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作成日時:2024.08.16
更新日時:2024.08.17

【連載】その1 両雄対決の関東リーグいよいよ開幕/その2 通年リーグの強さ/その3 通年リーグの脆さ/その4 第3勢力が再び全国制覇|第5章 通年リーグの強さと脆さ|第1部 黎明期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ

第1部 黎明期

第5章 通年リーグの強さと脆さ(2002年4月~2003年3月)

その1 両雄対決の関東リーグいよいよ開幕
その2 通年リーグの強さ
その3 通年リーグの脆さ
その4 第3勢力が再び全国制覇

その1 両雄対決の関東リーグいよいよ開幕

カスカヴェウも参入する第4回関東リーグに先立って、2002年4月6日、駒沢屋内球技場で記念すべきエキシビションマッチが開催された。そのカードとは、ファイルフォックス対カスカヴェウ。ファイルフォックスは関東リーグ、カスカヴェウはスーパーリーグの象徴であり、対決すら難しかったものを関係者の努力が実を結び、スーパーリーグのファン感謝イベントとして開催されたものである。

両チームのメンバーには、日本代表経験者(これ以降に招集された選手も含む)が12名もいたから、いかに日本のフットサルをけん引してきたかがわかる。結果は、5ー5の引き分けだったが、追いつき追いつかれる展開は、約1600人の観客を魅了しのであった。

そして、2002年5月18日、神奈川県茅ヶ崎総合体育館で第4回関東リーグが開幕した。約1カ月前にエキシビションマッチを行ったファイルフォックスとカスカヴェウの本番対決が開幕戦で実現する。同じリーグで対決するのは1999年に開幕したリーガ天竜以来ということになる。もっとも、意図的に組み合わせたわけではなく、開幕戦は昨年の優勝チームと参入戦下位、昨年の2位チームと参入戦上位を組み合わせる決まりがあったからだ。したがって、もう1試合はなんと昨年2位のフトゥーロと府中アスレティックFCの府中対決と、これまた因縁めいたものとなった。

第1試合は、2-1でカスカヴェウが大事な初戦をモノにした。

この時のスターティングメンバーは、ファイルフォックスは難波田治、板谷竹生、小宮山友祐、木暮賢一郎、GK定永久男、カスカヴェウは前田喜史、金山友紀、稲田祐介、甲斐修侍、GK遠藤晃夫であった。当時のフットサル界を代表する最強メンバー同士の戦いとなった。

登録メンバーに目を移せば、ファイルフォックスにはのちにシュライカー大阪の一員としてFリーグに参戦する吉成圭も名を連ねていた。カスカヴェウにはシュライカー大阪で監督を務めたアドリアーノがいた。吉成の移籍はアドリアーノの指名だったというから、この頃から縁があったのかもしれない。

第2試合のフトゥーロ対府中アスレティックFC戦は6-5でフトゥーロが勝ち、府中水元クラブと合体、名称変更したフトゥーロ、すなわち老舗に軍配が上がる結果となった。

一方、関東リーグと並行して行われたスーパーリーグの開幕節は、6月16日、横浜の平沼体育館で行われた。開幕節の見どころは、シャークス対ガロであった。すでに紹介したとおり、ガロから大量に選手が移籍したシャークスと新戦力を大量に補強したガロという因縁の戦いだからである。

結果は4-0でシャークスが勝利、経験の差とモチベーションの差が出た試合であった。

シャークスは、関東リーグに昇格すべく都リーグも戦っており、強い上昇志向をもっていた。こうして、関東リーグを軸にスーパーリーグも交えた戦場で、ファイルフォックス、カスカヴェウの2強、それを追って、東京のフトゥーロ、府中アスレティックFC、ガロ、小金井ジュール、シャークス、神奈川のロンドリーナ、ブラックショーツ、千葉のプレデター、キューピー、メイクナイン、茨城のマルバなどが争うこととなった。

お宝写真は、2001年の全日本選手権後にボーン77から移籍した金山にしよう。金山は、カスカヴェウに入ってからメキメキ頭角を現し、2001年7月の第3回アジア選手権で初めて日本代表に選ばれた。2002年になって、いよいよ関東リーグに登場、甲斐の誰も追いつかないと思われる鋭いスルーパスに反応、ゴールを重ねるプレーから「スピードスター」と呼ばれるようになり、観客を魅了するのだった。

