更新日時:2026.02.21
【連載】その1 場外の戦いの始まり/その2 歴史あるチームの退場/その3 打倒関東の台頭|第10章 場外の戦い|第2部 栄華期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ 著者・木暮知彦
第2部 栄華期
第10章 場外の戦い(2006年3月~2006年10月)
その1 場外の戦いの始まり
その2 歴史あるチームの退場
その3 打倒関東の台頭
その1 場外の戦いの始まり
2006年の春、例年、リーグと全日本選手権が終わる頃になると、選手の移籍や新しいチームの誕生が活発になる。しかし、この年はいつもの移籍やチーム誕生とは違う重みがあった。それは、全国リーグ発足の見通しが強くなってきたため、全国リーグに出場できるかも知れない、もしかしたら、フットサルで飯が食えるかも知れないという〝夢〟が加わったからである。しかし、全国リーグ参入のチーム数には限りがある。よって、参入をめぐる熾烈な「場外の戦い」が始まることとなった。
その戦いの口火を切ったのは、バンフスポーツの櫻井嘉人であった。2006年3月、早くも全国リーグ参入の発表を行ったのである。
櫻井は、カスカヴェウでフットサルチームにスポンサードする事例の先鞭をつけ、第6回全日本選手権でカスカヴェウ優勝、第7回でSuerte banff準優勝、第9回でバンフ東北優勝、そして第11回フォルサヴェルヂで準優勝など、支援の実績を示し続けてきた。本人は学生時代、強豪の大学サッカー部に所属しており、残念ながら怪我で現役を退くことになったが、相当なテクニシャンだったらしい。したがって、この実績は櫻井の選手に対する目利きによるところが大きい。しかしながら、通年リーグに定着したチームづくりとなると、一昨年に立ち上げた東京都リーグのフォルサヴェルヂ、元々、立ち上げていた東海リーグのバンフFCがあるが、関東リーグのチームに比べると戦力的に見劣りもあった。また、会社組織化でもプレデター、カスカヴェウ、府中アスレティックFCなどの関東勢が先行していた。さらには、参入に当たっての地域をもはや最終決定しなければならない時期にきていた。
櫻井は、まず、東海地域、それも名古屋を本拠地とすることに決めた。これには、名古屋を本拠地とする大洋薬品工業(現在の武田テバ薬品株式会社)の新谷重樹社長(故人)との出会いがある。
新谷は、学生時代サッカー選手だったこともあって、地域貢献やコーポレート・アイデンティティとしてJリーグのチームをもちたいと考えていたという。櫻井も同じ思いを抱いていたので、ある会社を通じて紹介された時、意気投合したのではないだろうか。トントン拍子に話が進んで、大洋薬品を母体としたプロクラブの設立、さらには専用アリーナの建設まで一気に事が決まった。
戦力面については、まず、監督はバンフ東北以来の付き合いである眞境名オスカーを起用、選手は関東を中心に集めることにした。むろん、オスカーの人脈もある。しかし、参入するからには優勝できるチームづくりをと考えた時、関東の選手の力が必要なことは明らかであった。2006年3月までには、ファイルフォックスからGK定永久男、森岡薫、ロンドリーナから豊島明、野嶋倫、ボツワナから北原亘を獲得するのであった。基本的にすべてプロ契約である。すでに一部の選手のプロ契約事例はプレデターの市原誉昭などに見られたが、全員がプロ契約となるのは日本初のことである。この物語が始まった1996年から数えてちょうど10年目にして、競技フットサルを目指した数多くのチーム、選手たちのプロ化の願いが、突出した1チームとは言え実現したのだった。
さて、この10年が早いか遅いか、いずれ、歴史が評価すると思うが、早過ぎることもなく、遅過ぎることもない歴史的必然であったのかも知れない。もし、もっと遅かったらリーマンショックに直面、Fリーグは誕生しなかったのではないだろうか。逆に、2006年より早く設立できたかと言うと、「見るスポーツ」を支える環境がフットサル人口にしても、メディアにしても、整っていなかった。おそらく、時期早尚と言われたであろう。
