更新日時:2023.12.17
【インタビュー】「将来の夢はジャーナリストだった」。アルゼンチン代表アラン・ブランディが送る、情熱に満ちた“二つの人生”
PHOTO BY本田好伸
東京と北海道で開催されているフットサル日本代表の国際親善試合。
マティアス・ルクイス監督率いる元世界王者・アルゼンチン代表もベストに近いメンバーでこの2試合に臨んでいる。
FIFAフットサルワールドカップ3大会出場を誇るキャプテンのパブロ・タボルダ、世界No.1ゴレイロの呼び声も高いニコラス・サルミエントなど多くのスター選手が来日しているが、そのなかで一風変わったキャリアを持つ選手がいるのをご存知だろうか。
ジャーナリストを目指していたらプロフットサル選手になり、やがて世界最高峰のピヴォへと成長。ワールドカップ制覇まで成し遂げてしまった、とある男の情熱の物語を紹介したい。
取材・文/福田悠
インテリジェンスあふれるプレーでチームをけん引
前線でアルゼンチン代表の攻撃をけん引するアラン・ブランディは、スペイン1部で現在5位につけるハエン・パライソ・インテリオール所属。2015年からアルゼンチン代表でプレーしている、36歳のベテランピヴォだ。
182cm80kgの恵まれた体格で、しかも貴重な左利き。前線での反転シュートはもちろん、裏のスペースに抜け出してのボレー、セカンドボールのこぼれ所を予測して押し込む泥臭いシュートなど、ゴールパターンは実に多彩だ。
14日に大田区総合体育館で行われた日本代表との第1戦ではゴールこそなかったものの、随所に“らしい”プレーを披露。前線で縦パスを収めて時間を作るだけでなく、日本の前プレを受けた際には中盤まで下りてクワトロのボール回しに参加。ライン間で前を向き、アルゼンチンのゲームラインを引き上げる役割を担った。
「本来であればもっと相手ゴールに近い位置でパスを受けたかったのですが、日本のプレスも良かったので、今日はなかなかそれがうまくいきませんでした。だから前を向けないときは無理せず一度後ろに戻して、クワトロでゲームを作りながらボールを回して、相手のディフェンスを疲れさせようとしていました。隙を狙いつつ、行けるタイミングでシュートを打ちにいく、というイメージですね」
ダイナミックなゴラッソだけでなく、インテリジェンスあふれるプレーでチームを助けるブランディ。そんな彼は、実は歯科医師の祖父を持つ秀才家系の出身。そのバックボーンもあってなのか、トップアスリートとしては少々珍しい経歴を持つ選手なのだ。
原動力となった、祖父譲りの知的好奇心
「いまから50年以上も前になりますが、祖父が出稼ぎのため、スペイン領のカナリア諸島(アフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋上の群島)へ移住したんです。その後子どもたち(ブランディの父とその兄弟。父は祖父と同じく医師)もカナリアへ渡ったので、僕もそこで生まれ育ちました。とは言っても、僕の中身はちゃんとアルゼンチン人ですよ。その証拠に、僕は※牛肉が大好き(笑)。シーズンオフにはドゥルセ・デ・レーチェ(中南米で好まれる伝統的な甘いキャラメル)をスプーンで一気に飲み干します」
※アルゼンチンは牛肉の消費量がウルグアイに次いで世界第2位。国民一人あたりの年間消費量は60kgで、日本人の約10倍にあたる。
スペインで生まれながらも、生粋の“Argentinos”(アルヘンティノス=アルゼンチン人)として育ったブランディ。少年時代にその心を熱くしたのが、世界最高峰リーガ・エスパニョーラを舞台に躍動する南米出身のクラッキたちだった。
「物心ついたときから、僕はボールとともに生きてきました。サッカーのFCバルセロナの大ファンで、リバウド(元ブラジル代表)とファン・ロマン・リケルメ(元アルゼンチン代表)は僕のアイドルでしたね。もっとあとになってから現れたリオネル・メッシ(アルゼンチン代表)も言わずもがなです。家族みんなでバルサの試合を観に行ったこともありました」
テレビのなかの“アイドル”に夢中になり、フットボール漬けの毎日を送っていたブランディ少年。その興味はやがて、彼らの活躍を伝えてくれる媒体(メディア)にも向くようになっていった。
