更新日時:2023.03.11
新生アスレ躍進の象徴となった新井裕生「自分が頑張ることで、仲間に火をつけたい」Fリーグ選抜第一期生、成長の証
PHOTO BY高橋学
あれよ、あれよ、という間に。
中断明けの立川アスレティックFCは、まさにそんな感じだった。爆発的な勢いがあったわけではないが、チームカラーを“茶”から“青”に変えたばかりの真新しいブルーのユニフォームは無敗街道をひた走り、勝ち点を重ね、順位を上げていった。
終わってみれば、中断明けは無敗、最終順位は2位という、2021シーズンまでの立川・府中アスレティックFC時代を含めたクラブ史上最高の成績を収めた。
あれよ、あれよ、という間に。
新井裕生もまさにそんな感じで、得点ランキングを駆け上がっていった。中断前の8試合で1ゴールだったピヴォが、中断明けの14試合で14ゴールを挙げ、最終的に得点ランキング6位となり、チーム内得点王となった。
プレーオフ決勝こそ名古屋オーシャンズの3連勝で幕を閉じたが、中断明けからプレーオフ準決勝でバルドラール浦安を危なげなく退けるまで、立川の強さは本物だった。
この強さの源が、中断期間に開催されたAFCアジアカップの優勝と自信を勝ち取って凱旋した黒本ギレルメ、上村充哉、金澤空の存在だったことに、疑いの余地はない。
だが、ABEMAが選ぶ「アベマ終盤戦MVP」を新井裕生が受賞したことに、異論の余地もない。
今シーズン、もっとも重要な2連戦、満員のホームでの名古屋戦とアウェイのペスカドーラ町田戦で、立川は見事2連勝を飾り、事実上のプレーオフ出場を決めたのだが、この2試合での新井のパフォーマンスは素晴らしいものだった。
名古屋戦では1ゴール、町田戦ではハットトリック、そしてこれらを含めたプレーオフ1戦目まで7試合連続ゴール。あれよ、あれよ、とゴールを重ね、あれよ、あれよ、と駆け上がった先に、新井裕生が見据えているものとは。
立川躍進の象徴だった男のインタビューをお送りする。
インタビュー=本田好伸
編集=高田宗太郎
■絶賛ブレイク中、ザ・ストライカー!新井裕生/立川アスレティックFC
自分は、中断明け無敗だったチームの象徴
──まずは、ABEMAのFリーグ終盤戦のMVPに選出されました。Twitterで周囲への感謝と「もっともっと貪欲に!!」とつぶやかれていましたが、改めて感想を教えてください。
前半戦というか中断前は8試合で1ゴールしか取れなかったので、自分自身はそこまでプレーが悪かったわけではないですが「点につながらないとダメなのかな」という気持ちになってしまっていました。中断明けからはチームの調子も良かったので、そのおかげもあり。一番点を取れるポジションに僕はいるので、点を取ることができました。チームの調子を象徴しての受賞かなと思います。
──チームの調子が上がったから新井選手が点を取れたのか、新井選手が点を取ったからチームが良くなったのか。いずれにせよ、チームと新井選手は同じ上昇線を描いていたと思います。中断を境に何が変わったんですか?
その質問はいろいろなところで聞かれるんですが、本当に、特にないんですよね(笑)。中断期間にめちゃくちゃいい練習できたかと言えば、そうではないんです。ただ、去年の全日本選手権の時もそうでしたが、チームが同じ目的、同じ戦術を理解して、話し合いながら共通理解を持って臨めたことが、調子の良さにつながったと思います。
──たしかに中断期間は、黒本ギレルメ、上村充哉、金澤空が代表に呼ばれていましたし、連係をブラッシュアップするという点では難しかったかもしれないですね。
そうですね。でも、代表に選ばれているからと言って、スペシャルな選手はアスレにはいないと思っています。外国人選手もいないですし、個が強い、個にインパクトがあるというより組織的なものが強みで、充哉や空は、合わせる技術に長けている選手だと思っています。彼らがいない間も残っているメンバーで組織的に、守備も攻撃も調整していって、帰ってきたメンバーがすぐに合わせてくれた。ずっと、やっていることは変わらなかったので。
──中断期間に新しい戦術をやったのではなく、やってきたことを、代表でAFCアジアカップを戦ったメンバーも含めブラッシュアップできたことが結果につながったんですね。ただし、中断前は8試合1得点だった選手が、中断明けに14得点というのは、正直、驚きでした。どんなカラクリがあったんですか?
