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作成日時:2024.03.23
更新日時:2024.03.25

安定を捨てた男が送った、素晴らしきフットサル人生|大分・小林謙太 #人生に刻むラストゲーム

PHOTO BY高橋学

全日本フットサル選手権大会準々決勝、バサジィ大分対バルドラール浦安。ピッチ上で一進一退の攻防が繰り広げられるなか、大分のベンチに、仲間の戦いを見守る背番号11の姿があった。これが現役生活最後の大会。しかし、怪我の回復が間に合わず、駒沢のピッチに立つことは叶わなかった。それでもその男は最後の最後まで声を枯らし、仲間を鼓舞し続けた。地域リーグ時代からずっとそうしてきたように。小林謙太、九州が生んだいぶし銀ピヴォのキャリアを振り返る。

ボルク北九州加入と運命の出会い

「怪我で始まり怪我に終わるシーズンとなってしまいましたが、たとえピッチに立てなくてもチームのためにやれることをやりきろうと決めてこの選手権に臨みました。今日で引退となりますが、ここまで来られただけでも奇跡だと思っています。後悔はありません」

試合後、小林は目に涙を浮かべながらも、その表情は「よくここまで来た」という充実感に満ちていた。それもそのはず、高校を出て社会人になった頃の小林は、Fリーグどころかまだ競技フットサルと出会ってすらもいなかったのだ。

1994710日、小林は福岡県北九州市に生まれた。物心ついた頃からサッカーを始め、地元・福岡の希望が丘高校サッカー部でプレー。高校卒業後は、水回り住宅総合機器メーカーの大手・TOTO株式会社に入社した。社会人生活の傍(かたわ)ら、趣味としてフットサルをスタート。しかし、少し経つと物足りなさを覚えるようになった。

「まだ若くて動けたので、『もっとちゃんと取り組みたい』という気持ちが強くなって。北九州市で活動している本格的なフットサルチームはないかとネットで検索してみたら、出てきたのがボルク北九州(ボルクバレット北九州の前身)だったんです。九州リーグのチームとも知らず、いきなり行って練習に参加させてもらい、そのまま加入することになりました」

かくして競技フットサルの世界に足を踏み入れることとなった小林。当時社会人3年目、間もなく21歳になろうかという頃だった。

九州リーグでの最初のシーズンが終わりに差し掛かった頃、小林の運命を変える出会いが訪れる。本格的にFリーグ参入を目指すことを決めたボルクに、スペインリーグ1部の強豪・サンティアゴでトップチームのコーチを務めていた馬場源徳氏(現フットサル日本代表コーチ)がやってきたのだ。はじめはコーチとしてチームに合流し、翌2016年から監督に就任することとなった。

馬場源徳といえば、スペイン滞在時にたまたま出会ったフットサルに心酔してそのまま現地に残り、指導者としてスペイン3部、2部、1部と道場破りを繰り返しながらトップリーグに昇り詰めた狂人だ(最大限の敬意を込めてあえてこのように表現)。サンティアゴに挑戦した際も「日本人にやらせる仕事はない」と最初は門前払いを食らったものの、翌日から毎日練習場に出向いてクラブハウスや練習施設の掃除を勝手に行い、その熱意をアピール。しばらく経って、根負けしたクラブ関係者から「もうわかったよ。お前、うちのアカデミーの練習の一部を担当していいぞ」と言われ、チャンスをつかんだのだった。熱意と行動で人生を切り拓き、世界の頂にまで登り詰めた男の指導は強烈だった。

「当時はチーム練習が夜の9時から11時だったのですが、11時に終わることはまずなかったですね。その日馬場さんがテーマとして掲げたことができなければ、とにかく全員でできるまでやる。明け方3:00とか4:00まで練習するのも普通で、そこから家に帰って23時間だけ寝て仕事に行く生活でした」

