更新日時:2026.02.19
【連載】その7 カステジョンの衝撃/その8 キャプテンのアクシデント/その9 世界から受けた洗礼と希望|第7章 ワールドカップ|第2部 栄華期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ 著者・木暮知彦
第2部 栄華期
第7章 ワールドカップ(2004年2月~2004年11月)
その7 カステジョンの衝撃
その8 キャプテンのアクシデント
その9 世界から受けた洗礼と希望
その7 カステジョンの衝撃
第6回関東リーグ開幕から3カ月が経った2004年8月11日、13日、駒沢屋内競技場および駒沢体育館で、とある国際親善試合が行われた。〝とある〟と言ってもそれは驚きの試合で、なんと2002ー2003シーズンの欧州チャンピオンであり、スペインリーグ1部のプラージャス・デ・カステジョン(バレンシア州、以下、カステジョン)と日本のドリームチームとの対戦である。選手にはスペイン代表のハビ・ロドリゲス、ラファ、ホセマ、イタリア代表のナンド・グラナ、ブラジル代表のエウレルなど豪華メンバーがいた。
カステジョンを招聘したのは、ドリームマッチ2004実行委員会で、プレデターの塩谷竜生、浅野清春、府中アスレティックFCの中村恭平など、スーパーリーグ立ち上げ世代が尽力して実現したものである。また、アジアスポーツマーケティングの堀田正人がカステジョン側の代理人となっていた。堀田は若い頃にスペインに渡り、スポーツマネージメント、語学教育など日本とスペインのエージェントビジネスを立ち上げ、インターコンチネンタルカップ(世界クラブ選手権のようなもの)に日本チームを呼んだのも堀田であった。
そんなわけで、対する日本チームは、選りすぐりの関東リーグの選手たちであった。アンブロドリームチームが、ロンドリーナと柏フットサルクラブRAYOの合同チーム、ピヴォ!ドリームチームが、シャークス、プレデター、府中アスレティックFCなどの合同チームであった。それぞれチームに冠がついているのは、アンブロ、ピヴォ!のスポンサードを示している。なお、残念ながら、日本代表組は親善試合の性格上、参加していない。
このように、日本がワールドカップを決めたことで、これまではどちらかと言えば日系ブラジル人つながりでブラジルと日本の関係が深かったが、世界への視野が広がり、スペインと日本の関係も深まりはじめたのであった。
逆に言えば、ブラジルと並ぶフットサル大国スペインがいずれは全国リーグができる日本のフットサル市場に注目しはじめたとも言える。
そこで、ここでは、のちに鈴村、木暮、小野のスペイン3人組、さらには高橋へと続くスペインと日本の関係について紐解いておく。
選手がスペインのプロリーグに挑戦を試みた時期は比較的早い時期からであり、2001年から2002年くらいであった。すでに紹介したが、高島大輔(プレデター)、八尋智志(セニョールイーグルス)、小竹洋一(柏)、根本久敬(柏)、岩本昌樹(プレデター)らが挑戦している。
岩本は、2002年に2部のアルバセテと契約に成功している。そして、第2世代とも言える鈴村、木暮、小野らのスペイン挑戦は、カステジョンの衝撃の翌年、2005年からである。
2003年9月になると、プレデターが日本としては初めてチームでスペイン遠征を敢行する。スペイン1部のバレンシア、2部のアルバセテなどと対戦、0ー13、2ー8と敗れている。ちなみに、プレデターの女子カテゴリーであるラス・ボニータスの内山環、持田紀与美も帯同、内山はスペイン女子リーグのセレクションを受けている。のちの2007年に、FUNレディースの藤田安澄がスペインリーグのソト・デル・レアルとの契約に成功するが、その先鞭をつけたと言える。
2004年2月に全日本選手権が終わった後には、バルセロナで開催されたインターコンチネンタルカップに、日本から初めてロンドリーナが参加した。これは前述したようにスペインリーグが主催する国際大会であり、サッカーに例えると世界クラブ選手権(トヨタカップ)である。欧州、北米、南米、アジア、アフリカの5大陸のフットサルクラブ王者が一堂に会して世界一を決める大会で、この時から日本は前年の全日本選手権優勝チームが参加することとなった。アジアの代表クラブが出場する建前なので、本来なら〝アジアクラブ選手権〟の優勝チームが参加するのが筋であるが、当時はまだクラブ選手権の開催はなかったため、恣意的に決められたものと思われる。
