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作成日時:2026.02.19
更新日時:2026.02.19

【連載】その7 残り1秒、キックインドラマの仕上げ/その8 成り上がりへの道/その9 苦節7年、プレデター|第9章 栄華期の頂点|第2部 栄華期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ 著者・木暮知彦

第2部  栄華期

第9章 関東から一足飛び世界へ(2005年3月~2006年2月)

その7 残り1秒、キックインドラマの仕上げ
その8 成り上がりへの道
その9 苦節7年、プレデター

その7 残り1秒、キックインドラマの仕上げ

前期の最終節を終えたところで、第7回関東リーグはいったんお休みとなり、各チームは第11回全日本選手権の都県予選の戦いへと散っていった。そして、激戦の都予選は2005年10月15日より始まった。

残り33秒のキックイン、残り4秒のキックインに続く「残り1秒」の〝キックインドラマ〟は、都予選1次ラウンドの最終日、2005年10月29日に起こった。なお、これらの試合の残り秒数はゴールが決まって時計が止まった時を記述しており、実際のキックインはその1秒から2秒は前であろう。

都予選1次ラウンドの組み合わせは抽選で決まるが、グループAは同じ関東リーグ同士のボツワナとファイルフォックスが同組となった。ボツワナは、関東リーグ開幕節でファイルフォックスを破っており、過去に、カスカヴェウを同じく都予選で破った実績もある。波乱が予想される組み合わせとなった。

15日から始まった都予選、ここまでファイルフォックスは2勝、一方のボツワナは1勝1分けで、1次ラウンドの最終試合でボツワナは勝たなくては2次ラウンドに進めない。ファイルフォックスは引き分けでもいい状況である。しかし、会場はすでに、ボツワナが〝またやるのではないか〟と多くの観衆が詰めかけ、立ち見でいっぱいになるほどの熱気に包まれた(ボツワナは、2001年10月27日の都予選で当時優勝候補筆頭のカスカヴェウを3-1で破るミラクルを起こしていた)。

試合は、前半は2-1でファイルフォックスがリード、しかし、後半は連続してボツワナが得点を奪いついに逆転する。しかし、残り2分でファイルフォックスが同点に追いつき、勝負というより、引き分けでも全日本選手権出場という点では俄然、ファイルフォックスが有利となった。

ボツワナは北原のパワープレーに出て、勝ち越しを狙う。しかし、時間は刻々と過ぎていく。そして残り1秒、ボツワナがゴール右、おおよそペナルティエリアライン付近からキックインのチャンスを得る。北原は、ゴール前に蹴れば何かが起きると思い、シュートともパスとも思えるボールを祈るような思いで送り込んだ。ボールは2人の壁をすり抜け、スルスルとコースは変わらないように見えてゴールに向かい、ファーサイドのネットを揺らした。ゴールキーパーの遠藤晃夫は、ほとんど無反応に見えた。一瞬、静寂があった。しかし、その一瞬の間がトラブルの元になった。審判はゴールの判定、歓声が起こるボツワナのベンチ、一方、猛然と抗議する遠藤。騒然となる会場であった。

キックインで誰も触らずにゴールした場合は得点とは認められない。一方、ゴール前にいた木村幸司が少しでも触っていれば得点となる。遠藤は、触っていないことをアピール、だからこそそれを見切ったと言う。一方、木村は自分がゴールしたことをアピール、30分以上、ゲームは中断された。

むろん、ファイルフォックスも判定が覆ることはないとわかっていた。しかし、時計の針は残り1秒であるから、ここで認めればゲームが終わることもわかっていた。その自分たちを納得させる時間が30分は必要だったということであろうか、審判が執拗な抗議に遅延行為でイエローなりレッドなりを出さないのも不思議だったが、その時間を認めたのだろうか。観客も理解が及ばないままプレーは再開し、ファイルフォックスの一蹴りでゲームは終わった。

それにしても、ファイルフォックスのマイボールになって、なぜ、時間稼ぎの常套手段であるゴールキーパーのロングキックを使わずに、ゴール左サイドのディフェンス板谷に出すことを選択したのか。なぜ、その板谷はキープできずにボツワナに簡単にキックインのチャンスを与えてしまったのか。なぜ、北原のキックインが壁になった板谷と北の間を抜けてしまったのか。なぜ、抜けたボールに対して、万が一を考慮して遠藤は反応しなかったのか。

