名前がついているのは駒場高校が目黒にあったからである。では、なぜフットサルかというと、木村が小学校時代に板橋にある十条FCに入部、サッカーを始めたが、その十条FCはサッカークラブの名門であると同時にフットサルを盛んに行っていたからである。
なぜなら、十条FCの代表である栄隆男は、サッカー協会のフットサル委員会委員長、日本フットサル連盟副会長などを歴任、日本のフットサルの普及に貢献した人物で、前述した第3回アジア選手権の日本代表団長も務めたくらいであるから、当然といえば当然である。その栄の薫陶を受けた木村が、仲間を誘ってフットサルを始めるのも自然の成り行きであった。しかし、当初はそれほど真剣にやってはいなかったという。
だが、1DAYの民間大会に出て優勝などを繰り返すうちに刺激を受け、東京都リーグ1部に参加するようになり、競技フットサルにのめり込むことになる。典型的なサッカーチームがフットサルに入ってくるパターンであった。とは言え、もう一つのグループとの出会いがなかったら、これほどまでのチームには育っていなかったであろう。その話はまた追って記すとしよう。
一方のファイルフォックスも難波田を欠いた影響などで守備が安定せず、決勝トーナメント1回戦のFCベンガ戦を12-8、準決勝のガロ戦を5-4といずれも大量失点をくらいながらの勝利で、苦しみながら決勝戦に臨む。決勝戦の相手はカスカヴェウを破ったボツワナで、これは15-1で圧勝、再び全国にコマを進めることができた。この15点は、両雄といわれ、一緒に戦ってきたカスカヴェウが負けた姿を見て、先輩の力を見せつけようという気持ちが入ったことによる大量得点ではなかったろうか。
しかし、これが逆にボツワナのリベンジの気持ちに火をつけ、のちに何度となくファイルフォックスは痛い目に合うことになるとは、この時は誰も想像できなかった。
ちなみにFCベンガは垣本右近を中心とする国士舘大サッカー部のOB選手で構成されたサッカーチームであり、民間のサッカー大会で何度も優勝する有名チームであった。この予選ではフトゥーロを破っており、のちに関東リーグの強豪カフリンガへと発展する。ここにも新たに戦国時代を担うチームが出現した。
お宝写真は、立川市泉市民体育館でカスカヴェウがボツワナに敗れる大波乱の一コマとしよう。写真の向こうがカスカヴェウ対ボツワナ戦で、このあとすぐに終了ホイッスルが鳴る。一方、写真手前のファイルフォックスはまだ試合中であるが、場内の大歓声を聞くことになる。なお、ファイルフォックス、カスカヴェウの試合を同時に観戦できるとあって、会場は満員であった。
その6 ファイルフォックス優勝の裏側
舞台を次のステージ、関東予選に移そう。関東予選は2001年12月8日~9日、山梨県の小瀬スポーツ公園体育館で行われた。すでに第3勢力の一角をなすチームでは東京のガロ、千葉のプレデター、神奈川のロンドリーナ、ブラックショーツらが出場、これにカスカヴェウを破ったボツワナことのちのフウガが出場している。
結局、全国への切符を手にしたのはロンドリーナであった。ボツワナはプレデターと予選ブロックが同組で敗れている。
ロンドリーナは自分たちと母体が同じエスポルチ藤沢から分かれたカスカヴェウの活躍を目標に今まで活動してきただけに、選手権初出場の喜びはひとしおだったに違いない。その経験は翌年第8回大会にとてつもなく大きい成果となって現れる。第3勢力のもう一角であるプレデターはまたしても関東予選敗退となり、まだまだ雌伏の時間を過ごすのであった。
明けて2002年2月1日から駒沢体育館にて第7回全日本選手権が始まった。この時には難波田も戻って来ており、ファイルフォックスは予選をなんなく通過、準決勝でロンドリーナと対戦する。もう一方の山の準決勝は小金井ジュールとSuert banffであった。小金井ジュールはのちにそのルールはなくなるが、地域チャンピオンズリーグ優勝枠で出場した。
東海地域代表のSuerte banffは、フットサル施設である愛知フットサルクラブが支援するフットサルチームである。選手にはBorn77の稲田祐介、三輪修也、GKには名古屋に転勤の関係でガロを辞めた石渡良太らがいた。また、当クラブのスタッフで椙田和明が選手兼代表を務めていた。「バンフ」で想像がつくとおり、愛知フットサルクラブはバンフスポーツの櫻井嘉人が経営するクラブであり、この頃、すでに東京ベイフットサルクラブは手放し、その関係もあって、カスカヴェウとの関係は解消されていた。むしろ、自社経営のクラブチームで日本一を狙ったものである。実際、櫻井はその後、名古屋オーシャンズを築き上げ、日本一を手に入れることになる。
