更新日時:2023.03.29
ベルマーレを愛し、ベルマーレに愛された男・鍛代元気。夢を叶えた青年の幸せな幕引き|俺たちの全日本
PHOTO BY高橋学
サポーターからプレーヤーへ
世界中に星の数ほど存在するフットボールクラブ。レベルやカテゴリー、規模の大小こそあれ、その多くは地元のサポーターに支えられている。週末はスタジアムやアリーナに集まり、お揃いのユニフォームを着て“おらが街”のクラブに声援を送る。同じ色のユニフォームを身に纏う選手たちは、その街のヒーローだ。彼らを見た少年・少女たちは、やがて強いあこがれを抱くようになる。
“将来は自分も選手になってこのクラブでプレーする”
そんな世界中の子どもたちが描く夢を叶え、クラブとともにそのキャリアを全うした選手がいる。湘南ベルマーレの背番号15番、ピヴォの鍛代元気だ。
鍛代は1989年11月5日、神奈川県伊勢原市生まれ。物心ついた頃からサッカーを始め、いつしか地元のJリーグクラブ・ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)のファンとなった。最初にあこがれた選手は、当時サッカー日本代表にも名を連ねていたボランチ・田坂和昭だ。わずか5歳で「田坂隊」という応援団体に所属し、以来、現在に至るまで、ゴール裏で歌い飛び跳ねるほどの熱烈な湘南サポーターである。
小・中・高とサッカーを続けた鍛代は、高校生の時にフットサルと出会う。神奈川県立大磯高校サッカー部でプレーしながら、並行して当時、神奈川県フットサルリーグ1部所属だったFeder’ Futsal Hiratsuka(フェデルフットサル平塚。後のBomba Negra・ボンバネグラ)に加入した。
筆者もその当時、同じリーグだったアズヴェール藤沢(現在は関東フットサルリーグ2部)でプレーしており、鍛代を擁するフェデルとは公式戦はもちろん、練習試合でも頻繁に対戦していた。アラでプレーしていた鍛代はスピードがあり、運動量豊富な活きの良い若手だった。
高校生だった鍛代が社会人チームに籍を置いた理由は「大人とプレーすることでサッカーもうまくなれると思ったから」というもの。当初はあくまでもサッカーのトレーニングの一環としてフットサルを始めたのであって、その時点では本格的にフットサル選手を目指そうという意識はなかったようだ。
しかし、18歳の時に転機が訪れる。Fリーグ開幕に合わせ、神奈川を拠点に活動していた関東フットサルリーグの強豪・P.S.T.C.ロンドリーナが「湘南ベルマーレ」として参入することになったのだ。
「最初は、『ふーん。ベルマーレ、フットサルチームも作るんだ』くらいの認識でした。フットサルをやっていたはいえ、トップレベルはまだまだ雲の上の存在でしたから。でも、『自分がずっと好きだったベルマーレでプレーできるかもしれない』という思いが日に日に大きくなっていって。2011-2012シーズンの開幕前に、湘南のサテライトチームとなっていたP.S.T.C.ロンドリーナ(当時神奈川県フットサルリーグ1部)に加入したんです」
こうして、ゴール裏のサポーターだった一人の青年は、フットサル選手として本格的にベルマーレを目指すこととなった。鍛代元気、21歳の春のことである。
関東参入戦で見せた、大器の片鱗
それからの鍛代の変化は顕著だった。はたから見てもみるみる“大人の選手”になっていったのだ。試合中に起きる様々な事象に対してブレることなく、常に自分に矢印を向けられる選手に成長していく様子が、他チームにいた筆者からもはっきりと見て取れた。
ロンドリーナ加入の少し前から湘南ベルマーレのサッカースクールでコーチをしていた鍛代。幼い頃からあこがれ、愛したクラブで働くことに誇りを感じていた。
「このエンブレムを胸に着ける以上、ピッチ内外で子どもたちのお手本でなければならない」
その強い自覚が、プレー中の振る舞いにも変化をもたらしたのだろう。