これらの偶然が重なり、残り1秒のキックインドラマは生まれたのだろうか。

しかし、このドラマはそれだけで生まれたものではない。そこには、ボツワナの苦難の道程があり、4年前のサプライズとは違う実力がすでに備わったうえでの勝利だった。カスカヴェウを都予選で破るミラクルを起こしたが、決勝でファイルフォックスに1-15で大敗、衝撃を受けたボツワナは公式リーグに参戦することを決意した。2002年に東京都のオープンリーグからスタート、2003年には東京都2部に昇格、優勝を果たす。同時に当時、民間大会でたびたび顔を合わせていた暁星高校サッカー部OBでつくった森のくまさんと意気投合、ほぼ合流したが、彼らもまた、単独でも民間大会に出場していた。ちなみに森のくまさんは2003年、2004年のピヴォ!チャンピオンズカップに優勝している。また、北原は、すぐにはボツワナには加わらず、2004年度の関東リーグ参入戦には渋谷ユナイテッドで出場している。このような紆余屈折を経ながら、本格的に戦力強化を行い、2004年度の東京都1部で優勝、2005年度から関東リーグに参戦となった。カスカヴェウ戦のミラクルからすでに4年が経過、もはや、当時最高峰の公式リーグである関東リーグでファイルフォックスを破るまでに成長していたのである。

もっとも、ボツワナはこの都予選を勝ち抜くことはできず、全日本選手権の初出場は翌年の第12回大会であった。

さて、お宝写真は、残り1秒の証拠写真としよう。ところで、この原稿を書いている時、残り1秒のドラマを引き起こしたキックインの張本人、北原の引退表明が名古屋オーシャンズから発表された(2015年年12月23日)。

一度は社会人となった転向、そして残り1秒のドラマから数えて約10年。派手さはないが、堅実なプレーとここぞという時に見せる勝負強さが北原の身上であると思う。日本代表歴は52試合、Fリーグのベスト5や最優秀選手、名古屋オーシャンズのキャプテンなど、見事にフットサル人生を全うしたのではないだろうか。また1人、関東リーグ輩出の名選手が現役を去ることは寂しいが、その活躍に感謝したいと思う。

その8 成り上がりへの道

全日本選手権の東京都予選が終わるほぼ1カ月前、2005年9月30日からグリーンアリーナ神戸で第21回全国選抜選手権大会が行われた。地域のチームが出場する方式ではなく、個人を選んで選抜チームを組む方式に切り替わった時期は1999年5月の第15回大会である。以来6年が経過し、何人もの選手が選抜に選ばれてきた。

フットサルには国体がないので、選抜大会は国体に代わる選手発掘の場であった。残念ながら、現在は、Fリーグに注目が集まりがちであるが、選ばれた選手にとっても日本代表とまではいかないが地域の代表となることは名誉であり、フットサル精進の動機付けになった。この年の大会は、大会優秀選手の選考を日本代表監督のサッポが行うという新しい試みもあった。言葉は悪いが〝成り上がりのチャンス〟が選抜大会である。もっとも、フットサルそのものが新興スポーツであり、黎明期は成り上がりのスポーツでもあった。

名を成すチャンスの訪れは、必ずしも選手ばかりではない。この大会で名を成す機会をつかんだ人物がいた。それは、カスカヴェウでコーチ役を務めた前川義信である。前川は2002年の頃はカスカヴェウのスタッフであったが、フットサルのコーチングに興味をもち、勉強していた。その熱心さを買われてコーチ役に抜擢されたのだった。その後、誘いを受けて東京都フットサル連盟の技術部スタッフを務め、ついに第21回の東京都選抜の監督に就任した。前川にとっては人生を大きく変える転機であり、チャンスでもあった。ここで優勝すれば、選抜大会の優勝監督の称号を得ることができ、やがて設立される全国リーグの監督の道も開けるというものである。

第20回、第19回大会は静岡県選抜、大阪府選抜が優勝している。東京都は2年連続の2位であった。ちなみに、第15回大会は特別に日本選抜が優勝、第16回、第17回大会は関東選抜、第18回大会から地域予選が始まって都道府県の選抜チームが出場するようになり、東京都選抜が優勝、関東勢が3連覇していた。したがって、今回は3大会ぶりの王座奪還が至上命題であった。