そして、選手たちは、すでに東海リーグに参加していたバンフFCを改名した「大洋薬品バンフ」として、6月からリーグに参戦することとなった。この間、大物選手の移籍、ブラジル人の追加などが行われたが、これはのちに書くことにする。
それにしても、「場外の戦い」は、始まったと思ったら、大洋薬品バンフが早くも2歩も3歩もリードしていたのであった。やがて、4月に入ると全国リーグ設立の正式発表があった。
さて、お宝写真は、櫻井が集めた関東からの選手の1人、GK定永にしよう。この写真は超貴重なもので、イランのテヘランで開催された第3回アジア選手権の集合写真の1コマである。右に定永、左から金山友紀、渡辺英明、上村信之介と続いている。定永はすでに紹介したとおり、新チームの監督オスカーがファイルフォックスを設立した時に大阪から呼び寄せた選手で、長い間ファイルフォックスのGK、日本代表のGKとして活躍した。しかし、遠藤晃夫、川原永光の台頭により次第に正GKの座を奪われ、第6回アジア選手権の時には、予備登録となって帯同、しかし、献身的なサポートでセルジオ・サッポ監督をしてワールドカップ出場を決めた立役者と言わしめたことは有名である。
その定永をオスカーは躊躇なく、名古屋へと呼んだのであろう。定永もこれに応え、監督オスカーこそ1年で退任したが、定永はクラブにとどまって名古屋オーシャンズの創成期に貢献した。
また、日本代表としても2004年、2008年のワールドカップ2大会連続出場を遂げた。とりわけ、川原が名古屋へ入団してからは第2GKとして支え、第2PKの時には〝必殺仕事人〟のバックミュージックで登場、颯爽と止めて「PK職人」と言われたものである。
その後、バサジイ大分に移籍、2014年3月に現役引退、シュライカー大阪のコーチへと転身した。GKは、正GKにならない限り、なかなか出場機会に恵まれないポジションである。しかし、チームにおける2人目、3人目のGKとはなくてはならない存在であることも確かである。
1998年にフットサル界に足を踏み入れ、引退までの現役18年間、フットサルの黎明期を駆け抜けた定永の経験は貴重な存在であり続けるだろう。

その2 歴史あるチームの退場
全国リーグを目指すチームが現れ、派手に発表された2006年3月、一方で、歴史ある関東のチームがまた1つ、表舞台から退場するのだった。それは、1998年に設立したガロで、3月4日から始まった第8回関東リーグ参入戦で6年間守った関東リーグから降格となってしまったのだ。
ガロは、1996年から始まったこの三国志の黎明期に次々と誕生したチームの1つであり、第1回関東リーグ優勝(プレデターと同時)、第2回地域チャンピオンズリーグ準優勝、第2回スーパーリーグ準優勝という輝かしい実績を残した。代表および監督は個性豊かな横田年雄で、そのブログや、横田の個性に惹かれて創設されたガロのサポーター組織は有名であった。また、シャークスへの大量移籍で話題になり、その後、若手を育成、日本代表の横江怜、滝田学、小山剛史など、〝育成の横田塾〟としても名を馳せた。
ところで、第7回関東リーグにおける下位リーグの結果は、話の展開上、記さなかったが、結果は7位シャークス、8位府中アスレティックFC、9位マルバ、10位ロンドリーナ、11位ガロ、12位サルバトーレソラであった。なお、順位の表記は上位リーグと合わせた合算の並びである。ペナルティにより「勝ち点0」でスタートしたロンドリーナは汚名を返上すべく、下位リーグ全勝で残留に成功した。前期で全敗だったサルバトーレソラは、下位リーグでようやく1勝を挙げたものの最下位となり、結局、11位のガロと最下位のサルバトーレソラが第8回の参入戦にまわることとなった。