なお、金山は2022-2023シーズンをもって引退。46歳であった。日本代表歴は2001年から2008年、Fリーグ在籍が2007年から2023年の16年間であるから、レジェンド中のレジェンドである。現在、木村和司がフットサル日本代表監督だった第3回アジア選手権のイラン大会出場が縁だと思うが、木村が代表を務める「有限会社シュート」に在籍し、指導者として活動するほか、女子Fリーグのアニージャ湘南でコーチも務めている。

その2 通年リーグの強さ

2002年の夏になると、リーグ制覇に向けて関東のチームたちが争ってきた効果を証明する大会が2つ続いた。

最初の大会は、2002年7月26〜28日、兵庫県のグリーンアリーナ神戸で開催された第18回全国選抜大会である。前回まで、関東は都県代表の予選を行わず選抜メンバーで出場していたが、この大会から都県同士の予選を行い、優勝の都県の選抜が出場するようになった。この結果、東京都選抜が出場することになった。全国的にも、まだまだ地域選抜で出場する地域もあったが、次第に予選を行い、県レベルで出場する地域が増えてきたのであった。

東京都選抜のメンバーは、ファイルフォックスから難波田治、木暮賢一郎、GK定永久男、カスカヴェウから甲斐修侍、前田喜史、金山友紀、稲田祐介、安田和彦、GK遠藤晃夫、フトゥーロから上村信之介、橋田桂二、シャークスから関新、IPD FCから黒岩文幸らが選ばれた。

Fリーグ設立以降は日本代表クラスが選ばれることはなくなったが、この頃はまさに地域、あるいは都道府県を代表するベストメンバーが真剣勝負する地域対抗の大会であった。

決勝の相手は大阪府選抜で、これまたベストメンバーで、マグから藤井健太、岸本武志(のちにシュライカー大阪、現在のしながわシティGM)、狩野新(のちにカスカヴェウ、現在のバサジィ大分監督)、丸山哲平(のちに名古屋オーシャンズ)、旭屋から松田和也(のちにカスカヴェウ関西)、山蔦一弘(のちに名古屋オーシャンズ、デウソン神戸)、近鉄百貨店から大塚和博(第3回アジア選手権日本代表)らがいた。

ところで、藤井らのチーム、マグであるが、このチームは、新たにオープンしたマグスミノエ(複合型アミューズメント施設)に併設されたフットサルコートを拠点にするチームで、のちのシュライカー大阪の前身チームである。代表は藤田昌宏で、のちにバンフスポーツの櫻井嘉人と共にFリーグ参加チームのけん引役になる。

このチームにボルドンから藤井、岸本、福角有紘(のちにプレデター、バルドラール浦安)、ファイルフォックスから関西に戻った原田健司が移籍している。

結果は、2-2からの延長戦にもつれ、延長戦残り9秒、木暮の劇的Vゴールで東京都選抜が優勝を遂げた(当時はフットサルも延長Vゴール方式が採用されていた)。

以降、25回大会まで関東は東京都選抜が連続出場、優勝4回、準優勝2回、3位2回と常に3位以内を確保している。これは、関東リーグ、スーパーリーグの土台があったからこその結果である。

2番目の大会は2002年10月、インドネシアのジャカルタで開催された第4回アジア選手権である。監督は第3回アジア選手権の時にコーチを務めた原田理人が就任した。

原田は札幌出身でサロンフットボールの名手、1985年の世界サロンフットボール選手権の日本代表経験の持ち主である。そんな経験からか、代表選考はフットサルプロパー中心に戻るのだった。

関東からは、ファイルフォックスの難波田、木暮、カスカヴェウの前田、金山、GK遠藤、IPD FCから横山恵介、ブラジル・アマフーザの市原誉昭、イタリア・ラツイオの相根澄と、14人中8人が関東から選ばれた。ちなみに関西からは藤井(マグ)、鈴村拓也(神戸ハーバーランド)、山蔦一弘(旭屋)、松田和也(旭屋)、東海の田原FCから川原永光、和泉秀実が選ばれている。

結果は、準々決勝でウズベキスタンを1-0、準決勝でタイを3-0で下し、初の2位確保に成功する。さすがに決勝のイラン戦は0-6と大敗するが、第3回まで続いた連続4位から抜け出すことができたのだ。

<大会結果>
10月23日 ◯日本 6-1 インドネシア 鈴村2、藤井、和泉、市原
10月24日 ◯日本 2-1 キルギス 前田、金山
10月25日 ◯日本 7-2 中国 市原2、木暮、鈴村、藤井、山蔦、前田
10月26日 ◯日本 2-0 クウェート 鈴村、木暮
10月28日 ◯日本 1-0 ウズベキスタン 市原
10月29日 ◯日本 3-0 タイ 市原、前田2
10月30日 ⚫︎日本 0-6 イラン<0-6>

