更新日時:2025.12.25
【独占インタビュー】藤田安澄が“フットサルに生きる”と決めた理由。海外、国内、日本代表……先頭を歩む開拓者の生き様

PHOTO BY本田好伸、伊藤千梅
藤田安澄の歩みは、いつも一つの決断から始まってきた。
大学卒業後に偶然、見に行った試合で衝撃を受け、その日のうちに仲間へと連絡してチームを立ち上げた。その後、「世界を知らなければ先はない」とブラジルへと渡り、スペインでも厳しい環境に身を投じて戦いを続けてきた。そうした歩みが、現在のフットサル日本女子代表コーチとしての立ち位置につながっている。
華やかに見えるキャリアの裏で、何度も悔しさや苦しさに向き合い、考え、決断し続けてきた。それでも歩みを止めなかったのは、「フットサルで生きていく」と心に決めたから。
20代は選手としてすべてを注ぎ、30代は学びを深め、40代は指導者として還元していく。人生設計するなかで、彼女自身は「フットサルが好き」という変わることのない熱い気持ちを心の中心において、ステージを進めてきた。
「フットサルを突き詰めたい。その気持ちが、すべての原動力です」
選手として、コーチとして、そして未来をつくる指導者として──。藤田安澄が歩んできた決断の道と、その先に描く女子フットサルの未来に迫る。
インタビュー=本田好伸
編集=伊藤千梅
偶然の1試合が、人生を変えた

──藤田さんがフットサルを始めたきっかけは?
今までずっとスポーツをやってきましたが、大学を卒業したタイミングでスポーツをしなくなっていました。その時、大学でサッカーを一緒にやっていた後輩から「フットサルの試合を見に行かないか」と誘われたことが競技との出会いです。
──そうだったんですね。何の試合を?
男子の全日本選手権の東京都予選です。当時はフットサルコートで予選をしていました。大学の後輩の友達がZOTT WASEDA FUTSAL CLUBの清野(潤)くんで、その時に初めてフットサルを見ました。
──その試合を見て感情が動いた。
サッカーを趣味でやるには、11人どころか22人が必要じゃないですか。さすがに22人を集めてやるのは大変だなと思っていて、フットサルを見た瞬間「5人でできるのか」というのが衝撃でしたね。
そもそもボールを蹴りたかったんだと思います。試合を見て、帰りの電車で大学サッカーの仲間たちにすぐメールして「フットサルチームをつくろう」と言って、すぐに(笑)。
──いきなりチームを(笑)。
そうなんです。まずはティファールカップという全日本女子フットサル選手権の前身の大会に出場しました。まだ関東大会までしかつながらない大会だったのですが、茨城県予選に出ました。
全勝して、関東大会に出て、1位がパラレッズ、2位がファンレディースという強豪に続いて、3位になったんです。そんなに簡単に勝てるとは思っていなかったのですが、けっこうあっさり勝てたことが思い出に残っています。
──あれ、いけちゃうんじゃないみたいな?
そんな感覚でしたね。その後もあちこちでレディース大会があって、出るたびにサッカーで負けていたようなチームに、フットサルでは勝てたんです。私の感覚としては「たぶん私はフットサルのほうが向いているんだろうな」と。
大卒後に磨いたフットサルの基礎
──藤田さんのサッカー歴は、実はそんなに長くないですよね。
小学校高学年の時に週1でサッカーをやっていましたが、趣味のレベルでしたね。サッカーに本気で取り組んだのは、インカレ出場を目指していた大学3、4年の2年間です。卒業時点でリフティングも全然できなかったくらいなので、技術はその後に磨きました。
でも運動が好きで、中学から大学2年までは8年間バスケットボールをやっていました。フットサルは、バスケの経験が明らかに生きています。サッカーでは勝てなかった相手に対してフットサルで勝てたのは、バスケの動きに近いからだと思います。
──藤田さんのあの高い技術は、大学卒業後に獲得したものだった……。
当時、学校の先生をやっていたので、授業がない時間に体育館でずっとボールを蹴っていました(笑)。パスやコントロールも含めて、私がもっているフットサルの技術はすべて大学を卒業してから身につけたものですね。
──個人練習だけで身につくものですか?
ちゃんと考えてやっていました。たとえばリフティングの練習といっても、1000回やろうが1万回やろうが、試合では上から降ってくるボールはほぼないですよね。じゃあ試合で必要なテクニックは何かなと、常に考えながら自分に必要なことに取り組んでいました。

