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作成日時:2020.12.04
更新日時:2020.12.04

中野和也とY.S.C.C.横浜の物語。Fリーグを中継するABEMAの実況・福田悠が、37歳にしてF1初出場を果たしたクラブ創設者への思いを綴る

PHOTO BYY.S.C.C.横浜(プレー写真)、高橋学(ピッチ全景写真)

11月7日に行われたフウガドールすみだ対Y.S.C.C.横浜戦。墨田区総合体育館に観客の姿が戻ってきた。人数制限のあるなかでの開催ではあったが、生観戦を心待ちにしていた467人のファンが会場に駆け付けた。すみだの今シーズン初の有観客でのホームゲームということもあり、詰めかけた観客の多くにとって最大の関心事は「すみだの今シーズン初勝利が生まれるか否か」だった。

だが、この日ピッチに立った両軍の選手たちのなかに、人知れずフットサル人生の大きな節目を迎えた選手がいた。37歳にしてF1デビュー戦となった横浜のバンディエラ・中野和也だ。夢の舞台に立った中野は、背番号19を背負いフィクソとして奮闘。すみだのエース・ガリンシャと互角に渡り合うなど、魂のこもったプレーでチームを支えた。

試合には0-3で敗れた。第1ピリオドで田口元気に先制点を許すと、第2ピリオドではチームのファウル数がかさみ、第2PKでさらに2点を献上。完敗だった。だが、チーム創始者の一人である中野のF1初出場は、中野自身のみならず、クラブにとっても大きな出来事だったはずだ。

“ミスターY.S.C.C.”中野和也とはどんな選手なのか。彼とチームの歩みをぜひ多くの人に知ってもらいたく、中野を神奈川県リーグ時代から知る筆者が筆を取った。

37歳でトップリーグデビュー!?クラブレジェンド・中野和也が初のF1で職人ディフェンスを披露

「日大ファンタース」から「Y.S.C.C.横浜」へ

中野がフットサルを始めたのは彼が大学生の頃。今から20年近くも前のことだった。神奈川の強豪・日大藤沢高校サッカー部時代の同期や、日本大学経済学部の同級生らと立ち上げた“日大ファンタース”が現在のY.S.C.C.横浜の原型だ。

「初めはワンデー大会などに出ていたのですが、徐々に“オフィシャルなリーグに参戦しよう”という機運が高まって、ファンタースで神奈川県フットサルリーグに参入しました。それが競技フットサルとの出会いです」

中野を擁するファンタースは豊富な運動量とスピード感溢れるフットサルを展開し、すぐに県1部まで昇格。2006年に他チームとの合併でN.U.Fantars/SALL-TRAPとチーム名が変わる頃には、毎年のように優勝争いをする強豪チームとなっていた。

2006年に神奈川県リーグ1部を制し、翌2007年から新設された関東フットサルリーグ2部に昇格。中野は晴れて“関東リーガー”の仲間入りを果たした。時を同じくして、その年の9月にはFリーグが誕生。全日本フットサル選手権の県予選やトレーニングマッチなどで何度も対戦していた関東リーグのP.S.T.C.ロンドリーナが湘南ベルマーレとしてFリーグに参入した。それまで頻繁に対戦していた選手たちが、突如華々しい舞台で脚光を浴びるようになった。当時は日本フットサルが短期間に大きく変化を遂げた時代だったのだ。だが、この時点ではFリーグ参入などイメージすらしておらず、「地域リーグでも本気でプレーして、時々そういう上のチームと当たったときに良い試合ができたら」という気持ちで競技を続けていたという。

しかし、その後ファンタースは2009年の関東2部で11位となり、神奈川県リーグに降格。中野と同世代の創設メンバーが20代後半に差し掛かり、仕事での昇進、転勤、結婚など、様々な要因によりチームを離れる選手も増えていった。

「このままだと徐々に尻すぼみになっていって、いつかチームがなくなってしまう。みんなで創ったこのチームを残していくために、組織として発展させていこう」

中野にそう投げ掛けたのは、かつてゴレイロとして関東のピッチにも立った、現GMの渡邉瞬だった。中野は渡邉らと協議を重ねた末に、ロンドリーナがベルマーレの傘下に入ったように、神奈川県内のJクラブにフットサル部門を新設してもらえないか打診しに行くことにした。

「湘南以外の各クラブに、一通り話しに行きました。でも、予想はしていましたがそんなに簡単に取り合ってはくれないですよね(笑)。やっぱり無理かと諦めかけていたなか、唯一真剣に話を聞いてくれたのがY.S.C.C.でした」(中野)