世界のトップを知る馬場監督からすれば、当時選手たちに求めていたのは「Fリーグを目指す上で最低限必要な、実に基礎的なこと(馬場監督)」だった。しかし、それまでとは比べ物にならない高強度・高濃度のトレーニングに、在籍していた選手の多くが音を上げ、クラブを去っていった。だが、そんななかでも小林は辞めなかった。ただ上手くなりたい一心で練習に通い、来る日も来る日も、必死で目の前のトレーニングに食らいついていった。

「あの頃の下積みがなかったら、特別な才能があったわけではない自分がトップリーグでプレーできることはなかったと思います。当時のGMの中村恭輔さんや馬場監督には、本当に感謝してもしきれません」

ボルク北九州は九州リーグで無敵を誇り、チームは着実に力をつけていった。そんな最中、Fリーグが2018-2019シーズンより2部制を導入することを正式決定。ボルク北九州はチーム名を「ボルクバレット北九州」と改め、新設されるFリーグディヴィジョン2・F2へ参入することとなった。



仕事を辞めて選んだフットサルの道。クラブと共にF1へ

クラブのFリーグ参入決定後、チームの中心選手に成長していた小林にも契約更新の打診があった。最初は趣味でフットサルを始めた男が、遂に全国リーグのピッチに立つ権利を得たのだ。

しかし、すぐにでも快諾したい気持ちでいた小林には、一つクリアしなければならない問題があった。Fリーグ参入に伴い、チームの練習時間が午前中に変更。プレーを続けるには、フルタイムで正社員として勤めていたTOTOを退職しなければならなくなったのだ。

「Fリーグでプレーしたいと言ったら、会社の同僚や周りの友人をはじめ、お世話になっている人たちのほとんどに反対されました(笑)。『安定した仕事を捨ててまでやることか?』と。でも、当時の中村GMや馬場監督の情熱を見て、ついていきたいと思ったんです。一度きりの人生ですし、フットサルは今しかできないと。覚悟を固めて、5年間勤めた会社を辞めることに決めました」

退路を断ちフットサルに懸けた小林は、Fリーグ挑戦1年目から輝きを放った。2018-2019シーズンのF2開幕戦。トルエーラ柏(現しながわシティ)との試合にスタメンでピッチに立つと、開始わずか30秒でネットを揺らし、記念すべきクラブのFリーグ初ゴールをマークした。その年は3位でリーグ戦を終え、個人としても13試合出場7ゴールという記録を残している。翌2019-2020シーズンはリーグ戦2位でフィニッシュ。そのシーズンは上位2チームが自動昇格となったため、遂にクラブがかねてより目標に掲げていたトップカテゴリー昇格を果たすこととなった。

F1に昇格した頃には、九州リーグ時代を知る選手は小林ただ一人となっていた。ちょうどABEMAがF1全132試合生中継を始めたタイミングでもあったため、地域リーグ時代からクラブと共にF1の舞台まで駆け上がってきたそのストーリーが、ファンの間でも広く知れ渡ることに。北九州サポーターのみならず多くの人々の共感を呼び、いつしか小林はクラブのバンディエラと呼ばれるようになっていった。



大分で過ごした素晴らしき日々

F1で3シーズン目となった2022-2023シーズン、小林は怪我に苦しんでいた。10月に右膝外側半月板を損傷。5ヶ月に渡るリハビリを経て新シーズンからの復帰を目指していた矢先、クラブから契約満了の通知を受けた。

「正直、ショックでした。怪我の状態が良くなかったのは確かですが、1日でも早く治してピッチに戻ろうとリハビリしていたところだったので。それまでしんどい思いもしながらも、自分なりにボルクのために精いっぱい尽くしてきたつもりでした。だからこそ、すぐには受け止められなかったですね」

話し合いの末、最終的には「残ってもいい」という方向でまとまりかけた。しかし、それまで人生を懸けて貢献してきたクラブからの通知に、気持ちは揺らいでいた。小林の恩人である中村恭輔GMも馬場源徳監督も、もうクラブにはいなかった。

