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作成日時:2025.10.29
更新日時:2025.10.29

【連載】その4 サッポ監督誕生/その5 新旧交代の始まり、統合関東リーグ/その6 物議をかもしたバンフ東北の選手権優勝|第2部 栄華期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ 著者・木暮知彦

第2部  栄華期

第6章 「見る」スポーツへの胎動(2003年1月~2004年2月)

その4 サッポ監督誕生
その5 新旧交代の始まり、統合関東リーグ
その6 物議をかもしたバンフ東北の選手権優勝

その4 サッポ監督誕生

エジプトで行われたピラミッドカップは、原田監督、サッポコーチの体制であったが、この後、11月に行われたタイランド5では原田監督が辞任し、サッポが来年の世界選手権を見据えて監督に就任することとなった。

2003年11月に行われたタイランド5は日本代表にとって大きなターニングポイントとなる大会となった。タイランド5はタイのバンコクで開催された4カ国対抗の大会で、日本、ブラジル、ロシア、タイが参加した。リーグ1、2位で決勝戦、3、4位で3位決定戦を行うレギュレーションであった。

ターニングポイントは4つある。1つ目は、前述したように監督がサッポに替わったことである。サッポは、守備の強化と攻撃の新たなバリエーション開発に着手し、日本代表に戦術的変化をもたらした。

2つ目は、比嘉リカルドが帰化したことを受けて代表に呼んだことである。比嘉はのちにキャプテンとなり、サッポと運命をともにすることとなる。サッポとしては、日本人選手と自分との間のコミュニケーション役を期待したのであろう。長期に渡って比嘉を選ぶことになった。実を言うと、もう1人、ポルトガル語ができて、日本人選手とのコミュニケーションを円滑に図ることができる選手がいた。もし、彼が怪我をせずに世界選手権に出場できていたら、もう少し違った結果が生まれたかも知れない。それは、プレデターの市原である。その話はのちのことになる。

3つ目は、ピヴォを置く戦術を取り、木暮と、のちに小野をピヴォに選んだことである。それまで日本は、ボックス型の守備から、攻撃はもっぱらカウンター狙いであったが、ピヴォを置く攻撃パターンが増え始めることとなった。

4つ目は、カウンター攻撃に金山を多く使うようにしたことである。ピヴォに木暮、小野を配したことにより、2人ともピヴォからの落としやパスもできるため、金山の飛び出しがより有効になった。これまで出場機会の少なかった木暮、金山が、この大会を境に飛躍的にピッチに立つようになった。

結果はすぐに現れ、予選リーグはブラジルに2-5で敗れたものの、タイと0-0の引き分け、ロシアに6-2で勝利、予選リーグ2位となった。決勝は再びブラジルと対戦して2-7で敗れたが、ロシアに勝利したことは大きな収穫となった。

以降、サッポは2008年にブラジルで行われた第6回世界選手権まで指揮を執ることになるが、この時は、おそらく2004年に台湾で行われる世界選手権までと思っていたことであろう。結果論であるが、さらに4年を任せたのは長かったかも知れない。結局、ピヴォ当ての次のバリエーションの開発、若手の人材発掘までは至らなかった。

お宝写真は、雑誌ピヴォ!に掲載されたサッポ監督である。

その5 新旧交代の始まり、統合関東リーグ

2004年1月24日、府中市総合体育館で〝統合〟関東リーグの最終節が行われた。スーパーリーグと関東リーグが1つのリーグとなった第5回関東リーグ、皮肉にも昇るチーム、落ちるチームの明暗が分かれる結果となった。

3シーズン続いた最後のスーパーリーグの覇者であるシャークスは、最終節に勝てば優勝を遂げるところまで来た。一方、第1回の関東リーグから参加、第2回の関東リーグでは優勝、初代地域チャンピオンズリーグ王者ともなった小金井ジュールは、負ければ参入戦にまわる崖っぷちに立たされていた(現在は関東2部があるため最下位は自動降格だが、当時は最下位の12位と11位が参入戦へ。最下位のセニョールイーグルスは参入戦が確定していた)。

こうして始まった最終節、まず第3試合の小金井ジュール対プレデター、小金井ジュールは、これに勝利し、最終試合のカスカヴェウ対フトゥーロでフトゥーロが負ければ残留できる状況。絶対に負けられない戦いである。

一方のプレデターは、試合前の時点では4位で、小金井シュールに4点差以上をつけて勝てば3位の府中アスレティックFCを得失点差で上回り、地域チャンピオンズリーグに出場できる。こちらも負けられない戦いである。