2013年、晴れてチーム名を「Y.S.C.C.横浜」と改め、ついにFリーグ参入に向け動き出した。後にチームの中心となっていく宿本諒太ら、新世代の選手たちも加入。2015年には湘南ベルマーレを退団した中村猛、政野屋祐樹が加入したほか、現在もエースピヴォとして活躍する高橋健がファンタース時代以来となる復帰。F参入へ向け着々と戦力が増強されていった。

周囲に影響を与える中野和也という人間性

目まぐるしく変化し、強化されていくチームにおいて、中野は常にチームの中心だった。ピヴォとして、あるいはフィクソとして密集地帯で体を張る姿は今も昔も変わらず。ベテランと呼ばれる年齢に差し掛かっても衰えは見られず、実直かつ誠実な性格そのままのプレーでチームに安定感を与えた。

また、この頃になると中野は残り少ない創設メンバーの一人となっており、いつしかチーム内外を問わず誰からも尊敬される存在となっていた。どちらかといえば物静かで、落ち着いた性格。積極的に前に出るようなタイプではなく、人から聞かれなければ自らの思いを語ることも少ない。だが、中野の内に秘めた熱さは、ピッチ内外で確実に伝播していた。

筆者は、2006年から2012年まで、アズヴェール藤沢という神奈川県リーグ1部のチームでプレーしていた。ファンタースとは公式戦、トレーニングマッチで何度も対戦し、2015~2016年の2年間はSMiLEというサイトの記者として県リーグ1部のテキスト速報を担当していた。

アズヴェール時代の元チームメイトや対戦相手なども含め神奈川県リーグに関係する様々な人と関わってきたが、中野和也を悪く言う人間をただの一度も見たことがない。それどころか、ライバルチームの選手たちから聞こえてくるのは中野への心からのリスペクト、称賛の言葉ばかりだ。

「中野くんは本当にすごい。フットサルに取り組む姿勢がずっと変わらない。それがプレーにも出ているし、本物のレジェンドだよ」

筆者の元チームメイトの一人は、最近久々に顔を合わせた際にも中野についてそう話していた。こんな話が、本当にそこかしこから聞こえてくるのだ。

ピッチで何度も対峙すれば、その選手がどんな思いでフットサルに取り組み、日頃からどんな生活を送っているのか、自分自身とどれだけ向き合っているかといったことは自ずと伝わるものだ。中野と対峙した者の多くが、それを肌身で感じているのだろう。もちろん、筆者自身もそれを実感した一人だ。

中野はどんなに苦しい試合展開になっても、自分を見失わない。試合が荒れかけたときには真っ先にチームメイトをなだめ、落ち着かせる。どんなにエキサイトしていた選手でも、中野になだめられればすぐさま平常心を取り戻そうと努める。日頃からチームと、そしてフットサルと真摯に向き合う中野の姿を見ているからこそだ。多くを語らずとも、プレーにはすべてが現れる。そして最後はそういう選手が試合を決める。現に中野は、チームに元Fリーガーが来ようとも、有望な若手が増えようとも、常にチームの中心であり続けた。

そして2018年。かつて中野が同級生と立ち上げたそのチームは、遂にFリーグ ディビジョン2(F2)に戦いの場を移すこととなったのだ。

カリスマ選手・稲葉洸太郎との出会い

F2に昇格し、新たなる船出を迎えたチームに、中野と同い年のレジェンドが加わった。元日本代表・稲葉洸太郎だ。Fリーグ開幕以前から日本フットサル界の顔であり、12年間にも渡り日の丸を背負い続けた稲葉。ワールドカップで決めた通算ゴール数は日本人歴代最多。サッカーを含めてもいまだ破られていない前人未到の記録だ。そんなカリスマを、中野は早々に驚かせることになる。

「加入が決まってクラブのフロントの方と話しているときに、『ところで、背番号はどうしますか?』という話になったんです。どうしようかなあと考えていたら、『実は、今7番を付けている中野という選手が、“稲葉さんがもし7番を付けるなら僕譲ります”と申しています』と言われて。驚きましたよね。どんな選手なんだろう?って(笑)」(稲葉)

中野は神奈川県リーグ時代から長年7番を付けてプレーしてきた。その番号に思い入れがないはずがない。だが、関東リーグ・ファイルフォックス時代に7番を付けてプレーした稲葉をリスペクトし、その番号を譲ろうと申し出たのだ。

「そんな熱いやついるんだって、会う前からグッと来ちゃったんですよね。僕は浦安時代も17番だったし、もちろん絶対7番をくれなんて言うつもりは全くなかったですけど、その誠意みたいなものが嬉しくて。なので僕は、『ぜひその中野選手に7番を付け続けてもらいたいです』と伝えて、僕自身は77番をもらうことにしました」(稲葉)

