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2020.03.16

【フットサルに生きる男たち】花巻の消滅、仙台F2降格。2つの“転落”に直面した清水誠が背負った“宿命”

PHOTO BY軍記ひろし

誰よりも汗を流し、誰よりも献身的にプレーする男。

清水誠は、現役時代からアツい選手だった。その生き様は指導者になっても変わらない。

シーズン2巡を残してクラブを去ったホセ・フェルナンデスの後任に指名された清水は、どんな想いで指揮を執ってきたのだろうか。数節後には調子を上げていたアラン・ギタヒが退団し、10月にはエース・堀内迪弥が移籍。そして11月14日、仙台の来シーズンのF2降格が発表された。

ホセ監督が退任したあたりから、クラブに何かが起きていることは明らかだった。清水が、何も知らずに監督業を引き受けたわけではないだろう。だが清水監督も、一緒に戦う選手たちも、フロントの“ゴタゴタ”をピッチに持ち込むことはなく、ひたすら勝利を目指して戦い抜いた。

2011年、ステラミーゴいわて花巻が消滅することになった最後のシーズンを戦っていたのも、清水だった。清水も、他の選手たちも、クラブがなくなるという大きなショックのなかで、やはり最後までファン・サポーターの前で雄志を見せていた。

同じ東北の地で味わう、2つの“転落”の経験。清水はそれを“宿命”だと言った。「困難な状況があったときに、必ず一番きつい方を選ぶ」と、苦笑いしながら話す。それが清水の生き様に違いない。彼は何を思いながら、指揮を執り続けたのか──。

1月の駒沢セントラル。仙台のF1ラストマッチの直後に話を聞いた。

困難な状況があったときに一番きつい方を選ぶ

──F2への降格が決まっていたヴォスクオーレ仙台にとって、F1では最後の試合。どういう気持ちで試合に臨んだのでしょうか?

始まる前は、やはりただ勝つことを目的にやらないといけないと。勝負の世界ですからね。実際に、試合が終わって振り返ってみると、(これがF1では最後の試合だという)そういう部分は自分を左右していたかもしれないですし、そこは否定できません。僕にも感情があり、機械のようにさばけるわけではないので、そういうことをこの駒沢セントラルの2試合で深く感じました。

僕も選手でしたし、ステラミーゴいわて花巻のときに、クラブがなくなってしまう状況のなかでピッチに立っていました。その経験はやっぱり忘れることのできないものでした。そうした過程を経てこのクラブができて、僕は3年ほど東北を離れました。クラブが、僕が目指すものとは違うところに向かう気がしていて、このまま残ることはできないと個人的に思っていました。

ただ3年後に帰ってくると、こうして難局が待っていたのですが、そのときに「マコが必要だ」と言ってくれる人たちがいて。その想いを汲み取りながらやってきて、でも、結果的にはF2に落ちることになってしまいました。競技力は関係ないところではあったのですが、どうしようかなと、正直。自分が(F2に)落としたと思われているところもありましたし、(F2に降格することを)わかっていて監督を受けたのではないかと心配されることもありました。

実際はそうではなくて。もっとよくしていこうと思ってきたら、結果的にこうなってしまいました。僕が来た時点で遅かったのかもしれないですが、現場では関係なく、結果を出すことでしかお返しできないので、今日までやりたいなと思って。(仙台の最終戦を終えて)9位というのは(引き分けたことで)首の皮一枚つながっている状況で、(同じ勝ち点のバルドラール浦安とFリーグ選抜との)得失点差での争いを待つことになります。プレーオフの可能性を残すフウガドールすみだが浦安に勝ってくれたとして、Fリーグ選抜が名古屋に負けることを想定すると、みんな勝ち点33ポイントで並びます。そこら辺で、最後に残せたというのは、後の試合も楽しめる要素がある。楽しく試合を見ながら最後を迎えたいと思います。

──清水監督としては想定していない状況だった。

それは間違いありません。

──シーズン途中に監督に就任する“ことになってしまった”。どう捉えていた?

Fリーグ選抜とホームで対戦して敗れた試合(8月4日の第12節)があるのですが、その前の週に打診を受けました。僕には僕の生活がありますが、同時に、寄り添っているクラブがピンチになっている。その両方ですごく揺れました。決めるまでに2週間しかなかった。いえ、本当はそんなになかった。2巡目のスタートでもあるFリーグ選抜の試合から指揮を執る可能性もありました。クラブとしてはそういう考えもあって。

あとはクラブとホセ・フェルナンデス監督との話し合いがあったようで、足踏みをしていて、その間に僕は考える時間をもらいました。とにかく悩みました。自分が戻ることがベストかどうかもわからない状況でした。監督のオファーを受けましたが、選手がそれを望んでいるかもわからない。ホセ監督が呼んできた選手も多いですし、それで3年、4年とやってきたわけですから。それで自分がやると決めるには、今でも思うのですが、本当に覚悟が必要でした。