その参入戦でガロは、11位グループの決勝戦まで進み、残り5分まで3-2でリードし、降格を免れるかに見えた。しかし、その後に同点に追いつかれると、なんと残り5秒のコーナーキックがゴールとなって逆転負けを喫し、ついに表舞台から退場することになってしまった。この時の模様を関東リーグのホームページではこう報じている。
「まずは、11位ブロックの決勝ガロ対セニョール戦、残留対復帰対決となったが、残り4分で3-2とガロがリード、このまま逃げ切るかと思われる試合だった。しかし、セニョールには失礼かも知れないが、運がだいぶ左右したかも知れない。残り3分に松本の放ったミドルのグラウンダーシュート、これまで再三ファインセーブを見せていたガロのゴールキーパー平井だったが、その手をすり抜けるようにゴール左スミに決まってしまう。しかも、その前、あれだけ敵味方がいる人数の誰にも当たらず、ゴールまでボールはすり抜けた。それでも、まだガロには前の試合のPK戦で高西クラッシャーズを下している運がある。とそんな予感もした残り5秒、最後のチャンスであろうゴール右サイドのコーナーキックを得たセニョールがまさかの逆転打を打ったのだ。コーナーからの戻しを打ったシュートはゴールラインを割り、キックインになった。おそらく、残りは3秒程度であろう。そのキックインからまたしても打った松本のミドルシュートはゴール正面にいき、ゴール前の選手に当たり、一瞬浮いて、そのままボールはゴールに押し込まれるように入っていった。あとでセニョールの選手に聞いたら誰も押し込んではいない、もしかしたらオウンゴールかも知れないとのことであった。むろん、ガロもクリアできたかも知れない。結局は松本のゴールとなったが、これが1年間の明暗を分ける結果になろうとは……」
12位グループのサルバトーレソラは1回戦で敗退、結局、昇格したのは返り咲きの千葉県のセニョールイーグルスと、初昇格の神奈川の権田FCであった。セニョールイーグルスは、第5回以来の復帰を果たした。
権田FCの戦いぶりについては、当時、関東リーグではこう報じている。
「続く12位ブロックの決勝戦は、目の前で同じ千葉県のセニョールの復帰を見た柏RAYOと神奈川の権田FCとなった。柏RAYOは、前評判の高かった東京代表のカフリンガを4-2と快勝しての決勝進出であった。一方の権田FCは、全国大会神奈川予選ではロンドリーナを苦しめるほど最近力をつけてきたチームで昨年も参入戦には進出している。しかし、今大会ではダークホース的な存在であった。だが、そのダークホース的存在、どちらかと言うと気楽に戦ったのが幸いしたのだろうか、軍配は権田FCに挙がった。実力は柏RAYOのほうがあったと思うが、1年で復帰のプレッシャーからか固いスタートとなってしまった。前半にカウンターから左サイドをドリブル突破され、センタリングを合わされて先制点を奪われてしまう。しかし、ボール支配は柏RAYO、後半も押し気味に進めるが、残り8分にアクシデントは起こった。権田FCがカウンターから抜け出し、柏のGK石井と1対1になる。石井はゴールラインの前に出てスライディングで防ぐが、これが1発レッドの退場。再三ファインセーブを見せていた石井だっただけに、柏にとっては想定外だった。このFKは防ぐものの4人になった柏に対して、権田FC、中川の打ったゴール中央からのシュートは柏のDFに当たってコースが変わり追加点、これが結局決勝点になってしまった。柏としては、引き気味の権田FCに最後はパワープレーで臨んだが、崩すことはできなかった」
権田FCは、その後「コロナFC/権田」と名称変更し、関東1部でも上位に食い込むほどのチームとなった。降格、復帰を繰り返しながらも、2016年にはついに、第21回全日本選手権に関東第1代表として念願の初出場を果たした。また、第2代表には、柏トーア(柏RAYOを改名)が同じく初出場したことは感慨深いものである。
さて、ガロは、育成した選手たちは横田塾を卒業、何人かはFリーグで活躍することになる。チームは、戦力低下は否めず、その後、東京都3部リーグに降格、関東リーグ復帰は厳しい状況となってしまった。