前川にとっては大きなチャンスであると同時に、大きなプレッシャーでもあっただろう。前川は、比較的安定感があって、戦力を計算できる選手を選んだ。ファイルフォックスから、岩田雅人(キャプテン)、小宮山友祐、森岡、カスカヴェウから狩野新、森谷優太、久光重貴、GK松原君守、府中アスレティックFCから完山徹一、小山、GK石渡、シャークスから横山哲久、広瀬孝夫、西野宏太郎、ガロから横江怜、ゾットからGK渡邊博之らである。また、練習量を比較的多く確保し、関西チームのスカウティングを行うなど精力的に動くのだった。

そのかいあって、予選グループは、前年優勝の静岡県選抜とは引き分けたものの、奈良県選抜、山口県選抜を大差で下し、静岡県選抜に得失点差で上回って1位で突破した。ベスト4には、強豪の埼玉県選抜、北海道選抜、静岡県選抜が残り、決勝は再び静岡県選抜との戦いとなった。これを、3-2で制し、ついに関東の王座奪還に成功したのだった。前川にとっては、大きなチャンスを生かして目標に一歩近づいた。しかも、翌年も優勝、その翌年は請われてミャンマー代表監督となり、成り上がりの道を歩むのであった。

とはいえ、全国リーグが設立されて2年目という早い段階で湘南ベルマーレの監督になるとは想像できなかったに違いない。ましてやその後、1シーズンを待たずして苦渋の選択を迫られるとは思いもよらなかったであろう。

一方、名を成すチャンスをこの時は生かせなかった選手もいた。それは埼玉県選抜の上澤貴憲(のちに名古屋オーシャンズ、府中アスレティックFC)である。上澤は、サッポからこの大会の優秀選手に選ばれていたが、サッポ・ジャパンに選ばれることはなかった。この頃から上澤はすでに、「埼玉に技術があり、フィジカルにも強い選手がいる」と有名であった。しかし、監督の好みもあったのだろうか、日本代表に選ばれたのは、代表監督がミゲル・ロドリゴに替わってからである。ちなみに上澤は、1979年生まれで、同学年の日本代表、木暮、小宮山、小野、豊島明、鈴木、濱地裕樹(ロンドリーナ)らに比べて遅咲きで日本代表となっている。

ところで、第31回大会(2015年10月)が神奈川県優勝、これで関東勢3連覇ということで、関東の話題が中心とはなるが選抜大会の歴史を少し振り返ってみよう。

個人の選抜方式に変わった1999年の第15回大会から最初の3、4年くらいは〝魅せるフットサル〟を知らしめる時代だったと言える。この大会は、第1回アジア選手権の日本代表チームが「日本選抜」として特別枠で出場して決勝を関東選抜と戦い、優勝を遂げた。

第16回大会は関東選抜、第17回大会から都府県単位になり、同大会と第18回大会で東京都選抜が優勝したが、当時はそうそうたるメンバーが名を連ねていた。上村信之介、甲斐、相根、難波田、前田、金山、稲田祐介、小宮山、木暮、GK定永、遠藤、石渡らである。俺たちがやらねばとフットサルそのものが成り上がるために選出された選手たちと言っても過言ではない。

次の時代は、意識的に代表クラスは外し、中堅から若手の育成を図る時代となった。これは3、4年ほど続き、第19回大会からFリーグが誕生する前の年の第22回大会くらいまでであろうか。森谷、狩野、久光、西野、横江、小山、吉成圭ら、Fリーグの中堅を担う選手が選出され、育っていった。

そして、Fリーグ設立以降の時代である。ここからは基本的にFリーグの選手が選ばれることはなくなった。つまり、Fリーグ以外の地域のチームの強豪から選手が選ばれる時代になってきた。東京都で言えば、フウガ、カフリンガ、ゾットらの新興勢力の時代になった。例えば、2010年の第25回大会は、フウガから太見寿人、関健太朗、金川、深津孝祐、星龍太、渡井博之、諸江剣語、GK大黒章太郎と8名が選出されている。また、カフリンガからは垣本右近、夏野雅生、佐藤嘉孝、原義直、ゾットからは荒木淳が選出された。この時の監督は須賀であった。

そして、第31回大会は、神奈川県選抜(鈴木正太、コロナFC/権田)、その前の第30回大会は群馬県選抜(岡田サントスジオゴ監督、元湘南ベルマーレ選手兼〝実質〟監督)、その前の第29回大会は東京都選抜(清野、ゾット)と関東勢が3連覇している。
ちなみに、1999年の第15回大会からの歴代優勝都道府県を並べてみよう。