フットサルが好きだし、選手をしてきたなかでは、自分に対してオファーがあったり、必要としてくれたりするクラブもあった。それが自分の価値だと思っています。監督も同じですが、自分がお願いするのではなく、お願いされて初めてできるものです。だから自分の価値を高めたいという欲求があり、いつでもファイティングポーズをとってきました。それがシーズン途中だというのは正直に驚きがありました。でもクラブの社長が、3年前の話をしてくれました。

当時、自分が感じていたものとはビジョンがズレていて、僕は38歳だったのですが、ベテランが残ることはどうなんだろうという話があったなかで、自分が身を引くことが一番いいだろうと決断しました。若い選手に頑張ってもらうのが本来の流れだろうと。でも、いきなり世代交代するのではなく、クラブの流れを汲み取りながらやっていってほしいという願いがあったのですが、当時はそこから9人くらい、退団しました。

たぶん、僕が発信者になってしまったんですね。キャプテンでしたし、僕の行動を見ている仲間が同時に出ていくことになってしまった。僕がクラブの社長に何かを言ったのは初めてのことでした。それまでは、それは選手がやるべきことじゃないし、自分が言ってはいけないものだと思っていましたから。選手が偉そうに言ってはいけない。でも、自分がやめるとしても彼らは残してほしい、と。彼らは未来だから、と。1年後、2年後に結果を出せなかったら変えていくのは仕方がない。それがクラブが求めるものだと思っていましいた。選手を全員やめさせて、できる選手を連れてきて勝ちを目指すことは、仙台の街には合っていないと、社長にお願いしました。

結果的に僕もやめましたけど、その頃の話をされて、「マコは、人間的な話をしてくれた。自分はクラブの運営、経営的な話をした。本当はよくわかっていたが、できなかった」と、頭を下げてくれたんです。社長が頭を下げることなんてないことですし、そこで決断しました。

本当に自分の気持ちが揺れている数日の話でした。ずっとこの話をしたかった、悪かったと言ってもらえて、僕自身、胸のつかえが取れた。僕を必要としてくれているのであれば、やろうと。いっぱい失敗もするだろうけどやろうと、そのときに決断しました。

──坂本理社長。

そうです。社長がいろいろと頑張ってくれたことは事実です。それでもできないことがあったりしたと思いますが、一生懸命、向き合ってくれていたことは変わらないものです。そこについては感謝をしています。ただ、これからのことを考えたときに、変わらなきゃいけないものもあるという状況だと思います。

これからどうなっていくかはわからないですし、まだF2のライセンスが交付されていないということも聞いていますから、そこに向けての発信や行動が重要ではないかなと思っています。選手はプレーに専念しつつ、僕らスタッフはそういうクラブ周りのことも考えて行動していかないといけないと感じています。

──清水監督の立場としては、クラブの職員でもある?

いえ、僕は自分のスクールもしています。宮城県でお世話になっていて、協会の育成担当もメインでやらせてもらっています。そこを急には変えられないので、今シーズンに限っては掛け持ちで監督をしていたという状況です。スクールをして、協会の仕事をして、クラブの練習をして、(対戦相手の分析のために)映像を見て、ということをずっと繰り返しやってきました。本当にノンストップで、振り返ることもできないくらいやってきました。今、この場でようやく振り返ろうとしているような状況です(苦笑)。

何ができて、何ができていなかったかもわからないくらい。でもそれは周りの人が決めることですし、試合を見に来てくれる人がいい試合だったとか、選手が伸び伸びやっていたという話を聞くと、よかったのかなと思う部分もあります。

──監督をすると決断したと同じように、選手も同じように揺れていたと思います。監督が交代して、いざ始めるという段階で、チームはどのような雰囲気だったのでしょうか?

一緒にやってきた選手もいるので、そういう選手は僕が選手時代を知っているし、僕が宮城に骨を埋める覚悟でやっていることも知ってくれているし、家も去年、買ったので(苦笑)。そういう覚悟は伝わっていたと思います。でもそれ以外の選手は、試合はしていましたが、改めて会うことはないですし、心配な部分は正直ありました。前監督の最後の方では、僕が監督になることを知っていた選手もいると思いますし、その1、2週間、クラブが選手にどのように伝えていたのかはわかりません。でも僕は日本人ですから、コミュニケーションは大事にしていこうと。(8月に退団することになった)アランとも話をしましたし、ホセが連れてきた外国人助っ人でしたが、自分は必要としていると。自分の下でやってほしい、と。

(10月に退団することになった堀内)迪弥とも長い時間を過ごしてたくさん話をしました。それでも彼が決めたことは尊重しました。アランも迪弥もそうですけど、自分が監督になって離れていった選手がいることは寂しい気持ちは正直、ありました。でも残っている選手がそれでも頑張ろうという空気を出してくれました。

結果的によくなったのは、(9月15日の第18節から)キャプテンが(田村)研人に交代することになってから。会ってから数週間くらいでしたが、彼にしたかった。それは自分の経験やフィーリングなどをフル回転して、あいつにやってもらえないと困る、と。自分にとってはいい仕事だったんじゃないかなと思います(笑)。