サテライト時代に関東2部リーグで得点王になった時も、2タッチ以下のゴールが多かったんです。僕は、ドリブルもうまくないですし、反転も相手を抑えて強引にというタイプではない。どちらかと言えばセットプレーのワンタッチのゴールだったり、ファー詰めなど、ゴール前で決めるのが自分の取り方だと思っています。ただ、そこにプラスして反転でも数ゴール決められたことは、成長だと思います。
──出し手との関係性、特に金澤や酒井遼太郎とはホットラインというか。しかも逆に、新井選手が出し手になる形もありました。
最初に、チームの調子が良くなった象徴が僕の得点だったと話しましたが、周りとの連係が良くなったのはありますね。遼太郎はパスの質が、昨シーズンはひどかったんです(笑)。彼はもともと技術がある選手ではないですし、走ってなんぼの選手ですからね。彼も含め「俺はここでほしい」「俺はここで出したい」という連係が良くなっていったのが、自分の得点につながってきたと思います。中断前も悪くなかったんですが、まだ噛み合い切らないところの、数センチの差で得点につながらなかったのかなと思います。
──それにしても中断明けのアスレの上昇ぶりは、目を見張るものがありました。プレーオフに入る前までは無敵のような感覚だったのでは?
いえいえ全然(笑)。いつ負けてもおかしくないというか、内容的にも圧倒していたわけではないですし。それでも接戦をものにしていけたところは、チーム力の賜物だと思います。ベンチからの声がけ、試合に出てないメンバーからの「ここが空いているよ」「相手はこうして来ているよ」というアドバイスだったりで、お互いに思っているもの、見えているものを情報共有してということを、リードされている状況でもやれていました。やはり、スター選手がいないチームなので、チーム全体が同じ方向を向いて、やることを変えず負けている状況でも落ち着いてやり続けられたことが大きかったと思います。
──とは言え、得点を取らないと試合には勝てないわけで、試合終盤の決めてほしいチャンスで新井選手がしっかり決めて勝つ、という試合も多かったです。
サテライト時代から際どい試合、接戦はやっていておもしろいですし、そこで決めたら、めちゃめちゃカッコいいじゃないですか(笑)。やっぱり目立ちたいし、そこで決めたらカッコいいという意識で、いつでもゴールを取れる準備はしています。
──めちゃくちゃカッコよかったです。ゴールパフォーマンスも、指で作る「M」を覚えました。
あれは、子どもの頭文字です。
──お子さんはいくつ?
1歳9カ月です。
──じゃあ、画面越しのパパは?
認識してくれています。
──いつもABEMAで応援を?
「パパ、パパ」って言ってるらしいんですが、僕より充哉のファンで(笑)。
──はははは。
僕の「M」のパフォーマンスじゃなくて充哉のハートのパフォーマンスを家で「アツヤ、アツヤ」って言いながら真似るんですよ(笑)。
──お子さんは、娘さん?
そうです女の子です。取られましたね。
──イケメンは危険ですね、お父さんとしては。
本当にそうですよ。敵チームだったら削ってますね(笑)。
「続けて欲しい」という父親の強い思いがあっての今
──改めて、新井選手のキャリアを聞かせてください。フットサルの始まりは府中アスレ?