欧州からは、前述したスペインのカステジョン(欧州王者)、ベルギーのアクション21(欧州2位)、ブラジルのカルロス・バルボーザ(南米王者)、アメリカからワールドユナイテッド(全米王者)、モロッコのAJAX(モロッコ王者)が参加した。ロンドリーナは、予選リーグでカステジョンに3ー12、ワールドユナイテッドに7ー1の1勝1敗で2位通過、順位トーナメントで同じ2位のアクション21に4ー8で敗れ、4位に終わった。ちなみに、その後のインターコンチネンタルカップは、ファイルフォックス、プレデター、大洋薬品バンフが出場している。
このような歴史の中で行われた親善試合は、奇しくも1999年8月15日に行われたブラジルのアトレチコミネイロとカスカヴェウ、ファイルフォックス合同チームとの試合と同じような結果になった。あの時は1-14、あれから5年の8月11日、ロンドリーナと柏の合同チームは0-16、ピヴォ!ドリームチームは0-15の大敗であった。ちなみに、5年前のアトレチコ戦、今回のカステジョン戦の両方を戦った選手はカスカヴェウの甲斐修侍とフトゥーロの上村信之介、渡辺英朗であったが、彼らのみならず、多くの選手がブラジルの個人技とは違う決まり事があって、機械のように正確に崩していく組織的なフットサルに目を見張ったのではなかろうか。
こうして、アトレチコミネイロの衝撃からカステジョンの衝撃へ、日本のフットサルの風向きはスペインへと移り変わっていった。その背景には、4年前にグアテマラで行われた世界選手権で、ブラジルを破ってスペインが優勝したこともあるが、世界経済情勢もこの頃、ヨーロッパは好景気、ブラジルは不景気という理由もあった。当時のスペインリーグは経済的にも絶頂期を迎えていた。こうして、鈴村、木暮、小野らのスペイン挑戦へとつながるのである。
余談になるが、カステジョンの来日がのちの人生に少なからず影響した人物がいる。ピヴォ!のライター座間である。座間は、ロンドリーナが参加したインターコンチネンタルカップの取材でスペインに渡ったが、カステジョンに魅せられ、今回のカステジョンの来日を機にカステジョンに住む決意を固めて実行に移したのであった。その後、フリーでスペインなど海外特派記事を書いていった。
また、もう1つの余談であるが、カステジョンの監督はブラジル人のペセであり、彼はシュライカー大阪や名古屋オーシャンズでプレーし、日本代表にもなったアルトゥールの父親である。その後ペセはブラジル代表監督に就任し、2008年の母国開催のワールドカップで優勝を遂げるのであった。
さて、お宝写真は、スペインフットサルの日本浸透のきっかけとなったカステジョンと日本のドリームチームの国際親善試合のパンフレット表紙にしよう。真ん中には、今回の目玉と言えるハビ・ロドリゲス、後ろには、日本の目玉、上村と甲斐が写っている。これを持っている人は、やはり〝通〟である。

そのカステジョンのエース、ハビ・ロドリゲスは、2000年のワールドカップで〝ギロチン〟と呼ばれる強烈な右足シュートを放ち、決勝のブラジル戦で2ゴール、スペインの世界制覇の立役者となった。と言うことで、お宝写真をもう1枚、同じくパンフレットに掲載されているハビ・ロドリゲスとしよう(ちなみにカステジョンは、現在、ペスカドーラ町田でプレーする毛利元亮がスペインで2つ目に所属したチームでもある)。

その8 キャプテンのアクシデント
2004年10月6日から9日まで、ワールドカップを前にした最後の日本代表遠征試合が行われた。それは、台湾で行われた4カ国対抗試合で、自国開催のチャイニーズ・タイペイが自国チーム強化のためにハンガリー、日本、マレーシアを招待して行ったものである。この遠征では、鈴村、難波田、市原らディフェンス陣のバックアップとして小宮山友祐(ファイルフォックス)、攻撃陣・金山のサブ的存在として、足が速く飛び出しが得意な狩野、大型選手でピヴォ役が期待できる松田和也(カスカヴェウ関西)が試されることとなった。