コーチもいなくなっている状況で彼が間に入ってくれて、選手と監督の関係を緩和してくれたことで、選手に話が伝わりやすくなったと思います。彼がどう思っているかはわからないですが、僕にとってすごく大きかった。人がいなくなって、バラバラになってもおかしくはない状況でチームの雰囲気を作ってくれた。僕がいないところで話をしてくれたり、食事に行ったりしてくれて、研人がいなければバラバラになっていたかもしれない。頼んだわけではないけど、そういう選手がいてくれたこともホセ監督が築いた財産でした。

──田村選手は、プレースタイルも現役時代の清水監督に近いというか。同じフィクソでもある。

試合でも同じ景色を見て、感じていることも似ていたのかもしれない。特に守備のことを考えている選手は比較的、理論付けてしっかりとプレーできている印象もあります。後ろには、頭をフル回転しながらチームのことを考えられる選手が多いので、僕としてもチームを作りやすいというのはありますね。

──ステラミーゴいわて花巻では選手としてクラブ消滅の瞬間に立ち合い、仙台でも難しい状況に直面してしまいました。“運がない”という見方もできますが、逆に、人にはできない経験でもあります。

今日、ホテルを出てから会場に来るまでの間に、すごくそのことを思いました。なんで自分はこういう状況でパスが来るんだろう、そういう道があるんだろう、と。前回、花巻のときにもそれが使命だと感じましたし、震災が来ることがなければきっとああいう状況にはなっていないけど、やってきた。自分が選んだもの。そこに訪れたものなので、自分は生かされている、求められている。そういうところに来るものは、乗り越えられるからやってくると考えるようにしています。困難なことがあったときに、楽な方ではなく、一番きつい方を選ぶことにしているんです。家族には怒られるんですけどね(笑)。花巻のときからそうやってきました。だから、乗り越えられるから訪れたんだと頭の中でこの状況を変換しながら、会場に入りました。

こんな状況を知っているのは自分くらいだし、この感情を知っているのも自分だけですから、乗り越えたときにどう思うのかなと。監督としてだけではなく、人間として成長できると思いますし、この経験がまた、フットサル界や子どもの指導とか、いろんなところで還元できるはず。12クラブで自分が一番成長したと言い切れるくらいの確信があります。

──清水監督はなぜそこまで東北への想いが強いのでしょう?

僕の出身は神奈川県なのですが、父親方の母の家が石巻だったので、小さい頃から馴染みのある土地です。去年の4月に家を買って、その数カ月後にまさか監督になるとは思っていませんでしたけど(苦笑)。畳み掛けてくるんだなって。監督をしていてもいなくても、仙台で生きていくことを決めていました。フットサルはもちろん、東北をもっともっと盛り上げたいです。この経験は協会でも生かしていかないといけないなと。それが僕の仕事だと思っています。

──花巻と仙台、置かれている状況も、境遇も違うなかで、景色も違った。

そうですね。がむしゃらに自分のことだけを考えて選手をしていましたから。勝つことを求めたり、カッコよくお客さんに見てもらいたいみたいなことを考えたりしていましたが、今は人の親となり、子どもを指導する立場になり、勝たせてあげたい、成長させたいとか……変化してきました。本当にお客さんに支えられていることも実感しています。

(試合後に掲げられた)仙台や相手チームのサポーターの横断幕もそうですね。泣かないでいるのが精いっぱいで、涙がこぼれ落ちそうになるのを我慢していて……。F2降格が決まってからは、バサジィ大分戦でも掲げてもらっていましたし、そういうことがずっと続いていて。

改めて、応援してもらっている、生かされていることを感じました。フットサルファミリーとして、F2に行ったとしてもまたファン・サポーターのために戦うべきだし、(F1に)戻ったときに、また一つの物語になるというか。ヴォスクオーレ仙台にとっては、Fリーグに上がったことが一つの物語でした。第二章というか、F1に再昇格できたときに、クラブとして成長できる。歴史を積み重ねていくんだと思います。

──最後の記者会見でも「未来」という言葉を使いました。まだ先が見えなくても進んでいく。ここからチームと、清水監督はどうやって進んでいくのか。

本当に暗闇の中にずっといるような感覚で、何をしても壁にぶつかるような状況です。自分が思った通りには進まないですし、選手もいなくなったり、クラブがこうなったときに、自分一人の力では何もできないということが改めてわかりました。

だから周りの人を巻き込んで、支えられないとクラブは進めないと改めて思いました。同時に、想いがあれば動いてくれる人がいることもわかりました。

こんな辛い状況でも手を差し伸べてくれる人がいて、今だからこそ助けたいと言ってくれる人がいて、そういう人たちは、一生、一緒にいられると思う。助けてくれるし、自分も助けてあげたい。そういう人と一緒にこのクラブは進んでいくべきです。だから今が一番、大事。今この状況でついてきてくれる人は、絶対に裏切らないと個人的には思っています。

この先、一緒に戦える選手がたくさん残ってくれることを期待したいし、それをつなげる作業を僕がしないといけない。僕自身がどうなるかわからないですが、必要とされるように頑張らないといけません。

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