中学校の時にまだFリーグ参入前のアスレのジュニアユースに入ったんです。サッカーもやりながら、別でフットサルもという。父親が探してきて「フットサルもやってみろよ」と。その頃にいたサッカーチームはFC多摩という、東京ではけっこう有名なチームで、中学3年間で公式戦1試合しか出ることができなかったんです。しかも、その1試合も中学3年の時の消化試合でした。正直、やめようと思った時期もあったんです。
──中学サッカーの道は厳しかった。
ただ同時進行でやっていたフットサルでは試合に出ることができていて、「サッカーは無理だなぁ」と思いながら。その時にちょうど、アスレがFリーグに参入することが決まって。「フットサルいいな、カッコいいな」と思ったところがキッカケですね。
──ただ、そこから高校、大学とサッカーを続けて行くんですよね?
はい。高校のセレクションで受かったのと、両親の強い思い「まだ諦めないでサッカーを続けてほしい」という意見があったので。
──お父さんは、フットサルを勧めてくれて「サッカーは諦めないで」と。お父さんの心境はどうだったんですか?
あまりそういう話はしないですが、試合もすごく観にく来てくれますし、思春期はウザいと思ったこともありましたが(笑)、今思うと一番の理解者でした。その頃の僕は、自信を持てていなかったんです。高校では試合に出る機会はかなり増えていったんですが、中学3年間がトラウマだったので、自分がうまいとはどうしても思えなかったし、メンタル的な弱さがありました。そんな僕に対して父親はずっと「お前ならできる」と、自信を与えてくれました。
──お父さんは中学時代に挫折した新井選手に、違う視点を与えようとフットサルを?
いろいろ調べるのが好きな父なので、なにかの記事で「フットサルはサッカーにつながるものがある」とか「フットサルは個人スキルアップになる」というのを見て、サッカーにつながると思ってフットサルを勧めてくれたのだと思いますね。
──結果的にFリーガーとして今もキャリアを積んでいる。お父さんの影響は大きいですね。
そうですね。この両親じゃなかったらここまでこれていないと思うので、ありがたいですね。
──フットサルに専念しようとしたタイミングは?
高校から大学に上がる時に、サッカーを続けるか悩んでいたんです。正直、サッカーはやめたかった。でも父親の半ば強引な感じで「大学も続けろ」と。国士舘大学に入ったんですが、その時は遊びたい年頃だったので。
──まあ、そうですよね。
高校3年間は地元を離れての生活だったので、大学でまた戻ってきて、どうしても地元の仲間との遊びのほうが楽しくなっちゃって。大学の練習もサボりがちになり、サッカー部をやめてグータラしていたら両親に怒られて。「家も出て行け!」と。
──厳しい。
その時に中学時代にいたアスレで、遊びでもいいからフットサルをやってみようと。アスレの知人に連絡して、その年はサテライトBに入り、翌年にサテライトに上がって、そこから自分のなかでのフットサル熱が増してきて、真面目に取り組むようになりました。
──そこから今のキャリアに至るまで、アグレミーナ浜松やFリーグ選抜を経由して来ましたが、当時の決断を振り返っていかがですか?
アスレで「トップに上がれない」となって、でもサテのままだと自分のレベルも上がらない。当時、浜松はクアトロの戦術をやっていたのですが、左利きが(田中)智基さんしかいなくて、チャンスがあるなと。でも浜松に入ったら、まさかのマティさん(前鈍内マティアスエルナン/現北九州)とジョン・レノンという、強烈な左利きが2人入団して来て、マジか!と(笑)。
──ブラジル人選手のジョン・レノン、懐かしい。浜松時代は、ほろ苦い経験?
初めてのFリーグの舞台でしたし、難しいものもありました。なかなか出られずにポンと出て、監督の期待に応えるプレーをするのは難しかったですね。でも浜松での経験があったからこその今だと思います。正直あまり強いチームではなかったですが、いろいろなものを選手として得られました。一番は“フットサル、フットボールを楽しむ”ところですね。
──たしかに、当時の浜松は“楽しむ”にはもってこいの陣容でした。
サポーターを含めて“負けて悔しがらない”ということはないですけど、“その負けもフットボールの一つ”というような割り切り方をしていて、そういう部分を教えてもらいましたね。
──今でこそピヴォの選手ですが、当時はアラでしたよね?