小宮山、狩野は直前の初招集である。この時、小宮山はのちにあるアクシデントが起き、それが自分に関係してくるとは夢にも思わなかったであろう。日本代表の成績は、ハンガリーに2-3で敗戦、2位で終了、課題を残す結果となった。しかし、現地で試合ができたこともあり、順調な仕上がりであった。あとは壮行試合のアルゼンチン戦を残すのみである。
いよいよ11月に入り、ワールドカップが始まる。日程は、11月2、3日に合宿、8日から再び招集、13日、14日にアルゼンチンとの壮行試合(幕張、駒沢)、17日に台北へと出発する予定であった。
最後の合宿が終わった3日後の11月6日、プレデターは全日本選手権の千葉予選決勝戦に臨んだ。そこには日本代表キャプテンの市原もいた。本人のブログによれば、試合が始まって10分、帖佐浩二朗とのワンツーに失敗してディフェンスに戻ろうとした時、「バチッ」と背後からバットで殴られたような衝撃が走ったそうである。
市原はアキレス腱断裂と診断され、ワールドカップ出場は絶望的となってしまった。皮肉にも11月8日の最後の14名の発表には市原の名前があり、小宮山の名前はなかった。急遽、代替メンバーに入ったのが小宮山であった。運と片付けるにはあまりに衝撃的で、重たい現実である。市原は、ブログにおいて「仕事での怪我だから」と述べ、壮行試合のアルゼンチン戦には松葉杖で応援に駆けつけた。微塵も無念さを見せなかった姿が非常に印象的であった。
ちなみに、のちに小宮山はファイルフォックスからバルドラール浦安に移籍、市原とはチームメイトとしてFリーグを一緒に戦うことになった。また、小宮山はその後も日本代表に選ばれ続けることを目標に懸命の努力を続け、サッポ・ジャパンに定着。無論、市原も日本代表復帰をあきらめることはなかった。
キャプテンの市原を欠くことになった壮行試合のアルゼンチン戦は、13日の第1戦は1-2で敗れたが、14日の第2戦は3-1で勝利、ワールドカップに弾みをつける戦いぶりであった。ちなみに、日本代表戦が日本で行われ、代表が日本のファンに国際試合でお目見えするのは、競技フットサルの歴史上、初めてのことであった。その後は、アジア選手権前に国内で壮行試合が行われることが通例となった。
さて、お宝写真は、そのアルゼンチン戦のポエイラ軍団の応援姿にした。なぜこれを選んだかと言うと、弾幕が〝ITY4〟すなわち市原であり、彼の想いをサポーターたちが汲み取って応援していたからである。

その9 世界から受けた洗礼と希望
第5回ワールドカップ開催の地、台北に日本代表が飛び立ったのは2004年11月17日であった。日本の試合は23日から始まる。参加は16カ国、日本は、グループCに組み分けられ、相手はパラグアイ、イタリア、アメリカであった。予選リーグ2位までが2次リーグに進むことができる。2次リーグに入ればベスト8である。2次リーグからさらに上位2チームがベスト4となり、準決勝を戦う。むろん、日本の目標はまずは予選1次リーグ突破である。
右肩上がりのフットサル界とあって、マスコミの注目度は高かった。非公式ではあるが、日本サッカー協会フットサル委員会委員長の大仁邦彌、副委員長の松崎らが全国リーグ設立に言及したことも注目度を上げる効果があった。
テレビ放送は、「スカパー!」が日本戦3試合を生中継、フジテレビが総集編を放送することになった。テレビ朝日は「GET SPORTS」で壮行試合のアルゼンチン戦をすでに放送していた。
日本から比較的近いこともあり、多数の応援ツアーも組まれた。セリエやJTB、ジェイワールドトラベルなどである。実際、すでに紹介した応援団のポエイラをはじめ、かなりの日本人が応援に駆けつけた。また、日本でのパブリックビューイングも都内2箇所で行われた。東陽町にあるフットサルコート+カフェ+ショップの「KEL(ケル)」と、恵比寿にあるサッカー観戦カフェ「FooTNiK(フットニック)」である。
4年後の2008年、ブラジルで行われたワールドカップ(この大会から「ワールドカップ」の呼称となった)に比べても、かなりの盛り上がりを見せたものである。あらゆる面で期待が大きかったことによるものと思われる。
