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作成日時:2024.08.02
更新日時:2024.08.05

【連載】その1 それは選手権から始まった/その2 府中水元クラブと藤井健太/その3 伝説のチーム、アズー(AZUL)|第1章 チーム勃発|第1部 黎明期|フットサル三国志

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フットサル歴史本を出版するプロジェクトの開始と並行して、書籍の内容をLaBOLAとSALで連載していきます。出版するすべての内容ではないですが、「黎明期」と呼ばれた2000年前後から、Fリーグの開幕からの盛り上がりを綴った「新生期」の途中までを掲載します。多くのみなさんにフットサルの歴史を知ってもらい、興味を深めてもらえますと幸いです。

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【連載】フットサル三国志|まとめページ

第1部 黎明期

第1章 チーム勃発(1995年~1998年12月)

その1 それは選手権から始まった
その2 府中水元クラブと藤井健太
その3 伝説のチーム、アズー(AZUL)

その1 それは選手権から始まった

1995年、日本サッカー協会(以下、JFA)は、サロンフットボールからFIFAルールに則ったフットサルの普及を受け、全日本フットサル選手権大会(以下、全日本選手権)開催を決断、その第1回大会を1996年の1月開催とした(当時の大会名は「FUTSAL NISSAN CUP’96 第1回全日本フットサル選手権大会」)。サッカーの天皇杯と同じ仕組みで、誰もが参加でき、地方の予選大会を経て、中央の決勝大会にはおおよそ16チーム(のちに20~24チーム)が進み、日本一を競うものである。以来、選手権の開催は、年末に地域の予選、決勝大会は年初(1月〜3月)に開催されている。

選手権開催決定の背景には、世界選手権・アジア予選の代表選考の場が必要になったことが挙げられる。今まで「ファイブ・ア・サイド・フットボール」と呼ばれていた競技名が「フットサル」と正式に独立した競技名に改められ、FIFAフットサル世界選手権(以下、世界選手権、のちに「ワールドカップ」)となって、1996年にスペインで開催されることが決まったのである。

そもそもフットサルは、今のところ学校スポーツでもないし、企業スポーツでもない。したがって、競技志向のチームが参加できる大会は、フットサル施設あるいはイベント会社が開催する民間大会がほとんどで、当時はその大会もまだ数は少なかった。

そんな折に開催されることになったJFA主催の全日本選手権は、フットサルなら日本一になれるかもしれないという、足に自慢のあるフットサル愛好家チームはもちろんのこと、本格的な大学のサッカー部、企業のサッカー部などもこぞって出場する夢のある大会となった。初回の参加チーム数は定かでないが、回を重ねるごとに1000チームを超える大きな大会となっていった。

今でこそ競技フットサルの中心はFリーグに移ってしまったが、フットサル競技が発展途上ということもあって、いわゆるエンジョイフットサルのストレートな延長線上に全日本選手権があり、結果的に多くの競技志向のチームや選手を輩出してきた大会と位置付けられる。

お宝写真は、第3回の優勝杯で、第1回からこの優勝杯だったかどうかはわからないが、この優勝杯を掲げることを目指して、多くのチーム、選手が喜び、涙してドラマを繰り広げてきたことは間違いない。

果たして、第1回はどんなチームが参加したのであろうか。

その2 府中水元クラブと藤井健太

第1回全日本選手権大会にいちはやく反応したのは、府中市を活動拠点とする中村恭平(のちに府中アスレティックFC監督、ゼネラルマネージャー)が率いるフェニックス、松村栄寿(のちにファイルフォックス監督、コーチ)が率いるエルマーズなどの「サロンフットボール」(フットサルの別の呼び名)のグループであった。

というのも、府中市は、東芝、日本電気など日系ブラジル人が働く工場が比較的多く、日本人も含めてサッカーと同時にサロンフットボールが盛んに行われていたからである。多くのチームはサッカーもやればサロンフットボールも楽しんでいて、チームの掛け持ちが多かった。しかし、公式の大会参加となると正式なチーム登録が必要になり、そこでサッカーの東京都社会人リーグ所属の府中水元クラブ(大会参加名は「水元クラブ」)で出場ということになった。陣容は、監督は松村、選手は鞁島三郎や、中村恭平の弟の文俊、俊仁(両者はのちに府中アスレティックFC)、またエルマーズからミスターフットサルといわれ、ヴェルディ川崎ジュニアユースでプレーした経験をもつ上村信之介(のちにファイルフォックス、フトゥーロ)らを擁して大会に臨んだ。サッカー一辺倒ではない基礎があったので、予選をクリアし、決勝大会に進むことができた。

ちなみに前述した中村三兄弟に2人を加えた中村五兄弟は、フットサルの名手として有名な家族で、府中水元クラブとは別に彼らを中心にした「踊るファミリーズ」というチームで民間大会に出場、好成績を収めていた。のちにJFAは「ファミリーフットサル」という普及活動を展開することになるが、その先駆けであった。

明けて1996年1月、ついに第1回全日本選手権が開催された。場所は有明コロシアムで、以降、第4回までは同会場で開催された。現在、その地で公式戦が行われることはないが、オールドファンにとっては懐かしいフットサルのメッカ的存在であろう。

初参加ながら関東代表として決勝大会に進んだ府中水元クラブであったが、まだまだサッカーが強い時代で、予選でNTT九州サッカー部に敗退してしまった。NTT九州といえばJ2のロアッソ熊本の源流となる強豪サッカーチームである。また、優勝したチームも、体育系専門学校のサッカー専攻学生のチームで、ルネス学園甲賀サッカークラブだった。また、府中水元クラブを破ったNTT九州サッカー部は3位に入っている。ちなみに、優勝したチームの学生には、のちにアスパ、バルドラール浦安、ペスカドーラ町田などで活躍した藤井健太がいた。

