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2021.08.16

父親は元セレソンの名将。それでもアルトゥールが、日本人としてW杯を戦う理由|ブルーノジャパンの肖像

PHOTO BY高橋学

日本フットサル界が待望した選手がいる。

オリベイラ・アルトゥール。

2015年にブラジルから来日し、シュライカー大阪に加入。2016シーズンに名古屋オーシャンズの10連覇を打ち破ったシーズンも圧倒的なパフォーマンスを見せ、ベストファイブを初受賞した守備的なポジションの選手だが、戦況を見極めた攻撃参加からゴールを量産。年間平均21.7点、6シーズンで130点を奪ってきた(※2020シーズンから試合数は33から22に)。「Fリーグ史上最高」との呼び声が高い彼は2020年12月、日本国籍を取得した。

なぜ、日本人として戦うことを選んだのか。彼は言う。

「見た目は日本人ではないけど、大事なのは心。自分は日本人の心を持っている」

アルトゥールがそう強く語るのはどうしてか。彼には、誰よりも「ブラジル代表」の血が流れているにもかかわらず、だ。

アルトゥールの父親は、かつてセレソンを率いた名将・ペセ監督。幼少期から、父親の英才教育を受けて育ったフットサルエリートなのだ。当然、目指すべきはブラジル代表だろう。でも彼は、そうしなかった。あれほどの能力を持ちながら、実力不足だったのか。タイミングがなかったのか。そして日本人になる決断に“父”は、どう感じたのか。

日本人選手は今、みんなこう話している。「アルトゥールを見れば、フットサルをどうプレーすべきかわかる。彼はまさに、フットサルの教科書だよ」と。

彼は日本人になった。日本人はみな、彼のようにプレーしたい。

2つの想いが交わる場所が今、日本代表にある。

“元ブラジル代表監督の息子”が挑む初めてのW杯は、彼自身の物語と、われわれ日本フットサルの未来だ。大きな戦いを前に、アルトゥールの言葉に、耳を傾けてもらいたい。

インタビュー=舞野隼大
※このインタビューは6月22日に実施しました

先進国に帰化することは成長につながる

──アルトゥール選手は昨年12月、ブラジル国籍から日本国籍に変更しました。W杯メンバーに日本人として出場する想いは?

W杯は世界最高の舞台です。小さいころからそこでプレーすることが夢でしたし、そのために何年もトレーニングを重ねてきました。W杯のピッチに立った瞬間、今まで支えてもらった人や家族に対しての感謝の気持ちもそうですし、喜びや不安、いろいろな感情が湧いてきそうですね。

──生まれ育ったブラジルの代表選手としてとしてではないことについては?

私の見た目は日本人ではないですけど、大事なのは心。今、自分は日本人の心を持っています。日本には自分と自分の家族のことを温かく支えてもらいましたし、いろいろなことを学ぶことができたのですごく感謝しています。日の丸を背負ってプレーすることはその恩返しにもなりますから、気持ちはより高まっています。

──日本で生まれた人は日本が島国だからなのか、国籍を変えることに、大きなハードルを感じているように思えます。ですがブラジル出身の人は自分の中にもう一つ違う軸を据えるようなイメージなのでしょうか。

先進国と後進国で考えに違いがあるのだと思います。母国よりも発展している国に帰化できればその国の考え方を持つことができる。それはメリットです。なのでブラジル人は自分がより成長するために、国籍を変えることがあります。日本は、世界一と言ってもいいくらい生活しやすい国ですしメリットとデメリットを紙に書いたとき、メリットの方が断然多かった。なので私の場合は「自分のために(帰化したい)」という考えが強かったですね。

ペセ監督はいつも一緒にいてくれるパパだった

──以前「父からは戦術的な考え方やゲームコントロールの方法を学びました」と話していましたが、ぺセ監督は子どもだったアルトゥール選手に戦術をどのように教えてくれましたか?