この大会結果が与える影響は大きかった。まず、2年後に行われる世界選手権に出場するためには、3位確保が必須である。1位のイランは固いため、3位に入るためにはイランとは別の山のトーナメントに入る必要がある。したがって、今から2位確保を続けなくてはならなかった。これを見事に果たしたのである。

もう一つは、フットサルプロパーで固めたチームで2位を確保できたことである。もし4位だったら、4大会連続4位であり、フットサル選手のモチベーションを立て直すには相当な時間がかかったことであろう。また、原田は、フットサルプロパー選手に、マナーやプライドなど精神面での指導を行ったことものちに好影響を与えた。

長年、選手たちが望んでいた通年リーグの効果がようやく現れたと評価したい。

お宝写真は、その通年リーグの最大の成果ともいえる第4回アジア選手権の日本代表の集合写真である。ちなみにこの大会は、近くのバリ島で大会直前の2002年10月10日、大規模な爆破テロ事件が発生したことにより開催が危ぶまれたが、結局、厳戒態勢の中で行われた。

その3 通年リーグの脆さ

話はずっと進んで、2002年11月、また、選手権の季節がやってきた。この年から、東京都の開催地枠が撤廃され、各都県の予選を勝ち抜いたチームが平等に関東予選を戦う仕組みとなった。東京都は、ベスト3位までが関東予選に出場できる。

その東京都予選を制したのは、関東リーグで好調を維持していたカスカヴェウで、スーパーリーグで頭角を現すシャークスとの決勝をPK戦の末に制したものだった。

3位決定戦はシャークスに敗れたファイルフォックスと、カスカヴェウに敗れたフトウーロの戦いになり、ファイルフォックスが勝って関東予選進出を決めた。

選手権予選直前までの関東リーグの成績は、最終節を残してカスカヴェウが8勝2分の負けなし、勝ち点26で首位を走っていた。2位と3位は8勝2敗のファイルフォックス、フトゥーロで、勝ち点24の2差であった。

一方、選手権都予選のあとの12月1日、スーパーリーグの第4節の結果は、カスカヴェウ、シャークスが3勝無敗で1位、2位となっている。なお、この節からイタリアにいた相根がカスカヴェウに戻り、日本復帰となった。

このように通年リーグの成績が都予選の結果にも如実に現れていて、両雄が強さを見せていた。順風満帆の通年リーグのように思えたが、思わぬところで脆さを見せる事件が起きた。

2002年12月7日に開催された関東予選に、なんとファイルフォックスが失格となり出場できなくなったのである。前日にマネージャー・ミーティングが行われたのだが、ファイルフォックスが欠席してしまうミスを犯したのだった。スタッフがまったく日を間違えていたのだという。これはむろん、選手の責任ではないが、当時のフットサルのチームの運営体制の弱点を表しているものと言えよう。のちのことになるが、第7回関東リーグでもロンドリーナが同様のミスを犯して、1年間不戦敗扱いになった事件があり、技術レベルは上がっても運営力は極めて脆弱であった。

監督不在の課題も、リーグが発達する兆しを見せながらも大きく解決はしなかった。カスカヴェウはかねてより監督不在に悩まされていたが、ファイルフォックスも眞境名オスカーの退団により悩まされることとなった。

ファイルフォックスの場合は、シーズンが始まって、のちにバルドラール浦安のGKコーチとなる北野徹を監督に招へいする。北野は横浜マリノスジュニアユースに在籍していたことがあり、木村和司が日本代表監督の時にスタッフとして参加、そんな縁でフットサル界にかかわるようになっていた。ブラジルでGK留学していた経験ももつ。

余談になるが、難波田、木暮がブラジルで留学中に教えを受けた館山マリオ(のちに名古屋オーシャンズ、バサジィ大分監督)をファイルフォックスの監督に招へいする話があった。しかし、タイミングが合わず、館山はコーチのライセンスを取得するため、大学に通うことになった。それにしても、その後、Fリーグが設立されて、時期は別々だが、難波田、木暮、館山の3人が名古屋オーシャンズで再び縁があるなんて、当時は想像もつかなかった。

