更新日時:2024.12.28
広島エフ・ドゥと命運を共にする闘将・岩田裕矢。「このクラブがあって人生が変わった」最後まで注ぎ続ける情熱|F2で紡がれる戦闘記
PHOTO BY高橋学
2018年に参入してからの7年間で三度「3位」の成績を収め、“F2の雄”と呼ばれた広島エフ・ドゥ。しかし、スポンサー企業の撤退等の理由から、2024年11月にFリーグを退会することを発表した。たくさんのファンに惜しまれながら、今シーズン限りでFリーグでの活動を終える。
それと同時に、引退を表明したのが、キャプテンの岩田裕矢だ。
大学2年生から約3年間広島でプレーすると、大学卒業後はスペインへ。その後、2022年に復帰すると、今シーズンからはキャプテンとして、メンバーが大きく入れ替わったチームを率いた。
「このクラブがあったから、今の自分がいる」「応援してくれた皆さんのおかげで、こんなにも情熱をもてる人間になりましたと伝えたい」
地域リーグの時代から広島で戦い、最後はクラブと共にFリーグの舞台から退く岩田は、合わせて6年間、闘志溢れるプレーで応援してくれる人たちに向けて“情熱”を体現し続けた。
どこまでも熱く、まっすぐにフットサルと向き合った男に、広島への思いを聞いた。
取材・文=伊藤千梅
フットサルをやってきたことに間違いはなかった
──11月に現役引退を発表されました。今シーズン限りでの引退を決断した理由を教えてください。
2022年にスペインから広島に復帰して、その時に残りのフットサル人生はあと3年くらいというのは、ぼんやりと考えていました。その期間で、スペインに行かせてもらった両親や、大学の時にお世話になったこのクラブに恩返しをしようという気持ちでプレーしてきました。
引退が具体的に決まったのは去年です。僕は今、大学時代に広島に加入した時の元監督・高垣結さんの元で、選手以外に発達障害のある子どもの運動療育の先生をやっています。今後は彼の地元である尾道に、精神に障がいのある人たちのフットサルチームを作って、日本一を目指す取り組みを行うことになりました。
彼は僕の恩師なので、一緒にやっていきたい思いもありますし、引退後は誰かのために、人のために頑張りたいなと思って、そこにシフトチェンジしようと思っています。
──引退を決めてから、試合や練習で感じるものに変化はありましたか?
練習も1回やるごとにどんどん回数が減っていくので「時間は限られている」と常に自分に言い聞かせながら取り組んでいました。引退したらいくらでも休めるから、足がぶっ壊れてもいいというくらいの覚悟で、練習は毎回ハードに取り組んでいました。
あとは、常にフットサルのため、チームのためという気持ちは3年間ありました。スペインで学んだ戦術を、どのようにチームや若手に落とし込むかをずっと考えていましたね。
──引退の発表には「エフ・ドゥがFリーグを退会するリリースと同じタイミングで」とありましたが、それはどのような意図があったのですか?
それは僕のわがままです(笑)。本当はリーグ後半戦が始まってすぐにお知らせしようと思ったのですが、その前に18番の石川彰人が先に引退リリースを出してしまったので「もうなんしよんや」と思って(笑)。だったらチームと一緒のタイミングでと、勝手な要望を貫かせてもらいました。
──そういう理由だったのですね(笑)。Fリーグを退会することはいつ頃聞いていましたか?
リーグ後半戦が始まる前の9月くらいには聞いていました。チーム事情を詳しくは知らないですが、それを聞いた時に「やっぱりそうか……」という感覚は少しありました。
これまで30年間生きてきた中でこんなに好きになったチームはないですし、悲しい気持ちもありますが、逆に一緒のタイミングで卒業できてうれしいという気持ちもあります。まだチームがリーグからいなくなる実感がそこまで湧いていないので、終わりが近づいたら、より寂しさが募るかもしれせん。
──広島の退会が発表されて、ボアルース長野戦後にはセレモニーが行われました。
そうですね。あの瞬間は鳴りやまない拍手のなかで、フットサルを通じて相手チームのサポーターも、みんなが一つになったと感じました。
その時に、今までフットサルをこれだけ情熱をもってやってきたことに間違いはなかったという自分の確信と、敵も味方も関係なく一つになれるスポーツは本当にすごいと思いました。
キャプテンとして若手と歩んだ1年間
──復帰3年目で、初めてキャプテンとして挑んだ今シーズンを振り返って。
一言で言えば、広島にきてこんなにしんどいシーズンは初めてでした。僕が復帰してからは毎年主力メンバーが抜けているので、チームの積み重ねがなくゼロからのスタートになってしまうことがきつかったです。
キャプテンになった最初は「やったろう」という気持ちで挑みましたが、逆に自分1人で考えすぎてしまい、カラ回りしていたと思います。でも、フットサルとしっかり向き合うことができましたし、人としても成長できたシーズンになりました。
──若い選手が多いからこその難しさはありましたか?