子どものときは戦術的なことはあまり教わってきませんでした。どちらかといえば楽しんでプレーすることがサッカーやフットサルを続けていくきっかけになっていました。それからはクラブチームやスクールに入団するというのが一般的な流れ。そこでも「楽しみながら成長していく」というスタンスは変わりませんでしたが、責任感を持ってプレーすることや時間を守ることなど、人として当たり前なことを教えてもらいました。あとは勝ち負けの大切さを学びましたね。なのでその辺りは(日本の)みんなと同じかと思います。

──何歳くらいから本格的に戦術的なことを教わっていったのでしょうか。

父の影響もあって4歳くらいからフットサルを見たり触れることができたのはすごく役に立っています。最初はストリートでボールを蹴っていましたが、14歳のときにクラブチームに入ってちゃんとした活動を始めました。そこから戦術的なものをより深く学んでいきましたが、クラブチームに入った年齢は私の場合、比較的遅いほうでしたね。

──今のようにゲームを読み、ゴールも奪えるプレースタイルになったのはいつ頃でしたか?

小さいときは周りの子と比べて身長が高かったので、サッカーでもフットサルでも攻撃的なポジションでした。フィクソをするようになったのは14歳になったときでしたね。ただフィクソだけではなく、アラでもプレーしていたこともあります。自分が成長していく中でポジションを変えていって、試行錯誤して、そこで得るものがたくさんありましたし、いろいろなポジションを経験したからこそ攻撃に力を入れられるようになったと思っています。今でも(場合によっては)ピヴォに入ることもありますし、小さいときに培ったベースは生きています。

──今は試合中にフィクソとアラのポジションを行き来することもありますよね。

そうですね。名古屋オーシャンズではフィクソではなくアラとしてもプレーすることもチームから求められています。フィクソは専門性があるポジションなので鍛錬が必要でした。なのでそこで今までの様々な経験を踏まえ、今度はフィクソのスペシャリストになるために特化した考え方をするようになりました。ちなみに父も現役時代はフィクソの選手で、サッカーではボランチでした。偶然にも同じポジションに自分も行き着いて、父の背中を見て、時にはアドバイスをもらえたことが今につながっていると思います。

──どういったアドバイスをもらったのでしょうか?

17歳、18歳で初めてプロとしてプレーするようになり、U-20の試合に出ていたときは試合後にいつもアドバイスを求めていました。父は練習で、褒めることもなければ叱ることもなく、「何が良くなかった」と指摘して、そこを修正し、成長するための声をかけてくれました。その中で今にすごく役立っているのが「左足と右足のパスとシュートは絶対にできるようにしておけ」と言われたことですね。それからは練習前のルーティンとして毎回50~100本くらいは蹴っていました。今、自分が右足でも左足でも迷いなくプレーを選択できるのは、そのときのアドバイスがあったおかげですね。

──印象に残っている言葉は何かありますか?

父は私が所属していたチームの監督だったこともあり一緒に過ごすことが多く、メモしなければ覚えきれないくらいのアウトプットがありました。父の話とは離れてしまいますが「トレーニングはトレーニング。試合は試合」と一般的な監督は言います。私が14歳のときはブラジルで南の方のチームに所属していたのですが、その地域は競争率はすごく高く、ライバル意識も強い。戦術的にもすごく優れ、フィジカル的にもすごくハードなリーグですが、そこの監督が「練習は試合だ。試合は戦争と思え」とよく話していて面白かったですね。

──父親としてのペセ監督はどんな人でしたか?

チームメートのほとんどは親が選手や監督経験がなかったので「自分の息子がプロになってほしい!」と厳しいところもありましたが、私の場合は“いつも一緒にいてくれるパパ”という感じ。子どもの私の意見をすごく尊重してくて、自分がサポートしてほしいときにはアドバイスをくれました。

──「絶対にプロ選手になれ!」ということはなく、温かく見守られて育ったんですね。

そうですね。「自分が好きなものを選択していけばいいよ」と。ドクターでもコーチでも、どんな職業を目指してもよかった。必要であればそのためのアドバイスをしてくれましたし、常に自分を支えてくれていました。人生についてもいろいろなことを教えてくれ、自分が自分の足で歩んでいけるように育ててくれたと思っています。

【次ページ】日本人はブラジル人のようにはなれない

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