藤井健太は、関西出身ながらどうしてもフットサルの技術を極めたいと関東に移住、ついには日本代表キャプテンまで上り詰めた選手である。だいぶあとになるが第20回全日本選手権(当時の愛称は「PUMAカップ」)でも町田の主力選手として出場、3位に輝いた。20年間、第一線で活躍するその健在ぶりには頭が下がる。

お宝写真は、第3回の優勝の表彰式の写真であるが、あどけなさが残る貴重な写真である。

第1回全日本選手権が終了してほどなく、前述した第3回世界選手権のアジア予選が上海で開催された。アジア予選は始めてのことである。その日本代表には全日本選手権で活躍した藤井、上村が選ばれている。成績は予選敗退となったが、翌年開催される第1回アジアフットサル選手権(以下、アジア選手権と称す)の試験的大会の位置付けにもなり、のちにつながる貴重な経験を積むことができた。

全日本選手権、世界選手権のアジア予選と日の当たる大会が続くなか、のちにフットサル界に大きく影響をおよぼす1人の選手がフットサルに関わり始めた。

その3 伝説のチーム、アズー(AZUL)

1996年夏、のちにカスカヴェウ、ペスカドーラ町田の甲斐修侍はプロサッカーを目指し、Jリーグ球団のトライアルに挑戦したが、思うような結果を得られないで悩んでいた。

そんな時、サッカーコーチの広山晴士(元ヴェルディ川崎所属、のちに「ドリブルで1対1に勝つ」などのテクニック本の著者)から1本の電話が入った。それは山中湖にフットサルコート(山中湖スポーツセンター)がオープンするので、そのオープニング記念大会に一緒に参加しないかというものであった。甲斐と広山は中学時代のトレセン仲間である。この大会でフットサルに興味を持った甲斐は、そのままこのコートのオーナーの薦めもあって山中湖スポーツセンターに勤めることとなった。

1996年末になると、甲斐と広山は甲斐の関西時代のチームメイトの安田和彦(のちにカスカヴェウ関西)、サッカーで親交のあった黒岩文幸(のちにIPD FC)らを誘って、アズーを結成した。幸い、山中湖スポーツセンターの支援も受けることができた。

元々、甲斐は関西のサッカーで活躍していたが、これを機会にフットサルで名を成すようになったというわけである。現在はペスカドーラ町田の監督を務め、息子の甲斐稜人は、名古屋オーシャンズ所属、日本代表にも選出されている。

関東フットサル三国志の1強カスカヴェウの前身の誕生である。しかし、このチームが脚光を浴びるにはまだ時間を要し、府中水元クラブに1年の長があった。

余談になるが、当時山中湖はフットサルのメッカと呼ばれたことがあった。というのも、関東とは言えフットサル施設が今ほど多くなく、泊まりがけでフットサル三昧をするには絶好のロケーションだったこと、のちになるが全国規模の民間大会として有名なFDCカップの決勝大会が同コートで行われたことなどによる。FDCカップの模様はフットサルダイジェストに掲載されるので、フットサル愛好家チームにとって励みとなる大会であった。

ちなみに、1996年頃の民間施設数であるが、日本フットサル施設連盟(民間施設の団体)調べによると、累計で41施設しかなかった。今では600施設を超えているので、10%に満たない時代で、まさに黎明期の時代であった(日本フットサル施設連盟は2003年4月に設立されている)。

明けて、1997年2月、第2回の全日本選手権が開催された。第2回から日産自動車がスポンサーに付き、NISAAN CUPの冠が付くことになった。冠は第4回まで続いた。

第1回全日本選手権でサッカーチームに苦杯を喫した府中水元クラブは1年の準備が実り、決勝に進む。相手は再び企業サッカーチーム三菱黒崎フットボールクラブだ。しかし今回はこれを見事に破り、念願の優勝を果たす。そのフットサルは、他のチームがサッカーの域を出なかったのに対して、戦術、技術ともこれがフットサルだと全国に知らしめ、より多くのチームを全日本選手権挑戦へと促したのであった。

その最右翼がアズーで、府中水元クラブのフットサルを見て、本格的にフットサルに取り組むことを決意、チーム強化に乗り出した。これには大塚和弘が大きな役割を果たす。大塚は、当時、フットサル大会の運営、フットサルの指導など藤沢を拠点に活動しており、山中湖スポーツセンターで開催した大会で甲斐と出会うこととなった。大塚はブラジルのフットサル事情に詳しく、人脈も多かったことから、府中市で働く日系ブラジル人眞境名オスカー(のちにファイルフォックス設立)を紹介、コーチ兼選手として招き入れた。また、自らも監督をすることとなった。さらには黒岩とサッカー社会人リーグ九曜クラブで一緒だった相根澄(のちにカスカヴェウ東京、ペスカドーラ町田、引退後はステラミーゴいわて花巻、湘南ベルマーレの監督を歴任)、関野淳太(のちにロンドリーナ、ペスカドール町田コーチ、監督を歴任)、ゴールキーパーでは金澤信二(のちに千葉のNAC)などがメンバーに加わった。

お宝写真は、眞境名オスカーと甲斐修侍の2人で、2005年1月に学研のストライカーDXの別冊ムック本として発行された「フットサルの達人」の対談に掲載された写真である。タイトルは、フットサル界の“ビッグ2”初対談で、文字どおり、当時のフットサル界の隆盛はこの2人にかかっていたといっても過言ではない。

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「フットサル三国志」プロジェクト|クラファン詳細ページ
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