過去においても、府中水元クラブ、アズー、小金井ジュール、エスポルチ藤沢、ウイニングドッグなどがさまざまな事情で表舞台から去っていった。しかし、ガロの降格は、全国リーグ設立による新たな関東の勢力図の塗り替えの予兆を示すものだと考えることができる。
参入戦のドラマは、ガロの降格だけではなかった。高西クラッシャーズがまたしても関東リーグ昇格をPK戦で逃したことにも表れている。上澤貴憲(のちに名古屋オーシャンズ、府中アスレティックFC)を擁する高西クラッシャーズは、2年連続PK戦で敗れ、関東リーグ昇格できなかったことは以前に書いた。その翌年もPK戦ではなかったが昇格はならなかった。そして4回目の挑戦、11位グループになった高西クラッシャーズは、2回戦でガロと当たり、またしてもPK戦で涙を飲むのだった。さすがに上澤は、海外行きを模索するなど身の振り方を考えることとなった。その矢先、大洋薬品バンフから声がかかったという。こうして、4月には大洋薬品バンフの上澤が発表された。もし、ここで高西クラッシャーズが関東リーグ昇格を決めていたら、彼はどうなっていただろうか。
ちなみに、高西クラッシャーズは改名して、その後、アルティスタ埼玉となり2部昇格を果たしている。
さて、お宝写真は、苦節10年、ついに全日本選手権初出場を果たしたコロナFC/権田にしよう。これは昇格時の「関東リーグプレス」2号のシーズン始めの紹介写真である。コロナFC/権田は、設立は2001年と古い。横浜近辺の法政二高サッカー部OBを中心につくられたチームで、権田次郎がその一人だったことから最初は権田FCという名前になったという。実際、法政のOBが今でも現役に名を連ねている。
コロナFC/権田のすごいところは、昇格、降格を繰り返して今日があるところである。昇格して3年目の第10回大会で最下位となって降格、2年で昇格、しかし1年でまた最下位で降格、3年間2部にいて、昨シーズン再び昇格したのである。今まで、2度降格となって、復帰したチームは今のところいない。
それだけ、紹介文のタイトル通り、団結力が強いということであろう。

その3 打倒関東の台頭
歴史あるチームのガロが関東リーグ参入戦で必死に残留争いを戦っているさなか、ほとんど同時期の3月3日から5日、駒沢体育館で第6回地域チャンピオンズリーグが行われていた。
早くも6回を数えた地域チャンピオンズリーグは、第1回小金井ジュール、第2回ファイルフォックス、第3回カスカヴェウ、第4回シャークス、第5回ファイルフォックスとこれまで関東勢が優勝を独占してきた。
第6回の関東代表出場チームは、リーグ1位のカスカヴェウを筆頭に2位プレデター(初出場)、3位ボツワナ(初出場)の3チームである。カスカヴェウは優勝経験があり、プレデターは1カ月前の全日本選手権で優勝、ボツワナも新興勢力として全国に知れ渡る強豪である。今年も、関東勢が優位かと思われたが、結果はそう甘くはなかった。なんと、全日本王者のプレデター、新興勢力ボツワナは予選リーグ敗退、カスカヴェウも準決勝で関西のマグに敗戦となり、全国リーグが始まると予測される前年に、ついに地域リーグの王座を他地域に明け渡すことになってしまった。カスカヴェウ、プレデター以外のチームにとっては地域リーグ優勝の実績だけでは評価実績として安心はできない。少しでも全国レベルの実績を残さねばならない。そんな動機付けの差があったことは十分予測される。
実際、あとでわかったことであるが、本大会参加12チームのうち、関東以外で全国リーグ参入の申請を出したチームは、北海道のDC旭川(北海道連合チームの1つとして)、東海の田原FC、関西のマグ、九州のスポルバ21など4チームであった。これに関東のカスカヴェウ、プレデターを加えると6チーム、実に12チーム中6チームが全国リーグ参入を目指すチームだったというわけである。すでに、この時点で、審査のための実績づくりという「場外の戦い」は始まっており、〝打倒関東〟の包囲網が形成されつつあったのだ。