さて、4強には、このSuerte banff、小金井ジュール、ロンドリーナ、ファイルフォックスが残ったが、4強のうち3強までが関東地域のチームで占めることになり、とりわけ東京を制するものが全国を制するとまで言われるようになったのはこの頃のことである。
準決勝のファイルフォックス対ロンドリーナは、地力に勝るファイルフォックスが5-1で勝利、決勝にコマを進める。実は、のちの第10回大会でも両者は準決勝で顔を合わせている。一方のSuerte banffは小金井ジュールを6-2で下し、決勝は東京対東海の戦いとなった。「東京を制するものが全国を制する」の言葉どおり、1-0の僅差でファイルフォックスが勝利、カスカヴェウに奪われた盟主の座をわずか1年で取り戻す結果となった。
このピッチには前述した椙田が立っていたが、執筆時点(2010年10月時点)もバンフスポーツのスタッフであり、櫻井がGMを勤める名古屋オーシャンズの運営も時折、手伝っている。まさか、この時に戦ったオスカー、難波田、木暮が大洋薬品バンフ、あるいは名古屋オーシャンズで関係が出てくるとは、この時は思いもよらなかったであろう。
さて、ファイルフォックスの2連覇、続いてカスカヴェウ、そして再びファイルフォックスが選手権優勝という2強で4回優勝を占めるのに、「なぜ戦国時代?」と思うかもしれない。それは、真の王者を決める戦いはどこにあるかという議論が、ようやくこの頃から芽生えたからである。例えば、全日本選手権、地域リーグ、地域チャンピオンズリーグ優勝を3冠と呼ぶ風潮も生まれた。
そして、選手権に先立つわずか1週間前の2002年1月27日、以前は選手権の聖地だった有明コロシアムで第2回スーパーリーグの最終節が行われた。そこでは選手権に出場できなかったカスカヴェウと、選手権初出場を果たし、ベスト4の結果を残したロンドリーナによるリーグ優勝を懸けた試合が行われた。
結果は、10-9というスコアで熾烈な戦いを制したカスカヴェウが6勝1敗でリーグ2連覇を果たす。2位にはガロ、3位には府中アスレティックFCが入った。ロンドリーナをはじめ、ガロ、府中アスレティックFC、プレデター、シャークス、ブラックショーツ、アトレチコ マグ(関西特別枠)らを相手に、7節に渡るリーグ戦を制しての優勝であるから、これは選手権に勝るとも劣らない価値ある結果だと言える。
しかし、そこにファイルフォックスはいなかった。
逆に、第3回の関東リーグは1月20日に最終節を迎え、ファイルフォックスが9勝2分けの負けなしで優勝、2位にはフトゥーロ、3位にガロが入っている。
しかし、そこにカスカヴェウはいなかった。
ちなみに、乱立した残りのリーグ、リーガ天竜は、「Vasco/Banff/AVR/Pit Stop」が優勝、ロンドリーナは4位、フットサル世田谷は5位、慶応BRBは6位に終わっている。リーガフットサルジャパンは、イパネマズKOWAをのけてジョナス、チアゴを擁するERVA DOCEが優勝、ファイルフォックスは都合により3位決定戦を棄権している。
お宝写真は、1ー0というフットサルでは珍しい僅差のスコアで優勝したファイルフォックスと、Suerte banffの決勝戦のシーンにしよう。前半5分、後方の板谷からのループパスに木暮が走りこんで胸トラップ、ゴール前の混戦に持ち込んで最後はGK、DFの3人をかわして挙げた虎の子の1点を奪ったシーンである。写真の一番手前には、Suerte banffのGK石渡、左に映っているのは稲田である。奥には小宮山、審判は以前にも紹介した松崎康弘が写っている。
なお、不思議な縁であるが、以前、ガロのメンバーだったGKの石渡は縁あってSuerte banffに移籍、この大会の決勝に進出したわけであるが、ファイルフォックスに敗れ、結局は東京に戻ってシャークスに入団することになった。のちにペスカドーラ町田でフットサルを続け、今はペスカドーラ町田のGKコーチを務めている。おそらく、
このような運命の分かれ道があったとは、知る人は少ないだろう。
稲田はこの後、金山を追って上京してカスカヴェウに移籍、そのかいあって、日本代表に登り詰めた。Fリーグでは得点王にも輝いている。2人にとって、人生の転機となる試合であり、それを表す写真ではないだろうか。
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