「12歳頃から、“将来はジャーナリストになりたい”と思うようになりました。スポーツが好きで、文章を読むことが好きで、書くのも大好き。それが合わさったのがスポーツジャーナリストだったんです」
ここからブランディは、祖父譲りの知的好奇心と冒険心から類まれな行動力を発揮する。12歳でコラム等を自作するようになり、同時にサッカーの試合の実況練習も開始。15歳になる頃には自らの記事を各新聞社に送り、「自分の記事を採用してほしい」と売り込むようになったのだ。
夢を叶えるため日々勉強に励んだブランディは、スペイン国内で最も権威ある学術機関とされる超名門マドリード・コンプルテンセ大学に見事合格。19歳で単身マドリードへと渡った。夢の実現へ向け、大きな一歩だった。
勉強と並行してサッカーを続けていたブランディは、スペインリーグのクラブの系列チームで活躍するなど、10代の頃から選手としてもその才能の片鱗(へんりん)を見せていた。しかし、大学では学問に集中するため競技レベルからは離れ、校内のサッカーサークルに入ろうと計画。ところが、ブランディが到着した時にはすでにサッカーチームの新入生募集は締め切られてしまっていたのだ。仕方なく、隣に貼ってあったフットサルサークルのポスターを見て応募。このひょんなきっかけが、後(のち)の彼の……いや、フットサルアルゼンチン代表の運命をも大きく変えることになる。
フットサルで世界制覇。それでも消えなかったもう一つの火
最初は趣味でフットサルを始めたブランディだったが、その後メキメキと頭角を表していく。大学選手権での活躍が目に留まり、4年生の後期には名門インテル・モビスターのサテライトに加入。さらにはなんとスペイン1部(当時)の名門サンティアゴ・フットサル加入のチャンスが舞い込んできたのだ。
一方で、ジャーナリズムの勉強も順調そのものだった。スペイン国内で最大の発行部数を誇るスポーツ新聞Marca(マルカ)のグループ紙EL MUNDO(エル・ムンド)のインターンシップに参加。マルカにもサッカーの記事を寄稿するなど、充実の日々を送っていた。
「大学卒業後はスポーツジャーナリストになるつもりでいました。そのためにずっと勉強を続けてきましたからね。でも、自分にとってはフットボールもそれと同じくらい大きなものでした。プロ選手としてプレーするのは、若いうちしかできません。私は一旦、フットサル選手としてのキャリアを選ぶことにしたのです」
2012-2013シーズン、スペイン1部・サンティアゴでデビューを飾ったブランディはすぐにハイパフォーマンスを披露し、翌年にはポルトガル1部の名門・SLベンフィカに移籍。ベンフィカでも主力として活躍すると、2015年2月、遂にフットサルアルゼンチン代表に初招集。幼い頃から憧れ続けたセレステ・イ・ブランコ(アルゼンチン代表の愛称。ユニフォームの空色と白が由来)のユニフォームに袖を通すこととなったのだ。
プロ選手となって10数年、アルゼンチン代表に選出されて8年。トップレベルで活躍を続け、世界でも有数のピヴォとなった。2016年のFIFAフットサルワールドカップでは、決勝のロシア戦で2ゴールの大活躍。5-4の勝利に貢献し、祖国に史上初の栄冠をもたらした。クラブでも代表でも、数々のトロフィーを獲得。選手としてこれ以上ない充実のキャリアを送ってきた。しかし、36歳となったいまでもなお、10代の頃に燃やした心の火は失われていないという。
「当面はフットサルを選びましたが、私にとってのもう一つのパッションはジャーナリズムです。大学を卒業して10年以上が経ったいまでも、それは変わっていません。選手としてのキャリアを終えたあと、もう一度スポーツジャーナリズムに携わりたいと思っています」
ジャーナリストを目指していたのに、ふとしたきっかけからフットサラーの道を歩むこととなったアラン・ブランディ。選手として頂上から見た景色を知る彼ならば、きっと唯一無二の記事が書けることだろう。そして何より、その情熱に満ちた彼自身の物語の続きも、ぜひ読み進めてみたいものである。
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