そうですね。大学卒業したばかりの選手や大学在学中の選手が多いので、フットサル経験では他のチームに比べたら劣ってしまう部分はありました。僕が引退することはシーズン前に決めていたので、フットサルの知識や熱量をどう年下の選手に落とし込めるかは、自分のなかで意識していました。
ただ、若手の明るさや元気、パワフルさはチームにとってプラスでしたし、練習前後や、オフの時間で彼らとコミュニケーションを取ることで、自分も励まされました。若手の活躍がチームの原動力になりましたし、シーズンを通しての成長をすごく感じます。助けられてばかりでしたね。
──キャプテンになって変化したことはありますか?
昨年まではある程度、得点といった自分の結果だけを考えていましたが、今シーズンはチームの勝利に目が向いていました。
そのなかでも「自分が点を取らんとダメじゃ」という気持ちはどこかにありました。ただ自分がゴール前に行くと守備が手薄になってしまうことや、僕が1人で打開して点を取れるタイプではないことから、自分の不甲斐なさを感じたり、葛藤することはありました。シーズン中に何度も紆余曲折を繰り返しましたね。
最終的に、若手が得点したり良いプレーをしたりした時に、新しい広島を見てもらえたのではないかなと思います。「プレーを見て、熱くて元気づけられました」というファンからの言葉は支えになりました。
──今シーズン、苦しい時に大切にしていたことを教えてください。
「人のためにプレーすること」をとにかく大事にしていました。
家族や応援してくださる皆さんのために、プレーと結果で恩返ししようという気持ちは常にありました。自分のためだけではここまでできていません。ファンサポーター、 広島のスタッフの方々のためにも、試合が終わったら、その1時間後には次の試合に向けて「もうやるしかない」と切り替えるようにしていました。
ただ自分はけっこうポジティブなので、もうダメかと思う瞬間があっても「いや、俺ならできる」と思えていましたし、そこまで沈み込むことはあまりありませんでしたね。フットサルへの熱量と姿勢は変えることなく取り組めていたと思います。
真っ暗な公園で蹴り続けたスペイン生活
──岩田選手がフットサルを始めたきっかけは?
高校ではサッカー部に所属していましたが、3年生になる時にチームメイトが問題を起こして部活動が停止になってしまいました。サッカーはもうやめようと思っていたのですが、家の近くのフットサルチーム・福山ローザスの人に誘われてから通うようになりました。
社会人のおじさんたちが人工芝滑って傷だらけで、言い合いをしながら勝利を目指してプレーする姿に「俺が求めとったのはこれじゃ」と思って、ハマっていきました。
その時は平日の22時から24時まで練習があって、高校生でしたが走って練習に行ったりしながら通いました。
──そこから、どのような経緯で広島に加入したのですか?