まず、モチベーションの煽りを食ったのは、ボツワナであった。予選リーグC組のチームは、ボツワナ、マグ、田原FCで最初にボツワナとマグが引き分ける。マグは7-3で田原FCに勝利したため、ボツワナは5点差で田原FCに勝たねばならない。田原FCはもはや決勝トーナメントに上がる目はないが、なんとしても関東の成績上位を食い止めねばならない。田原FCは一時3点差をつけられるが、そこから逆転、結局は7-7の引き分けでボツワナの決勝トーナメント進出を止めたのであった。結局、Cグループはマグが決勝トーナメントに進出した。
予選リーグB組のチームは、プレデター、関西のカンカンボーイズ、北信越のインディゴであった。カンカンボーイズは、ロンドリーナが優勝した第8回全日本選手権で準優勝の実績がある。そのカンカンボーイズにプレデターは4-5で敗れ、あえなく予選敗退となってしまった。B組はカンカンボーイズが決勝トーナメントに進出、これで関西2チームが決勝トーナメント進出を決めたことになる。D組はカスカヴェウが勝ち上がり、A組はDC旭川が勝ち上がり、決勝トーナメントは、マグ対カスカヴェウ、DC旭川対カンカンボーイズの組み合わせとなった。
マグ対カスカヴェウの一戦、ここでも、モチベーションが働く。マグは、フィールドプレーヤー6人という厳しい選手層だったが、打倒関東の気持ちは強かった。何しろ、福角有紘、藤井健太の主力2名が関東のプレデターに移籍していたから、なおさらであったろう。8-7で接戦をモノにし、ついにマグは全国のタイトルに手が届く決勝戦までコマを進めると同時に、関東の優勝を阻止したのであった。
決勝戦はマグ対DC旭川の対戦となった。マグはのちのFリーグのシュライカー大阪であり、DC旭川は、エスポラーダ北海道に多くの選手が移籍したチームである。のちのFリーグにおいても、関東打倒を目指すチーム同士の対戦になった。選手には、菅原和紀、嵯峨佑太、佐々木洋文、荒井紀弘、辻良樹、高山剛寛らがいた。彼らはエスポラーダ北海道のFリーグ参入時のメンバーである。
結果は、マグはカスカヴェウを倒すことに精力を使い果たしたか、3-4でDC旭川に敗れ、全国タイトルを手にすることはできなかった。逆に、DC旭川は関東のチームと対戦することなく、全国タイトルを手に入れたため、選手は口々に「関東のチームを倒して優勝したかった」と述べるのであった。
ちなみに、翌年の第7回地域チャンピオンズリーグは、大洋薬品バンフが優勝した。その決勝の相手はマグだった。マグは予選リーグで府中アスレティックFCを破り、準決勝ではファイルフォックスを倒して決勝進出した。2年連続、カスカヴェウ、ファイルフォックスの2強を倒しての決勝進出だった。しかし、マグは、2度とも優勝することなくFリーグへ参入し、地域チャンピオンズリーグでの実績を残すことはできなかった。
一方のDC旭川は、予選リーグでカスカヴェウ、大洋薬品バンフと同組となり、念願の関東のチーム、それも強豪カスカヴェウとの対戦が実現した。しかし、5-6で惜敗、大洋薬品バンフにも敗れたため、決勝トーナメント進出はならなかった。翌年、エスポラーダ北海道に多くの選手が移籍したため、願いは実現しなかった。
そんなエピソードをもつ第6回地域チャンピオンズリーグであったが、この大会以降、確実に関東に対抗するチームが台頭してきたことは間違いない。
さて、お宝写真は関東勢ではないが、第6回地域チャンピオンズリーグの決勝を戦ったマグと、初優勝したDC旭川の集合写真にしよう。DC旭川はディヴェルティードSSPとチーフスという旭川の強豪が合併したチーム。中心選手である菅原と佐々木はチーフスの助っ人としてフットサルをプレーしていたが、自分たちのチームをつくろうとディヴェルティードSSPを結成した。SSPは菅原・佐々木・プロジェクトの略である。