当時の鍛代を思い出す際、今も忘れられない試合がある。2012年2月、熊谷で行われた関東フットサルリーグ参入戦だ。鍛代のほか、山中秀太、刈込真人、唐澤広彰、安嶋健至(現ボルクバレット北九州)ら後のFリーガーを多く擁していたロンドリーナは、25日に行われた1回戦で栃木のモランゴを、翌26日の2回戦で埼玉のインペリオを撃破。悲願の関東昇格に王手をかけ、関東2部のセニョール千葉と対戦した。
試合は前半から球際で激しいバトルが繰り広げられる熱戦となった。その試合の結果次第で翌年のカテゴリーが変わる、シーズンで最も重要な一戦だ。若く勢いのあるロンドと、経験豊富なベテランを擁するセニョール。“これぞ参入戦”というべき一進一退の攻防に、スタンドの観客も惹き込まれていった。
しかし後半、ロンドリーナの若さが悪いほうに出てしまう。チームの主力選手の一人が球際のラフプレーで一発退場。一気に不利な形勢となったのだが、その苦しい流れのなかで鍛代のファインゴールが生まれた。
ゴール正面約10m。左アラからのピヴォ当てを受けた鍛代は、相手フィクソがやや距離を詰め切れなかったのを見逃さなかった。右足裏でのファーストタッチで時計周りに素早く前を向き、ワンステップで右足を振り抜いた。つま先でボールの真芯を捕らえたシュートが、あっという間にゴール上に突き刺さる。会場がどよめいた。
どんな競技でも共通して言えることかもしれないが、重要な試合になればなるほど、そして難しい状況になればなるほど、メンタル面も含めたその選手の本当の実力が炙り出される。
苦しい展開のなかで生まれたスーペルゴラッソ。試合には敗れ、惜しくもこの年の昇格こそ逃したものの、鍛代はこの重要な一戦で2ゴール。ロンドリーナ加入1年目ながら、後の活躍を予感させるのに十分なインパクトを残した。
ベルマーレに捧げたフットサル人生の幸せな幕引き
その後、鍛代は特別指定選手としてトップチーム昇格を果たし、2012-2013シーズンのエスポラーダ北海道戦でFリーグにデビュー。ベルマーレの選手としてリーグ通算219試合に出場し、81ゴールをマークした。途中ブラジルでのプレーも挟みながら、現役引退までベルマーレでプレー。最後までクラブ愛を貫いた。
鍛代は2022-2023シーズン開幕を前に、今シーズン限りでの現役引退を表明した。早いタイミングでの発表は「ラストイヤーを1試合も見逃さずに見届けてほしい」というサポーターへの心遣いだった。
最後の大会となった全日本フットサル選手権でも、1回戦から決勝までの全5試合に出場。「ハイになっていたのか、ほとんど疲れも感じなかった」という言葉通り、連戦のなかでも鍛代らしい躍動感あふれるプレーを披露。決勝で延長の末にフウガドールすみだに惜敗し、優勝こそならなかったものの、最後の最後までチームを引っ張る中心選手として戦い抜いた。
ゴール裏から始まり、ベルマーレと共に歩み、ベルマーレのために戦ったフットサル人生。決勝戦後のミックスゾーンで、そのキャリアを振り返っての率直な気持ちを聞いた。
「タイトルがほしかった!やっぱり、選手としてこのクラブにタイトルを残したかったですね。サポーターに優勝カップを届けたかった。そこはもちろん悔しいです。ただ!やれることはやった!『もっとこうしておけば』とかは一切ないです。なので、個人的には『よく頑張ったな!』って、自分に言ってやりたいと思います」
悔しさをにじませつつも、西陽に照らされた鍛代の表情は晴れやかだった。いつでもどこでも、仲間と共に本気で戦ってきた。その自負があるからだろう。
激闘から1週間ほど経った今も、目を閉じると試合後の光景が甦る。サポーターから花束を受け取った鍛代は、応援席の方をじっと見つめ、最後のチャントを聴いていた。このまま時間が止まってくれればいいのに。当事者でなくとも、そう思う瞬間だった。
帰り際、拍手のカーテンコールの中を何度も何度も振り返った。そしてロッカーにつながる入場口の前で、もう一度こちらを振り返り深々と一礼。唯一無二のキャリアを歩んだ男のフットサル人生は、こうして幕を閉じた。
ベルマーレを愛し、ベルマーレに愛された緑と青の勇者、鍛代元気。胸のエンブレムへの愛を貫いた15番の背中を、湘南サポーターは誰一人、忘れることはないだろう。
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