一方、カスカヴェウも正式にコーチとして前川義信がベンチ入りすることになった。前川はカスカヴェウのスタッフとして活動していたが、勉強熱心でいつしかコーチに興味をもつようになった人物で、東京都選抜監督、ミャンマー代表監督なども努めた。のちに湘南ベルマーレ監督にまでなった。

しかし、2人とも絶対的な権限をもって采配を振るう監督かというと、そうではなかった。

実際、難波田、甲斐のカリスマ的選手のみならず、市原誉昭、前田喜史、木暮などそうそうたるメンバーを指揮することは難しい。そもそもフットサルには、監督の要求するプレーをいかに実現するか、それが選手の役割といった考え方がサッカーほど浸透していなかった。

おそらく、日本におけるフットサルが、仲間うちからスタートしている点が多分に影響しているのであろう。プロではないのでと言ってしまえばそれまでだが、選手も、監督に従うとはどういうことか、日本代表クラスの選手ですら難しい問題である。今でも仲良しな仲間なのか、監督と選手の緊張関係なのか、その切り分けは簡単ではない。

結果論かもしれないが、その年のファイルフォックスのリーグ成績は4位に終わっている。

次に選手との契約問題も、当時はリーグの脆さであった。

すでに紹介したとおり、府中水元クラブとフトゥーロが合体、チーム名を変更してフトゥーロでチームを存続した例、スーパーリーグの開幕戦、ガロから大量移籍したシャークスがガロを4-0で破った例など、プロならば通常あり得ない移籍が起きていた。もともと選手権が立ち上がった頃は、日本一になれるかもしれないというノリで臨時チームが出来上がり、その延長線上で、移籍は日常茶飯事に行われていたのである。

しかし、通年リーグができると、基本的にチームは継続する前提でないと成り立たない。したがって、チームを継続するためのルールが必要であった。のちに前年登録メンバーの過半数が翌年も存在していることとするルールが出来たが、当時は許されていることであった。

むろん、ルールばかりではない。チームの運営母体、組織をはっきりさせて入団、退団に関する契約という概念を持ち込む必要があった。皮肉なことにガロは比較的しっかりとしていたと聞くが、本格的にチームと選手との間で報酬を伴う契約を交わしはじめたのはプレデターであり、アマフーザから移籍した市原であった。

プレデターは3カ月前の11月、選手権の千葉予選で敗退、唯一この年だけであったが、定番だった千葉の盟主を明け渡すこととなり、チーム改革に着手していた。今にして思えば、この頃からGMの塩谷竜生はいずれ設立されるであろうFリーグ参入を目論んでいたのかもしれない。

一方、市原は1年間、ブラジルでプロ生活を送った経験から、日本に戻るにあたってはプロにこだわり、これを実践するプレデターを移籍先に選んだ。両者の思いが一致した契約であった。この結果、2003年1月26日に開催されたスーパーリーグ第5節、市原は復帰デビュー戦を果たすことになる。

お宝写真は、今までアマチュアだった日本のフットサル界にプロの概念を持ち込んだ市原にしよう。市原は、もともとカズこと三浦知良にあこがれて中学時代から単身ブラジルに渡り、修行を重ね、ブラジルサッカーで、マイナーとはいえプロ経験を積んだ身である。それが、日本に戻り、カスカヴェウでフットサルを経験、日本代表になって、今度はブラジルに戻ってフットサルでプロ契約、この貴重な経験を日本のフットサル界に生かしたいという強い想いがあったのだと思う。古巣のカスカヴェウには戻らなかった。実際、この後、日本代表のキャプテンになって、夢のフットサルワールドカップ出場まであと一歩までこぎつけることになるのだが……。

その4 第3勢力が再び全国制覇

話を2002年12月7日行われた選手権に戻すと、失格したファイルフォックス抜きで行われた関東予選は、ベスト4に東京都のベスト2(カスカヴェウ、シャークス)と神奈川のロンドリーナ、茨城のマルバが残った。

千葉はすでに紹介したように番狂わせがあり、常連のプレデターは勝ち上がれず、キューピーとメイクナインが千葉代表となったが、2チームとも予選リーグで敗退してしまった。

この年から関東は第3位まで選手権枠があり、3位に入れば決勝大会に出場できる。逆に言えば、4強入りしても、1チームのみが脱落する。最初の準決勝は、シャークス対マルバだった。結果は、勢いのあるはずだったシャークスがのちに関東リーグ得点王、ステラミーゴいわて花巻の矢ノ目憲央を中心としたマルバの早いカウンター攻撃にやられて敗戦した。マルバは初の選手権出場を果たし、茨城にマルバありの地位を確固たるものとしたのだった。

