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作成日時:2021.08.02
更新日時:2021.09.07

ポップコーンを食べながら悔しさを噛み締めた“あの2016年”から5年。「他の人にできない仕事が俺にはある」。皆本晃が臨む集大成|ブルーノジャパンの肖像

PHOTO BY高橋学、本田由伸

日本フットサル界にとって待ちに待ったリトアニアワールドカップ(W杯)が目前に迫っている。皆本晃にとっては待ち焦がれた初の舞台だ。

本来であれば2016年、29歳で迎えるコロンビアW杯が一つの区切りとなるはずだった。ところが2度目の前十字靭帯断裂により、W杯予選を兼ねたAFCフットサル選手権を欠場。仲間に想いを託して自身は懸命にリハビリに励んだものの、代表チームはまさかの予選敗退に終わり、悔しさ、悲しさ、苦しさをピッチで共有することさえもできなかった。

あれから5年──。

「負けた責任として2020年まで」

そう決めて、走り続けてきた。そして迎えた2021年、皆本はどのように集大成を迎えるのか。

取材を担当したのは、日本代表でも、立川・府中アスレティックFCでもチームメートとして戦ってきた渡邉知晃氏。“トモアキ”だから明かす、皆本の本音とは──。

インタビュー=渡邉知晃 編集=川嶋正隆

両ヒザの前十字靭帯断裂は「神様が与えてくれたきっかけ」

──早速始めていくけど、今回はW杯について話を聞かせて。

大丈夫? (インタビュー)できるの? 面白いこと聞いてくれないと、こっちは答えられないから。腕がないと面白いこと言わないよ。

──おまえに面白いこと求めてないから(笑)。

みんなが聞きたいこと聞いてくれよ。

──大丈夫だよ。おまえは話が長くなるからもう始めるぞ。今回のリトアニアW杯について聞く前に、2016年だよね。ウズベキスタンで開催されたAFCフットサル選手権で、メンバーに入れそうだったのにケガして出られなくなった。やっぱり皆本晃と言えばケガだよね。

やめろ(笑)。

──両方の前十字靭帯を断裂しているけど、そのケガのせいでできなくなったプレーってある?

昔できたプレーができなくなったと思いたくなかったから、プレースタイルを変えた。

──昔はガンガン仕掛ける選手だったからね。

若い頃はスピード系だったじゃん。でもスピードは戻ってこないかもと思ったから、スピードよりもパワーのことを考えた。ポジションもフィクソに下がったしね。裏に飛び出すとか、1ライン目のプレスで相手を引っ掛けてカウンターみたいなプレーは、もしかしたらできたかもしれないけど、自分のスタイルを変えた。

──できないかもしれないという時点で変えた?

そうそう。そういうプレーをする自分が見えなかったから。過去を追いかけるようなことはしたくなかったんだよね。カッコつけていうと、神様が与えてくれたきっかけ。「おまえは変わらないといけないんじゃないの」ってね。だからスムーズに変えられた。

──スピードでの突破はやめたけど、1対1の状況から左サイドでさらしてシュートを打つプレーをやる。そこでキレの衰えは感じた?

それはあまり感じないな。キレが重要なのは、1歩目とか2歩目くらいまで。そこはトレーニングでむしろアップした感じかな。昔はキレで勝負するんじゃなくて、もうちょっと裏を取る感じで、3歩、4歩、5歩とバーっと走る感じだった。でも(ケガをしたことで)そこで伸びなくなるだろうと思ったから1歩、2歩で勝負するようにした。長い距離だともう敵わないね。

──シュートとか1対1とかは影響ない?

むしろそこについては、トレーニングして上がった感覚がある。スピードは落ちたけど、パワーとかシュートの直前の部分とかは上がった。もちろんフィットまでに時間はかかったけどね。でもケガをする前よりも良くなったと思っているかな。

ポップコーンを食べながら悔しさを噛み締めた2016年

──ケガして強くなった部分もある、と。でもそのケガの影響で2016年はアジア選手権に出られず、チームは敗退してW杯に行けなかった。俺は出ていたメンバーとしてかなり責任を感じているけど、あのとき、何を思った?

いろんな意味で寂しかった。

──それは「なにしてんだおまえら」ってこと?

いや、そうは思わなかった。負けたときって、俺はリハビリをしている段階で、まだ走ることもできない。ようやく歩くトレーニングをしている時期だった。あの日(W杯出場の可能性がなくなったキルギス戦)もリハビリが終わって、家に帰ると試合に間に合わない。だから帰る途中で、(試合中継が見られる)BSが映る漫喫(漫画喫茶)を探して、そこで見てた。

──漫喫で見てたの?