■全国選抜大会 優勝チーム(2015年まで)
第15回大会 日本選抜
第16回大会 関東選抜
第17回大会 関東選抜
第18回大会 東京都選抜
第19回大会 大阪府選抜
第20回大会 静岡県選抜
第21回大会 東京都選抜
第22回大会 東京都選抜
第23回大会 静岡県選抜
第24回大会 北海道選抜
第25回大会 東京都選抜
第26回大会 京都府選抜
第27回大会 神奈川県選抜
第28回大会 大阪府選抜
第29回大会 東京都選抜
第30回大会 群馬県選抜
第31回大会 神奈川県選抜

実に17回中10回、関東勢が優勝していることになる。残念ながら、注目はFリーグに移りがちであり、地域と全国には壁がある。しかし、いつまでも成り上がるチャンスの選抜大会であってほしいと思う。

さて、お宝写真は成り上がりへの道を歩んだ東京都選抜の前川義信監督にしよう。そもそも「成り上がり」という言葉は、フットサルナビで使われた言葉で、1DAY大会でいかに勝つか、その極意を前川が解説した時のものである。実際、前川は、指導についてよく勉強しており、スペインに何度も留学、湘南ベルマーレの監督以降、日本サッカー協会(JFA)のB級コーチ養成講習会のインストラクター、トルクメニスタンへJFA公認指導者の海外派遣コーチなどを経て、その後もフットサル指導者養成ダイレクターとしても活躍していった。

その9 苦節7年、プレデター

2006年2月5日、国立代々木競技場第一体育館で第11回全日本選手権が行われた。本大会は、メイン会場が従来の駒沢体育館からキャパシティの大きい代々木へ移ったばかりでなく、さまざまな変化があった。その一つは、チーム数が16チームから20チームに増えたこと、開催場所も予選リーグが関西、決勝トーナメントが関東と分散開催となったことである。また、施設との連携を深める意味から施設連盟選手権大会枠が1枠、育成の観点から全日本大学フットサル大会枠が関東、関西で1枠ずつ設けられた。これは、施設連盟選手権大会および全日本大学フットサル大会優勝チームが出場できるというものである。フットサルはさらなる盛り上がりを見せるのであった。

チーム分布を見ると、関東は、前年優勝枠があるので4チーム出場、以下、北海道、東北、東海、関西、九州、全日本大学フットサル大会枠が2チーム、北信越、中国、四国、九州が1チーム、施設連盟選手権大会枠が1チームの合計20チームである。4チーム5グループに分かれて予選リーグを戦う。関東4チームは5グループのうちの4グループに振り分けられることとなる。また、決勝トーナメントは、各予選グーループ1位5チームとワイルドカード3チームの8チームで行われるレギュレーションとなった。

まず、フォルサヴェルヂ、プレデター、カスカヴェウは各予選グループを1位で勝ち上がった。しかし、ロンドリーナは北信越の新潟ナポリに1位を奪われ、ワイルドカードで上がる遅れを取った。関東チームがいない唯一のグループは関西の高槻松原FCが勝ち上がった。また、ワイルドカードの2位、3位は、九州のスポルバ21、北海道のアルーサであった。

この時点では、決勝トーナメンントに関東4チームが残ったことなるが、トーナメントのつぶし合いが1つくらいはあるはずである。なんとそれは、昨年、都予選で当たったフォルサヴェルヂ対カスカヴェウとなった。当時、大物助っ人ブラジル人を招聘して話題を呼んだフォルサヴェルヂであったが、この時はカスカヴェウに敗れて全日本選手権の本戦には進めなかった。

しかし、カスカヴェウも関東予選でロンドリーナに敗れ、結局、両チームとも全国を逃した経緯がある。その2チームが、この年はは決勝トーナメント1回戦で当たるのである。

実は、因縁はそれだけではない。さらにその2年前、第9回全日本選手権、この時は予選リーグだったが、バンフ東北とカスカヴェウが対戦。フォルサヴェルヂはバンフ東北の流れを汲むチームであり、監督は眞境名オスカー、選手も比嘉リカルド、沖村リカルド(のちに湘南ベルマーレ、通称シニーニャ)、柴山豊、前田大輔などがどちらも経験している。そもそも、バンフの支援を受けているチームである。当時はバンフ東北がカスカヴェウを破り、カスカヴェウが予選リーグ敗退となってしまった。