当時のローザスには、元々広島でプレーしていた選手が何人かいましたし、地方で一番強いチームがあるという話は聞いていました。
フットサルを続けるうちに、上を目指したいという思いが出てきて、そのタイミングで、全国の社会人大会の広島県代表の選考会がありました。そこで初めて広島の選手とボールを蹴って、ありがたいことに当時監督だった高垣から、チームにお誘いいただきました。
後日、誘われて練習に参加した後に選手たちと焼肉を食べに行ったんですよ。その時「今日は奢ったるわ」とみんなが割り勘で出してくれて、「お前これ奢ったけ、入るしかないな」と冗談で言われました(笑)。その時には「入ります」と言っていましたね。
──それから、大学を卒業するタイミングでスペインに行かれたのですね。
当時、広島エフドゥが2年後に今のFリーグに参入することが決まっていたので、大学を卒業して1年浪人してFリーガーになる選択肢がありました。
ただ、自分の中でその1年がもったいなく感じて、日本のFリーグのチームに挑戦しようと考えていました。でも自分はうまい選手ではなかったので、漠然と他の人と同じ道に行ってもダメだと考えていた時に、高垣に海外を勧められました。「どうせ日本で挑戦するなら、もう海外に行っちゃえ。お前なら行けるよ」と。
1月31日の飲み会の時だったのですが、直感で「行きます」と即答したのを覚えています(笑)。母親に伝えたら「そうだと思った」と言われました。そこから1カ月半くらいで書類を集めて手続きをして、3カ月後にはもうスペインに飛んでいましたね。
──チームは決まっていたのですか?
いや、まったく決まっていませんでした。スペイン語も勉強していなかったので、現地に着いてから語学学校で勉強しながらチームを探しました。
──スペインでの4年間はどんな時間でしたか?
大変でしたね。まずスペイン語が話せないので、語学学校でも最初の半年はずっと辞書と黒板を見比べていました。
4年間をトータルで考えると、自分の成長にコミットしていた期間でした。ほぼ毎週試合があるなかで、その週の試合結果は、月曜日から金曜日の過ごし方の結果だと思っていました。僕の中で100点はなく、どれだけ良い結果を出しても絶対に反省点があったので、プレー内容や平日の過ごし方を考えて、反省して、改善して……365日ずっとフットサルと向き合っていました。
試合に出られない時は、真っ暗な近くの公園で練習していました。電気もついていないところで、携帯の明かりを少し付けて足元のボールコントロールや筋トレをずっとやっていました。もうその時には戻れないです(笑)。
──本当にストイックに取り組まれていたのですね。
常にフットサルだけのために生活していました。きつかったですね。
その時に、僕自身は自分のためだけでは限界があると感じました。ただ、そこで誰かのため、ファンのためと考えることで、苦しい時でも立ち上がることができていました。
エフ・ドゥで“記憶”に残るプレーを
──改めて、広島エフ・ドゥへの思いを教えてください。
これまでに広島のために人生を懸けた人がいて、ずっと応援してくれているファンの方がいる。僕にとっても広島は本当に大きい存在です。約30年間で、僕も含めて「このクラブがあったから人生が変わった」「人として成長できた」という人はたくさんいると思います。
広島がなかったら、俺はいま何をやっているのだろうと思いますね。今の監督とも、 今の会社の社長とも出会っていないですし、人生を変えてくれたチームです。
今の自分がいるのはこのクラブがあったからで、そのお陰で今までも充実した生活を送れているし、選手生活を終えても楽しい人生になると思います。感謝しかありません。
──残りの試合でプレーを通して伝えたいことはありますか?
とにかく熱い気持ちで戦いたいです。今まで応援してくれた両親やこれまで支えてくれたファン、今の仲間と、過去のチームメイト、関わってくれた人全員を、少しでも勇気づけられるようなプレーがしたいです。
自分は記録ではなく、記憶に残る選手になりたいですし、皆さんのおかげで、こんなにも情熱をもてる人間になりましたと伝えられたらなと思います。
そしてどんな形であれ「あいつ熱かったな」「見ていて楽しかった、気持ち良かったな」と思ってもらえたらうれしいですね。プレーや振る舞い、言動、自分のすべてを通して感謝を伝えたいと思います。
──その情熱は、選手を引退しても続いていきそうですね。
そうですね。今後もたくさんの人に、スポーツやフットサルは素晴らしいんだよというのは、変わらず伝えていけたらと思っています。
今は子どもや大人のフットサルスクールをやっているので、そこでもまだまだ、自分の思いを伝えていきたいです。自分はこんな人間だと知ってもらいながら、僕がこのクラブと出会って人生が変わったのと同じように、岩田裕也という人間と出会って「人生変わりました」といってもらえるような存在に、なっていきたいと思います。
■広島エフ・ドゥ ホーム最終戦
12月29日(日)
時間 | カード | 会場 |
---|---|---|
13:00 | 広島エフ・ドゥ vs ヴィンセドール白山 | 大和興産安佐北区スポーツセンター |
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