もう一つの準決勝は、カスカヴェウ対ロンドリーナとなり、エスポルチ藤沢から分かれた兄貴格のカスカヴェウがその貫禄を見せて弟格のロンドリーナを下し、決勝大会の切符を手にする。しかし、この時は、まさか決勝大会の準決勝で再び当たり、今度はカスカヴェウが負けることになるとは誰も想像できなかったであろう。

3位決定戦に回ったシャークスとロンドリーナの対戦は、経験の差が出たようだ。ロンドリーナはリードされながらも地力を発揮、最後は逆転してロンドリーナが選手権の切符を手に入れるのだった。ロンドリーナは、前回に続いて2年連続の出場となった。シャークスは、この時が一番、選手権に近づいた時で、その後は試練の時代が続く。

2003年2月7日から選手権の第8回大会、本戦が始まった。ベスト4に残ったのは、関東からカスカヴェウ、ロンドリーナ、関西のカンカンボーイズ、北海道のdivertido S.S.Pだった。むろん、優勝候補の筆頭はカスカヴェウで、この時まで第4回関東リーグは無敗で優勝、スーパーリーグも無敗で優勝街道を走っていた(関東リーグは、約3週間前の1月18日に最終節を迎え、カスカヴェウが優勝、2位にはフトゥーロ、3位にロンドリーナ、ファイルフォックスは4位に終わっている)。

磐石の強さかと思われたカスカヴェウであったが、なんと準決勝で、関東予選で勝ったロンドリーナと当たり、1-1の延長戦でまさかのVゴール負けを喫する。

これは、2009年の選手権、第14回大会でFリーグ王者の名古屋オーシャンズが関東リーグ王者のフウガに敗れたように、リーグ優勝が一発勝負の選手権では絶対的ではないことをこの時から示していたと言えよう。

確かに、チームは関東リーグを優勝したばかり、また、1月15日から行われた日本代表のブラジル遠征に、相根澄、前田喜史、金山友紀を出しており、疲れが残っているなどの不利な面はあった。

しかし、それ以上に精神的な面で、リーグ王者は常に追われる立場にあること、すなわち勝負の面でもリーグの脆さの宿命を背負っているのではないだろうか。

結局、決勝戦はロンドリーナ対カンカンボーイズとなり、4-0でロンドリーナが勝利、初優勝を果たした。リーグ戦はともかく、選手権ではファイルフォックス、カスカヴェウと続いた東京独占に終止符を打ったのであった。

また、三国志としても、府中水元クラブ以来の第3勢力の全国制覇となった。

ちなみにスーパーリーグの最終節は3月22日に行われたが、選手権敗戦の影響からか、カスカヴェウが2位のシャークスに7-11で敗れ、シャークスに逆転優勝を献上した。

しかし、5月に行われた第3回地域チャンピオンズリーグはカスカヴェウがロンドリーナを破って優勝している。ちなみに地域チャンピオンズリーグは各地域リーグのナンバーワンを決めるものであり、地域リーグと地域チャンピオンズリーグのセットで年度内に終了することが望ましい。それが改められるのは第5回からであった。次年度はいよいよ、スーパーリーグと関東リーグが統一された新たな戦場で、新たな戦いが始まる。

お宝写真は、全国制覇を成し遂げたロンドリーナの関東予選で3位になった時の集合写真にしよう。この時は、カスカヴェウには6-7で敗れ、3位決定戦でシャークスを破っての全国大会出場であった。ロンドリーナはのちに2007年に発足する湘南ベルマーレの母体となったが、ロンドリーナとしての活躍はこの時がピークであった。

このメンバーでは、ロンドリーナの創始者でもある代表の関野淳太は、湘南ベルマーレのGMになったが、のちにペスカドーラ町田の監督を務め、その後、現在は町田の社長に就任している。GK阿久津貴志はGKコーチやテクニカルダイレクター、奥村敬人はコーチや監督を務めた。また、写真中央の背番号4・伊久間洋輔は、関東リーグ2部のロンドリーナの監督などを経て、トップチームの監督に就任した。

写真左から2番目の背番号7・豊島明は、湘南ベルマーレのキャプテンになったが、2011ー2012シーズンに現役を引退、その後はアグレミーナ浜松でコーチや監督を務めた。中央、表彰盾を持つ大地悟は、湘南ベルマーレを経て、ペスカドーラ町田でプレー、2014ー2015シーズンで現役を引退した。

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