結果は、プレデターの勝ちたい気持ちが上回り、市原、相根らの得点により5-2で勝利、小金井ジュールの残留はならなかった。残念ながら、プレデターは1点が足りず4位となり地域チャンピオンズリーグには出場できなかった。

続く第4試合のシャークス対ファイルフォックス、後半まで2-2の接戦が続くが、ここでファイルフォックスの木暮が退場、続いて難波田も退場となり、2枚看板を失ったファイルフォックスは力尽き、結局、シャークスが6-3で勝利した。シャークスは、初参加、初優勝の快挙を成し遂げた。初参加での初優勝は前年のカスカヴェウもそうであったが、カスカヴェウはすでに優勝して当然といった実力の持ち主であっただけに、シャークスは、スーパーリーグが生んだ新たな第3勢力であるという点で大きな意味があった。結果的には新鋭が古豪を追いやったのである。

ちなみに、この年の関東リーグの順位は、優勝シャークス、2位カスカヴェウ、3位府中アスレティックFC、4位プレデター、5位ファイルフォックス、6位ロンドリーナ、7位柏RAYO、8位マルバ、9位ガロ、10位フトゥーロ、11位小金井ジュール、12位セニョールイーグルス。リーグの統一は、新旧交代の始まりでもあった。

さて、お宝写真は、小金井ジュールの主砲・古林直樹としよう。古林は、関東選抜、2000年7月に行われたFCバルセロナ来日の国際親善試合の日本選抜、第3回アジア選手権の日本代表に選ばれた実績の持ち主である。

小金井ジュールと言えば、以前紹介したが、第2回関東リーグ優勝、そして記念すべき第1回地域チャンピオンズリーグ優勝の輝かしい実績をもつ。「ダイコクジュール」の名前で第2回全日本選手権に出場したこともある。

この写真は、第7回全日本選手権でロンドリーナを破って3位になった時の写真である。思えば、小金井ジュールの最後の栄光とも言える。メンバーには、写真の古林、監督兼選手に渡辺剛、コーチ兼選手に寺本尚史(関東選抜)、南兄弟として有名な健二(関東選抜)、幸四郎、渡辺祐貴(関東選抜)ら優秀な選手がいた。残念ながらその後、東京都1部リーグとなってしまった。奇しくも、古林は同じ古豪であったガロ(東京都3部)に移り、小金井ジュール時代に同僚であった南健二が監督を務める、同じく3部の中野フットサルクラブに進んだ。

その6 物議をかもしたバンフ東北の選手権優勝

時間を少し戻して、2003年12月13日、毎年ドラマが起きる全日本選手権の関東予選は、群馬県の会場で開催された。東京からは、カスカヴェウ、ファイルフォックス、フトゥーロ、神奈川からは前年覇者のロンドリーナ、千葉からは復活となったプレデター、埼玉からは高西クラッシャーズ、インペリオ、茨城からは常連のマルバが出場を逃してフリースタイル、群馬からはクラブフッチマエバシ、フォックスアンドハウンズ、山梨からコウフファイナルレジェンド、栃木からミネFCインファンチールが出場した。
ちなみに高西クラッシャーズは以前から埼玉の強豪であったが、のちに埼玉県の強豪ロクFCと合体し、アルティスタ埼玉と名称変更して関東リーグ1部まで駆け上がった(そののち、アバンソールさいたまと名称を変更)。選手には、上澤貴憲(のちに名古屋オーシャンズ、府中アスレティックFC)、新井健吾(のちにアルティスタ埼玉、カフリンガ東久留米)、ゴールキーパーに安藤真之(のちにファイルフォックス)がいた。

同じく埼玉のインペリオの選手には、関根充(のちにカスカヴェウ)、庄司紘之(のちにファイルフォックス、湘南ベルマーレ、ヴォスクオーレ仙台)がいた。

結果は、ロンドリーナがフトゥーロに2-5の大差で敗れて予選敗退する波乱はあったものの、終わってみれば東京の3チーム、カスカヴェウ、ファイルフォックス、フトゥーロが決勝大会に進むことになった。フトゥーロは、源流である府中水元クラブでは全日本選手権に出場したが、フトゥーロとしては初めてである。フトゥーロの上村信之介は、府中水元クラブ、ファイルフォックスですでに出場している。

ちなみに、この大会に優勝したバンフ東北は、東北の地域予選はかつてのFC小白川、その後、名前を改めた東北の雄パラゴスト(監督は浅利真)に敗れたものの第2代表で全日本選手権に出場する。メンバーは、監督に眞境名オスカー、選手にジョナス、比嘉、ポラッコ、沖村リカルド、山口マルコスらの日系ブラジル人をずらりと揃えた。また、日本人選手では、ブラジルに留学し、帰国して間もない元ロンドリーナの豊島明を筆頭に、中堅どころの選手を集めて大会に臨んだ。ここで少し、突然現れた感のあるバンフ東北が参加した経緯について触れておく。