さて、出場メンバーであるが、市原から小宮山への変更以外では、ゴールキーパーが遠藤から石渡に、フィールドプレーヤーが稲田から高橋に替わっている。改めて紹介すると、ゴールキーパーが川原、定永、石渡、フィールドプレーヤーが比嘉、相根、藤井、難波田、前田、金山、鈴村、木暮、小宮山、小野、高橋で、キャプテンは比嘉が務めることとなった。結果は、第1戦のパラグアイ戦で4-5という、わずか1点差の敗戦が痛かった。
前半は、木暮の先制から、前田の第2PK、比嘉のミドルシュートが決まり、3-2でリードして終了した。しかし、残り1分で1点差に詰め寄られた終わり方が良くなかった。後半はパラグアイのペースとなり、ついに後半11分に同点とされてしまう。それでも残り7分、再び木暮が勝ち越し弾を決めるも、ここからが実力の差かも知れない。残り4分、残り2分と決められ、引き分けどころか逆転負けとなってしまった。
試合後、国際サッカー連盟(FIFA)のサイトには、「パラグアイのヴィジャルバ(前半の1点差、後半の同点弾を決めた選手名)は木暮を影の薄いものにした」と、ヒーローになり損ねた木暮の記事が出た。
また、日本のブルーと太鼓の応援と、パラグアイの赤と黄色の応援を取り上げ「情熱的な雰囲気をかもし出した」と好意的であった。しかし、締めくくりは、「パラグアイの赤と黄色のポンポンが日本の太鼓を大人しくさせた」とあった。非常に悔しい敗戦であった。
第2戦はイタリアになす術もなく0-5で敗戦、しかし、第3戦のアメリカ戦は、彼らがパラグアイに勝ったため、5点差をつけて勝てばまだ2位になれる望みがあった。試合展開は優位に進めたものの、アメリカに先制点を奪われ、残り1分で木暮が同点にするのがやっとであった。1分け2敗で日本の夢は終わった。
第1戦をリードしながら落としたことや、得失点差のことを考えたら第2戦のイタリアに5点差の敗戦を喫したことなど、経験不足、力不足は否めなかった。
■第5回世界選手権 試合結果
11月21日 ⚫︎日本 4-5 パラグアイ 木暮2、前田、比嘉
11月23日 ⚫︎日本 0-5 イタリア
11月25日 △日本 1-1 アメリカ 木暮
優勝の行方は、またしてもスペインで、準決勝でブラジル、決勝でイタリアを下しての2回連続優勝であった。3位には、3位決定戦でアルゼンチンを下したブラジルが入った。
希望はと言えば、これを機に当時は比較的年齢が若い鈴村、木暮、小野、少し遅れて高橋が海外へ挑戦する気になったことで、しかもこれを実現させたことである。また、木暮、小野と同世代の小宮山は市原の代替で選ばれながらも2試合で出場できなかった悔しさを味わい、市原のため、自分のためにこれをバネにして代表に選ばれ続けようと思ったことである。実際、小宮山はこれを実現させた。
もう一つの希望は、ガロ、シャークスのトヨが始めたフットサルの応援の輪が、山川のポエイラとなって大きくなり、台北で応援に加わったサポーターが日本に帰ってからさらに広がったことである。これは、のちにFリーグ設立のためのプロジェクトチームが関東リーグを見学に来ることが多々あったが、好印象を与える効果をももたらした。
カスカヴェウ、のちにペスカドーラ町田のサポーターの「シミケン」のフットサル愛好の歴史は古く、2000年のカスカヴェウ優勝の頃だった。しかし、見るだけではなく、サポートする行動に出たきっかけは、台北での代表応援の経験が大きかったという。同じくカスカヴェウの「あやこ」も実際に行動を起こしたのはFリーグ設立の頃であるが、台北の応援経験者である。一方の雄、ファイルフォックスはと言うと、「かっさー」がやはり台北の経験からファイルフォックスを応援するようになった。
そののち、あるいは前後して、フトゥーロの「ウンノ」、府中アスレティックFCの「ユースケ」らが、それぞれのチームカラーを出した特色ある応援スタイルを築き、関東リーグの会場を盛り上げたのであった。
今でこそ、Fリーグでは当たり前のようにサポーターの応援合戦が繰り広げられているが、その原点はこの時の台北にあった。トヨは今でも「我々の原点は台北にある」と述懐している。
さて、お宝写真は、ようやくつかんだワールドカップの日本代表メンバーの集合写真である。緊張感と闘志があふれている。もう一つは、初戦のパラグアイ戦の勝利を逃し、キャプテンで5番のチラベルに慰められる木暮の写真にしよう。木暮は、この口惜しさから、いよいよ本気で世界への挑戦を決意したという。