──その後、フットサルを始めて間もない時期にブラジルへ。
フットサルを始めて2年目に、雑誌『フットサルマガジンピヴォ!』の広告ページに、“ブラジル弾丸ツアー”の案内があったんです。すぐに電話して「ブラジルに行きたいんですけど」と話をしました。
そうしたら、個人での参加を受け付けていないと言われて、「女子は大会で優勝したパラレッズが、チームとしてブラジルの大会に出るから、そこに入ったらどうか?」という話になって入れてもらい、大会後にブラジルのチームに加入しました。
──なぜそれほどの決断ができたんですか?
フットサルと出会った時点で「フットサルで生きていこう」と決めていたので。なので、その時点で覚悟はできていました。
最初に抱いていた感覚として、フットサルはサッカーやバスケに似たスポーツでした。だけど、サッカーの“ような”とかバスケの“ような”じゃなくて、フットサルはフットサルですよね。似たスポーツではなく、フットサルとは何なのかを知らないとその先はないなと思ったのでブラジルに行きました。
──そうした考え方はどうやって身についたものですか?
幼少期からずっと、自分で考えて決断して生きてきたからかもしれません。高校を決める時も、大学に行く時も、親には相談しないで「ここに行きたいんだ」「じゃあ頑張りなさい」という進め方をしていたので、常に考えることが自分の中にはあると思います。
──とは言え、社会人の当時、フットサルで生きていく決断はかなり大きなものだったと思います。
でも、好きだったからしょうがないですよね。勝てたらうれしいじゃないですか。当時、一番大きな大会で予想以上にあっさりと3位になれたことがうれしかったですからね。
バスケでは全然、通用しなかったんです。バスケのトップ選手になりたいけどなれないという悔しさを味わいましたし、それはサッカーをやっていた時もそうです。
でも、どこかでずっと、「スポーツ選手になりたい」という気持ちがありました。だから、フットサルと出会った時に、これだな、と。自分がなれるスポーツ選手はこれだと思いました。
順風満帆に見えたキャリアの“影”