同い年の2人はF2の舞台で共闘。1年目は惜しくも昇格を逃したものの、2年目の2019-2020シーズンに見事、無敗優勝を達成。稲葉はMVPを受賞する大車輪の活躍を見せ、F1昇格を置き土産に現役を引退。かつて中野が立ち上げた“日大ファンタース”は、結成から20年近くの時を経て、ついに日本最高峰の舞台・F1に戦いの場を移すこととなったのだ。

闘病する仲間が付けた背番号「19」

ついに辿り着いた夢の舞台。最後の創設メンバーとして初のF1に挑む今シーズン、中野は背番号を19に変更した。長年慣れ親しみ、稲葉からも「付け続けてほしい」と言われた7番を返上したのだ。「何か大きな理由があるに違いない」と感じた筆者は、開幕を間近に控えた8月30日、ミズノフットサルプラザ味の素スタジアムで行われたF2・トルエーラ柏とのテストマッチを視察。試合後、中野に背番号変更の理由を聞いた。

「神奈川県リーグ時代に一緒にプレーしていて、今はスタッフをしているガマ(須釜純平さん)が今闘病中で。少しでも元気づけられたらと思って、彼が背負っていた19番を付けることにしたんです」

須釜さんは、かつて神奈川県リーグ時代のY.S.C.C.横浜で中野と共にプレーした選手だった。共にFリーグ昇格を目指した、いわば戦友だ。

「もう7、8年前のことになりますが、Y.S.C.C.としてFリーグを目指すにあたり、クラブとしてハードワークを標榜するようになって。その頃にガマと2人で本格的な肉体改造を始めたんです。今でこそみんなクラブのトレーニング以外でも筋トレをやっていますが、当時は僕ら2人だけ。クラブの練習がない日も、仕事後にスポーツセンターで合流してよく一緒に筋トレをしていました」

ボールを使ったチームでのトレーニングと違い、それはとても地味な光景だった。見ている者は誰もいない。だが、そんななか黙々とトレーニングに取り組む須釜さんの姿は、中野のモチベーションを大いに刺激した。

「ガマは本当に、一切妥協しないんです。常にストイックに自分を追い込んでいて。僕自身もやれる限り追い込んでいるつもりではいましたが、彼を見ていると『いや、自分ももっとやれる』と思えましたね。そうやって2人でトレーニングをしているうちに、不思議な絆のようなものも生まれて。彼が病気になってからも一度だけ、偶然同じ場所でガマと会いました。フットサルをやりたくて仕方なくて、本気で復帰したかったんだと思います」

当初の予定より3カ月遅れ、9月に開幕したFリーグ。Y.S.C.C.のF1挑戦2試合を見届け、須釜さんは天国へ旅立った。3戦目の対ボアルース長野戦で、選手たちは喪章を付けてプレー。1点リードして迎えた終盤に退場者を出すなど苦しい展開となったが、チーム一丸、身を粉にして守り抜き、天国の須釜さんへ初勝利を届けた。

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多くの人々の思いを背負って立った、F1のピッチ

今シーズンのY.S.C.C.は、開幕から出番をつかんだ若手選手たちが奮闘。メンバー争いが激化するなかで、中野自身はなかなかF1のピッチに立てずにいた。だがかつてと同じように、早朝のチームトレーニングに加え、個人でのフィジカルトレーニングを継続し、その時に備えた。

そして11月7日。ミスターY.S.C.C.「中野和也」の名が、ついにメンバーリストに記されたのだ。

フィクソとしてスタメンでF1デビューを飾ると、すみだのエースピヴォ・ガリンシャ相手にも一歩も引かないディフェンスで対抗。須釜さんから引き継いだ19番を背負い、共に切磋琢磨し鍛え上げた強靭なフィジカルで互角に渡り合ってみせた。その活躍ぶりは、この日ABEMAで解説を務めた北原亘氏も「相当体幹が強いんだと思います」と舌を巻くほどだった。

0-3で敗れはしたものの、中野個人としては確かなインパクトを残し、ABEMAが選出する週間ベスト5にも選出された。

「初めてのF1の舞台はやはり緊張もしましたが、それ以上に本当に楽しかったです。また練習から100%の準備をして、試合に出たときにチームの勝ち点獲得に貢献できるよう、日々やれる限りのことをやっていくだけです。これまで一緒にプレーしてきた元チームメイトや、県リーグ時代に対戦したライバルチームの人たち、そしてきっとガマも見てくれていると思うので、『あいつ頑張ってるな』と思ってもらえるように、また練習から追い込みたいと思います」

クラブの歴史と共に歩み続けてきたY.S.C.C.のバンディエラ・中野和也。夢の舞台での挑戦は、まだ始まったばかりだ。

17:00/小田原
湘南ベルマーレ vs Y.S.C.C.横浜
ABEMA中継
[解説:横江怜/実況:辻歩]

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