2003年6月、珍しい民間大会が開催された。それはのちに芸能人女子フットサルのエキジビジョンマッチで有名になる「フルキャストカップ」である。全国6地域で予選を行い、優勝チームには副賞でイタリアサッカー・セリエAの見学ツアーが与えられるということで、全国の強豪チームがエントリーした。そんな中に、ファイルフォックスを退団したオスカーを中心とした日系ブラジル人中心のチームがいて、なんとそのチームが優勝してしまったのだ。

実を言うと、このチームを支援したのが株式会社バンフスポーツの櫻井嘉人で、櫻井も一緒にイタリアへ帯同することになるが、事の発端はここから始まる。櫻井は、すでに紹介したとおり、カスカヴェウが優勝したことでスポンサードに一区切りをつけ、名古屋でSuerte banff(スエルテ・バンフ)を立ち上げた。第7回全日本選手権では決勝まで進出したが、ファイルフォックスに敗れてしまった。一方、関東では新たにバンフ東京(のちに関東リーグ2部に昇格)を立ち上げていて、全日本選手権優勝を目指していた。

イタリア・ツアーで大いに盛り上がったチームは、このままチームを解散するのはもったいないということになり、バンフ東北を立ち上げ、第9回全日本選手権優勝を目指すことになったのである。東北予選から出場したのは、東北にもバンフ傘下のフットサルコートがあったこともあるが、立ち上げに準備がかかり、予選開始時期が遅い地域だったこと、比較的競争が厳しくないことなどの理由だったようである。

明けて、2004年2月、第9回全日本選手権が開幕した。関東3チームの予選リーグの組み合わせであるが、ファイルフォックスは関西の強豪マグ、カスカヴェウは寄せ集めの臨時チームとは言え不気味な強さをもつバンフ東北、フトゥーロは東北の雄パラゴストと同組となった。

ファイルフォックスの初戦は関西の強豪マグで、難波田、木暮の2枚看板は関東リーグの最終節の退場処分により出場できないハンデがあった。しかし、残りのメンバーの奮闘により、得意のパターンである「1-0」で逃げ切り、その後、予選リーグを突破した。しかし、カスカヴェウは、バンフ東北の監督オスカーを含め、ジョナス、比嘉らの老練なフットサルにいつものフットサルができないまま1-2で敗れ、予選敗退となってしまった。フトゥーロは、パラゴストを3-2で下し、予選リーグを突破した。

この結果、ベスト4には、ファイルフォックス、フトゥーロ、バンフ東北、関西のフュンフバインが残った。ファイルフォックスはフトゥーロを、バンフ東北はフュンフバインを下して、決勝はこの両者の戦いとなった。

結果は、3-1でバンフ東北が勝利し、優勝を収めた。ファイルフォックスをやめた監督が臨時のチームをつくって、関東リーグで熾烈な戦いを進めているカスカヴェウ、ファイルフォックスの両雄を破って優勝したこともあり、当時は話題を呼んだものである。

しかし、よく考えてみれば、全日本選手権におけるブラジル人もしくは日系ブラジル人の活躍は第4回大会のファイルフォックス初優勝からの流れがある。それができるのは、実力のある日系ブラジル人の人脈があり、彼らの能力やメンタルを知り尽くしたオスカーだからこそできたのである。

ちなみにこの決勝は、バンフ東北は、比嘉、沖村、山口、ジョナスの4人、ファイルフォックスはドゥダ、山崎チアゴを起用、合計6人の選手が活躍した。さらに言えば、味をしめたと言うと語弊があるが、この流れはFリーグ設立後もバンフの櫻井によって名古屋オーシャンズに引き継がれたと言っても過言ではない。

実際、名古屋オーシャンズの初代監督はオスカーであり、ブラジル人、日系ブラジル人には、マルキーニョス、ボラ、山田マルコス勇慈、山田ラファエルユウゴらが戦列に加わった。

櫻井の持論は、外国人の技術が日本を強くするためには欠かせないということであった。また、本物の技術を日本人に見せたいという強い思いもあった。自ら選手の目利きを行うため、ブラジル、スペインにも飛んだ。この流れは今も続いており、名古屋オーシャンズがFリーグで連覇を続けてきた原点はこの頃からあったのである。

ということで、お宝写真は、第9回全日本選手権の決勝、バンフ東北対ファイルフォックスのジョナス対チアゴのマッチアップの写真としよう。

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