──これまで、藤田さんは選手としても指導者としても順調にキャリアを歩んできている印象もあります。ただ、外からは見えない苦労などもあったのではないでしょうか。
おっしゃるように、外から見えるキャリアは順風満帆に見えるかもしれません。ただ、ブラジルでも、スペインでも、相当な苦しい経験をしました。それに、現役最後まで日本代表に入れたわけではなく、メンバーを外れてしまったこともあります。あの時の悔しさはしばらく抜けませんでした。そうやって味わってきたものがあって、今の自分がいると思います。
──ブラジルは今よりも環境や治安が厳しい時代だったと思います。日本人の女性選手が入って活動できるような場所だったのでしょうか?
その質問の答えとしては、やれる場所だったと思います。ただ、自分は怖いもの知らずで、フットサルをやりたい気持ちだけで行っていたので、治安などは気にしていませんでした。
それこそ、ブラジルの全国大会に出る時はバス移動だったのですが、「48時間のバス移動」と言われていたなか、蓋を開けたら60時間のバス移動でした(笑)。途中、アマゾン河をバスで渡る時は、突然スタッフに「窓から顔を出すな」と言われて。なぜだろうと思ったら「ここは治安が悪くて、いつ襲われるかわからないから、誰も乗っていないように見せるために顔を出すな」と(笑)。信じられないような経験を、実はいっぱいしています。
──とてつもない経験ですね……。
スペインの1年目はいい感じでスタートできたと思っていたのですが、日本代表に招集されて、4試合ぐらいリーグ戦を欠場することになりました。それでチームに戻ってきたら、知らないおじさんがいたんです(笑)。誰かと思ったら、成績不振で監督が交代していました。苦労して信頼を勝ち得て試合に出ていたのに、リセットされてしまいました。
2年目は、監督と合わなくなってしまい、優勝争いをしていたチームから、残留争いをしているチームに移籍することになりました。周囲の例で言えば、仲の良かった選手がわずか3日でクビになったこともありましたけど、日本ではありえないですよね。
そういったキャリアを重ねてきたので、海外、国内、日本代表の経験は、みなさんに知ってもらえていることと、そうではなく、自分の糧となっているものもあります。
──フットサルが嫌になったり、やめたいと思ったりしたことは?
なかったですね。若さゆえの勢いもありましたし、フットサルが好きで、フットサルで生きていくと決めていたので。でも、いろんなことを経験してきた今の自分からすると、そういう感情が出ることもあります。よくやっていたなと思いますね(笑)。
──そうやって積み重ねてきた経験が今の藤田さんをつくってきたんだな、と。
世界にトップレベルがある以上、そこを経験しないとモノを言えないとも思っています。日本代表コーチとして「世界と戦うんだ、優勝を目指すんだ」と選手たちに伝える時に、世界で戦った経験から話ができることは、私の強みだと思っています。
フットサルを仕事にする未来
──引退を決断した理由は?
もともと、20代はアスリートとして一切妥協をせずに、思ったことをすべて行動に移すと決めていました。その後、30代は指導者として勉強する期間というように、10年スパンで物事を考えていました。なので、32歳での引退は、実は長くやりすぎたという気持ちです。
──フットサルで生きていくと決めてから人生プランを考えた。
そうですね。継続は力なりと言いますけど、私は、ただ続けるだけではなく、「本気を継続すること」が力になると思っています。その本気を継続できる期間は、そんなに長くない。
なので、30代までをリミットに決めていました。ただ、スペインから帰って来て、この経験を少しでも還元できる場所をつくりたいと考えて32歳まで続けました。
──本気を継続するための原動力とは?
フットサルが好きだからでしょうね。
だから、フットサルを突き詰めたい。選手としてだったり、今はコーチとしてだったり、もしかしたら次の10年、50代は違う立場になっているかもしれません。でも、根本にはフットサルを突き詰めたい気持ちがあると思います。そういった生き方や考え方のベースとして、基本的に自分の決めたルールを破らないということもあるように感じます。
──自分に厳しすぎるくらいの厳しさ。
好きなものを仕事にしちゃっているので。もしこれが趣味だったらそうする必要がなかったと思います。ただ、ベルマーレや日本代表を背負って、多くの人に応援してもらっている以上、自分だけのものじゃなくなっていますからね。
──決めたことを守れない瞬間はないんですか?
自分が決めたことに対してはそんなないですね。
でも、それは目標設定の方法にも理由があると思います。すべてをきっちりと決めるのではなく、少し余裕をもたせる。特に、大人になればなるほど自分のつくった約束をどうしても守れない時が出てきますから。だから、守れる範囲の目標に変える。例えば、「火曜日と木曜日に10km走る」と決めたら、都合をつけられなくなるかもしれないから、「週に2回、10km走る」という感じですね。そうすることで、自分のルールを守れるようになります。

──この先はどんな未来を描いていますか?
先ほど、10年スパンで物事を考えてきたと話しましたが、30代は指導者として、自分のためになるものはどんな状況であれすべてのことをやろうと決めていました。
40代は「指導者を仕事にする」ことを目標に歩んできているのですが、そこはまだ足りていません。50代は、自分が手を下さなくても仕事が成り立つようにしたいと考えていますが、もう少し、指導者として自分自身の仕事にする部分を続ける必要がありそうです。
──今はまだ、足りない。
そうですね。日本代表も湘南ベルマーレも、まだコーチですからね。やはり監督としてチームをマネジメントする経験を積まないといけないと思っています。
そこから、これが仕事になるというところを、女子選手たちに示していきたいと考えています。W杯を経験した選手たちの中からそういった道に進む選手が出てきてほしいですし、経験を次の世代に伝えないと、絶対に日本女子代表は強くならないと思っています。私としては、女性のフットサル指導者が活躍できる場を増やしたいですね。
これまでフットサル界に関わり続けてきましたけど、何よりも、私が競技を始めるよりずっと前から携わってきた黎明期を知る先輩たちがいたからこそ、自分があると思っています。
私は第一人者ではないですし、想いを受け継いできたと思っているので、そうやって示してもらったものを、ちゃんと未来へとつなげていけたらと思っています。

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