うん。ポップコーンを食べながら。テレビに映るおまえらを見ていて、当たり前だけどそこに俺はいない。おまえらは14人で負けて、14人で打ちひしがれているわけじゃん。でも俺は俺で、この敗退を1人で受け入れなきゃいけないつらさがあった。それにおまえらの顔を見ていて、このつらさを一緒に分かち合うことができないのがキツかった。だから寂しいなって。

──決勝トーナメントでベトナムに負けて、プレーオフでキルギスと対戦することになったけど、外から見ていてどう思った?

いや、正直に嫌な予感はしていたよ。負けるはずはないと思っていたけど、(キルギス戦の)試合前の顔とか見ていて、これはヤバいなと思った。(ベトナムに負けた後)「次行くぞ」って空気を読まないやつが1人くらいいても良かったよね。負けてショックを受けないほうがおかしいけど、そういうやつがいたほうが良かったと思う。「うわ、ヤベーな」って思って見ていた。

──実際にキルギスにも負けてW杯に行けなかった。

試合は翌日だったっけ? 負けていく様を見て、「俺、ここにいてあげられないのがつらいな」と思ってた。みんなつらそうにしているわけじゃん。それを見て「マジかよ」って。終わった後におまえらはそっちでつらさを味わっていて、俺は(日本代表の一員と思っていたから)同じつらさを背負っているけど、この気持ちを誰とも共有できない。なんとも言えない気持ちだった。

──メンバーじゃなくても一緒に戦っていた?

うん。俺はケガしていたけど、メンバーだと思っていたし、一緒に戦っている気になっていた。でも現実は、その場所にいない。この俺の気持ちを誰に話したらいいのかなって。もうポップコーンを食うのをやめたからね。1人で敗退を受け止めるつらさであり、みんなを助けてあげられなかったつらさでもあって、俺には二重のつらさだった。(試合に出られないとしても)ピッチの外からでもこいつらに言えることがあったんじゃないかって思ったよ。負けた後も、この歴史的敗退を受け止める1/14になってあげられない。みんなとは違うつらさがあったね。

──あのときのメンバーリストを見ると、そこにおまえの名前はなくて、だからこそ他の人がそれを見るとおまえはあのとき、あの大会に関与していないように見える

でも俺はそんな気はさらさらなくて、関与しているつもりだった。でも関与していないことになるわけよ。あのときはJISS(国立スポーツ科学センター)のリハビリ室でもちょっとした話題になったからね。

──「W杯行けなかったね」って?

そうそう。周りのみんなも知っているから。あのときの俺はW杯に行けたとしても、ケガを治してパフォーマンスを上げることを考えるとギリギリの状況だった。それが予選で敗退したことで、残念だったねとか、きっと声をかけづらい感じだったと思う。「敗退してるやん。どうするの? このままリハビリやめんの?」って言い出しづらい雰囲気があったし、こっちも気まずいから「負けちゃったんですよ」って俺が気をつかうっていう。何これ、って思ったよね。

──モチベーションは低下しなかったの?

その日はしたよ。次の日も、なんのためにこれをやってんだろうって。リハビリする意味あんのかなってなるよね。実際にそうなったし、そりゃなるでしょ……。

──その時点で次のW杯とかは考えなかった?

負けた後に(佐藤)亮くんと電話した。「どうする? あと4年頑張れる?」って。俺は4年後が見えなくて、何も考えていなかった。でも話しているうちに整理できて、W杯のメンバーに入るか入らないかは関係なく、負けた責任として2020年までは選手をやらないとダメだと思った。

──負けた責任?

メンバーに入れないとしても、メンバーのライバルというか、簡単には代表に入れないぞという壁になる。それができれば「皆本晃を入れたほうがいいんじゃねーか」って感じにもなる。4年後も代表に選ばれているイメージは全く見えなかったけど、ここで4年後はないからやめますっていうのはダメじゃないかと思った。だから俺は、負けた責任としてやらないといけない4年だと思っていた。

──なるほどね。振り返ると、2016年のころの俺らは30歳で、集大成的な大会になるはずだった。それが負けてしまったことで、引退する選手は減ったよね。

そうそう。本当はあのW杯で「お疲れ」という感じになるって、30代の選手たちは思っていた。俺もその先を考えてなかったからね。でも負けたことで、やめられなくなった。

【次ページ】ブルーノ監督との“親子”秘話

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