因縁はまだまだ続く。本書の冒頭でも述べたように、フォルサヴェルヂのオスカーとカスカヴェウの甲斐は、8年前の1998年、アズーで第3回全日本選手権に一緒に出場した仲である。その後、2人はそれぞれファイルフォックスとカスカヴェウを設立した。ちなみに、バンフの櫻井はカスカヴェウをスポンサードしていた時期もあった。

そんな因縁対決は、若いブラジル人助っ人2人を擁して戦力に厚みを増したフォルサヴェルヂに軍配が上がり、カスカヴェウは2年ぶりの全日本選手権だったが、またしても決勝の舞台に立つことはできなかった。長くて厳しい通年リーグを戦った後、全日本選手権の難しさを味わうカスカヴェウであった。一方のフォルサヴェルヂは、カスカヴェウを破った勢いそのままに決勝までコマを進める。

ロンドリーナは、カスカヴェウとは逆に関東リーグ上位リーグ全試合欠場という実戦不足が響く結果となった。関西の高槻松原FCに敗れたのである。プレデターはその高槻松原FCを破って決勝まで進み、第11回大会は関東勢同士の対決となった。

試合は、高橋が開始1分で持ち前のテクニックで先制点を挙げ、プレデターが主導権をにぎる。しかし、直後に市原誉昭が負傷退場、暗雲が立ち込める。だが、ベテラン藤井がこれをカバーし、6分に縦のスルーパス、これに〝ミスター・プレデター〟の岩本昌樹がドリブルで駆け上がり2点目。さらに岩本がFKで3点目、前半は3-0、プレデターのリードで終える。結局、前半のリードがモノを言って、4-2でプレデターがフォルサヴェルヂを下すのであった。設立から7年、ついに悲願を達成したのだ。三国志が始まって以来、全日本選手権の頂点を目指して次々とチームが勃発、府中水元クラブ、ファイルフォックス、カスカヴェウ、ロンドリーナが日本一への想い成就させてきたが、これまでのプレデターは、優勝どころか出場さえ叶わなかった。

それが今回、初出場で初優勝という快挙を成し遂げたことには理由がある。それは、この2、3年、全国リーグ参入をにらんで、会社の組織化、選手との契約制度の確立など、運営面の充実と、市原をはじめとする戦力の強化など、用意周到に準備を進めてきたからである。特に戦力面では、東海からGK川原の獲得、関西から藤井の獲得に代表されるように、攻守のバランスへの配慮と、日本人で固め、コミュニケーションの醸成を図ったことが強みとなった。これは、監督の塩谷が何年か前、日系ブラジル人を助っ人に起用して成果を出せなかった経験が影響しているように思う。ちなみに、この時のプレデターのメンバーはGK川原、冨金原徹、FP安藤信二、平塚雅史、市原、藤井、福角、中島孝、帖佐浩二郎、相根、岩本、清水誠、大田雅裕、江藤、高橋である。これだけの選手たちを掌握し、指揮を執れるのは塩谷の手腕と言っていいだろう。

一方のフォルサヴェルヂは、助っ人ブラジル人の強化はあったものの、2セットを充実させて組める戦力強化までには至らず、疲労は蓄積していった。また、コミュニケーションに難があることも敗因になったのではなかろうか。

日本人で固めたプレデターと日系ブラジル人を含む外国人選手を中心に戦うフォルサヴェルヂとの対決、これはFリーグのバルドラール浦安と名古屋オーシャンズの戦いに通じるものと考えると、大変興味深いものがある。

いずれにしても、プレデターにとっては、苦節7年、全国リーグ参入に向けて大きな勲章を手に入れることができた。一方、ファルサヴェルヂの支援者バンフの櫻井は、全国リーグに向けて、東京で参入するか東海で参入するかの決断を迫られることとなった。全国リーグ参入に向けた場外の戦いはすぐそこまできていたのである。

さて、お宝写真は、バルドラール浦安のGMと紹介するのではなく、〝プレデターの塩谷監督〟と紹介しよう。読者の中には監督のイメージはないかも知れないが、全日本選手権優勝監督である。この写真は、フットサルナビのインタビュー記事のものであるが、そこで塩谷はこう述べている。

「やはり、感慨深いですね。うれしかった。特に帖佐や岩本など生え抜きのメンバーがチームを引っ張ってくれたので」

苦節7年の実感であろう。現在は、バルドラール浦安の運営会社代表に専念している。

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