そんな最中、小林の元に一通の獲得オファーが届く。同じ九州のF1クラブ・バサジィ大分からだった。その前のシーズン、一時は降格危機に陥るほどの不振にあえいだ大分が、小林の能力と経験を高く評価したのだ。

「すごく迷いました。でも、まだ怪我が治りきっていなかった自分を信じて評価してくださったことが何より嬉しくて。最後にプロ選手としてプレーしたいという思いもあり、バサジィでお世話になることにしました」

かくして小林は、最初で最後の移籍を決断。北九州では仕事をしながらプレーしていた小林にとって、完全なプロ選手としてプレーするのは初めての経験だった。

小林謙太という男は、練習の虫だ。どんな時も手を抜かず、一回一回のトレーニングを誰よりも大事にしてきた。それがあったからこそ九州リーグから這い上がって来られたわけだが、大分にはその小林も舌を巻くほどの選手が何人もいた。

「仁部屋(和弘)選手をはじめ、上原(拓也)選手、高溝(黎磨)選手など、意識の高い選手ばかりですごく刺激を受けました。素晴らしい選手たちと一緒にプレーできて、最後まで学びながら成長できたと思います」

新天地での日々は、小林にとって充実の時間となった。だが、小林がチームメイトから影響を受けていた一方で、小林のメンタリティもまた、着実にバサジィの力となっていた。北九州で1年、大分で1年共にプレーしたゴレイロの上原拓也は、小林について次のように語る。

「プレーでの貢献はもちろん、ピッチ外での振る舞いも素晴らしい選手でした。僕と同じタイミングで大分に加入しましたが、明るい性格であっという間にチームのムードメーカーになっていましたよ。でもただ明るいだけでなく、時にはチームの雰囲気を整える、引き締める役割も担っていました」(上原拓也)

2023-2024シーズン、大分が試合前のウォーミングアップに入る際の円陣では、小林がチームに言葉を投げ掛けてからアップに入るのがルーティンとなった。怪我の影響でシーズン序盤は別メニューだったにも関わらず、だ。それだけでも、小林が大分でいかに早くチームに溶け込み、影響を与えていたかがわかるだろう。長い時間ピッチに立った試合は多くなかったが、「彼がいなかったら、今シーズンの飛躍も、リーグ終盤の巻き返しもなかった」という上原の言葉が、小林の存在の大きさを表していた。

今季、大分は前年の11位から4位へ躍進。ファイナルシーズンでは目覚ましい一体感を見せ、優勝争いをしていた名古屋オーシャンズ、ペスカドーラ町田を倒すなど、リーグのクライマックスを大いに盛り上げた。小林もその輪の中にいた。キャリアの最後に、確かに足跡を残してみせた。

そして最後の全日本を前に、現役引退を表明。ベスト8で敗れ、フットサルに懸けた男の旅は終わりを告げた。駒沢のピッチに立つことはなかったが、完全燃焼だった。

「最高のフットサル人生でした。ボルクがFリーグへ上がる時に仕事を辞めてフットサルを選んだこと、そのチームでF1に上がれたこと。最後にバサジィへの移籍を決断して、プロの環境でプレーさせてもらえたこと。そしてキャリアを通じて素晴らしいチームメイトたちに出会えたこと。思えばいくつかの分かれ道があったと思いますが、引退を決めたいま振り返ってみても、それぞれの選択に何一つ後悔はありません。この道でチャレンジして本当に良かったと思います。才能があるわけでもない自分がここまで来られたのは、これまで関わってくれた人たちのお陰です。お世話になったすべてのみなさんに、心から感謝したいと思います」

目を真っ赤にしながら話す小林の表情は晴れやかだった。やりきったという思いと共に、「僕は幸せ者です」と何度も繰り返した。九州が生んだいぶし銀ピヴォ・小林謙太。仲間を愛し、仲間に愛され、真っ直ぐに道を切り拓いてきた男が、最高のフットサル人生に別れを告げた。



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