かなりアラでしたね。目指している選手も渋い選手を目指していました。当時のチームメイトでいうと、中村友亮選手(現しながわシティ)みたいな、潤滑油じゃないですが気の利く選手になりたいと思っていました。いつからか変わっちゃいましたね。
──いつからか「自分で決めてやる」と。Fリーグ選抜に移籍してからはピヴォとなりましたけど、結果的にはそれがよかった。
そうですね。F選抜では、自分の幅を広げてもらいました。“アラもできてピヴォもできる選手に”というのがなければ今はないので、そうやって使ってくれたゲンさん(高橋優介/当時監督)には感謝ですね。
──ピヴォをやる上で当時、参考にした選手は?
岡村康平(現フウガドールすみだ)さんが一番の手本でしたが、どうなりたいかと聞かれれば、星翔太さんのようなオールマイティな選手です。絶対に日本代表にもそういう選手は必要とされると思うので、クアトロもピヴォもできる部分は見習いたいです。
──星さんとは代表で一緒に?
その時はあまり会話はできなかったので、見て学ぶという感じでした。
──今でもその意識?
本当は力でも負けてはいけないと思いますが、現状で名古屋を相手にフィジカルでは勝てない、となった時にプレーオフでも降りる場面があったし、ボラと出る時はアラとしてプレーしました。やっぱり、幅の広い選手のほうが監督も使いやすいし、それを求められていることもわかっているので、ピヴォでもアラでももっとスキルを上げていく。上げていければ、日本代表に入れる可能性も上がってくると思っています。
元Fリーグ選抜世代が、代表を引っ張る存在に
──最後に日本代表の話を。気がつけば28歳です。アスレで同僚の金澤選手など現代表は若い世代が台頭していますが、代表への率直な思いは?
正直、なかなかピヴォのメンバー争いも熾烈ですよね。今選ばれている3人(平田ネトアントニオマサノリ/名古屋、清水和也/すみだ、毛利元亮/レアル・ベティス)は海外での経験も代表での経験も豊富ですけど、そこに割って入るためには“左利きの部分”と“ピヴォとアラができる部分”、そこで結果を出せば絶対に選ばれると思うので。
──今シーズンのFリーグ後半戦では結果は出しましたが、残念ながら。
僕が思う課題としては、まずもう少しパワーをつけないといけない。名古屋を相手にしても収められるぐらいに。そうじゃないと海外相手では戦えない。なおかつ、アラで出た時のクオリティをもっと上げていかないといけない、と思っています。ただ正直、今回のタイ遠征は選ばれたかったです。本当に悔しかったんですが、点は取れているけど、代表戦で活躍できるかと言えば、まだ細かな部分が足りないんだと自己分析しています。
──木暮賢一郎監督になって一度、招集されました。そこでは?
あの遠征もピヴォはほぼやっていないんです。堤(優太/横浜)の代わりに追加招集だったので、自分が思った以上にアラでの出場時間が多かったです。「もっとアラのスキルを上げなければ」とそこで思いました。ピヴォでスタートして降りてきてアラ、というイメージはありますが、がっつりアラで出るのはここ数年やっていなかったんです。ボラが加入してからアラで出る機会が増えたので、もう少しプレーの幅を広げられたら、グレさんが期待できるような選手になれると思います。
──木暮監督は結果を出した選手を呼んでいますから、アスレで結果を出し続けることも重要ですね。
全日本選手権でも最低でも決勝まで行って、名古屋へのリベンジを目指したいです。そこで結果を残せばグレさんの目に止まると思いますし、比嘉さんもグレさんと情報を共有しているし、目指しているフットサルも離れていないと思うので、比嘉さんの下でしっかりやれば、グレさんが目指すフットサルにも合っていくんじゃないかなと思っています。
──代表ではFリーグ選抜世代より、もう一つ下の世代が台頭して来ていますが?
プレーオフの試合が終わった後も平田と「俺らの世代が引っ張っていかないと」という話をしました。正直、他のF選抜出身のメンバーももっと頑張らなければいけないし、自分が頑張ることで当時のF選抜の仲間に火をつけたいです。
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