更新日時:2024.12.30
「F1で戦えるクラブへ」。帰ってきた“ミスター・デウソン”原田浩平が本音で語る、クラブへの思いと葛藤|F2で紡がれる戦闘記
PHOTO BYデウソン神戸、高橋学、本田好伸
F2への自主降格、2023-2024シーズンのFリーグライセンス不交付、運営権を巡るトラブル……。
一時はクラブ消滅の危機に追い込まれながらも起死回生を図り、デウソン神戸が再建への第一歩を踏み出した。
Fリーグ開幕元年、記念すべき第1試合を戦った“オリジナルエイト”としてのプライドを取り戻すために──。
ゆかりのあるOBたちが続々と再集合するなか、キーマンとして期待を寄せられるのが、“ミスター・デウソン”原田浩平だ。
立ち上げメンバーの一人として日本フットサル界に“デウソン旋風”を巻き起こし、一度は神戸を離れたレジェンドは、どんな思いでクラブに戻ってきたのか。
「プロジェクトマネージャー」の肩書きをつけ、どのように復権の道を描いているのか。
その胸の内を、飾らない言葉で赤裸々に語った。
取材:北健一郎
文:青木ひかる
“浩平フレンズ”で巻き起こしたデウソン旋風
──原田さんは神戸の創成期を知り、現役時代は“ミスターデウソン”と呼ばれてきました。改めて、フットサルを始めて、神戸に加入した経緯について教えてください。
もともと、神戸を立ち上げた上永吉(英文)さんが清風高校の大先輩という背景があって。
それとは別に僕は僕で、大阪体育大学でサッカーをしながらフットサルにハマって、部活がない日に西武高校の同級生や、大学のチームメート……それこそシン(須藤慎一/元アグレミーナ浜松)やパッシャン(西谷良介/元名古屋オーシャンズ)を誘ってワンデー大会に出るようになりました。
もうサッカーよりも楽しいと思えるくらい夢中になっていたのですが、ある日、内田哲兵さん(リンドバロッサ京都代表)が運営するフットサルコートで開催されていた大会で優勝て。そこから、当時関西1部リーグを戦っていたフュンフバインとも試合をして勝つことができたんですよ。そうしたら、上永吉さんから新しくFリーグが設立するから、「お前がやるなら手をあげるぞ」と連絡が来たのがきっかけですね。
ちょうど4年生で卒業のタイミングだったのですが、リーグ開幕が1年後だったので、そこからシンと一緒にブラジル留学に行って帰って来た頃に、デウソン神戸ができて、そこに加入したというのが僕のFリーグキャリアの始まりです。
──「お前がやるなら手を上げる」って、すごい誘われ方ですよね(笑)。
そもそも、かなり歳が離れているのに上永吉さんから直接連絡が来ること自体おもしろいんですが……。
だから初期のメンバーは、僕が一緒にフットサルをやっていた知り合いばかりでした。伊藤雅範さん(元バサジィ大分)やブルノ(畠山・ブルノ・タカシ)とかはちょっと違いますけど、基本は清風高校と大阪体育大学のOBだらけ。“浩平フレンズ”のチームでしたね(笑)。
──名古屋オーシャンズ(元大洋薬品/BANFF)、ペスカドーラ町田(元カスカヴェウ)、バルドラール浦安(元プレデター)など、歴史も長く日本代表選手も所属するクラブがリーグに参入するなか、“ほぼ無名”のメンバーで臨む不安はなかった?
いや、ありましたよ。フットサルを始めた頃はずっと雑誌で勉強していたんですが、リーグ開幕のキックオフカンファレンスに参加させてもらった時も、周りを見て「雑誌に載ってた選手や!」とかそんな感じ。
しかも、これまで10人くらいの友達や知り合いの前でしかプレーしてこなかった僕たちが、7000人ぐらいが入ったほぼ満員の代々木体育館でいきなり開幕カードで名古屋と当たることになるなんて、びっくりですよね。
──ただ、そこから“デウソン旋風”が始まって、初年度はリーグ3位。人生の転機と言えるのでは?
やっぱり開幕一発目で、当時から「一番強い」と言われていた名古屋相手に引き分けることができたのは大きな自信になったし、チームもそこで勢いづきましたよね。
個人としても「人生が変わった」とまでは考えていなかったですけど、たしかに日本代表にも選んでもらえるような選手になれるとは思っていなかったです。
2年目に得点王争いをしている途中で前十字靭帯を切ってしまって、そこから思うようには動けなくなってしまったんですが、ベスト5にも2年連続で選んでもらって、本当にいろんな経験ができました。
「心配することしかできなかった」退団後の混乱
──そこから10年間“神戸の顔”としてプレーしていましたが、2017-2018シーズンに大分に移籍。この決断には少し驚きました。
その頃から少し経営状態が危ういという話は聞いていたんですが、運営元が急に変わって、それまでプロ契約のような形でプレーさせてもらっていたものが「来年以降は難しい」と言われてしまって……。あまりにも突然の話だったので、ちょっと落ち込みました。
加えて自分も33歳のベテランになって上の世代もどんどんいなくなり、周りも僕には何もいってこない状態が数年続いていて、少しマンネリ化している感覚もありました。そこに契約条件の変更も重なったので、もう引退しようかもと考えていたのですが、大分から声をかけていただき、「いい気分転換にもなるし、もう少し続けよう!」と移籍を決めました。
──その後、神戸はライセンスの不公布で2018-2019シーズンに「財政の立て直し」を理由にF2に自主降格。そして2022-2023シーズンライセンス不交付で、F2にも参加が認められない形になりました。このニュースを聞いてどう思いましたか?
その頃は上永吉さんもクラブから離れていたし、自分としても少し距離を置いていたところがありました。だけど「何らかの形で戻れたらいいな」とは思っていたので、かなりショックでした。まずF2降格も、成績が悪くて降格とかではなく経営状況の問題ということで、明らかにチームとしては緊急事態だろうな、と。
ただ実情も外からだと分からないですし、運営側もごっそり変わっている状態だったので、もう心配することしかできませんでしたね。
──そこから、どういう流れでもう一度クラブに関わることに?
昨年末ごろ、ようやくクラブ運営のトラブルが解決したらしいという話を聞いていました。そこから、チームメートだった江藤(正博)くんが監督になることが決まって「手伝ってくれないか」と相談されたところからですかね。
前任のスズくん(鈴村拓也前神戸監督)とも連絡はとっていたんですが、きちんと声をかけられたのは去年の年末か、今年の初めごろだったと思います。
そこから今の運営会社である、グリーンカードの羽生博樹代表にも挨拶をして、関わらせてもらうことになりました。
──外から見ていても、かなり複雑な状況に見えました。選手としてではないにせよ、スタッフとして戻ることにためらいなどはなかったんですか?
体制もしっかり変わって整うというところと、一番は江藤くんの存在が大きいですね。
グリーンカードの羽生さんも、「もう辞めよう!」の一言で終わってしまう状態だったチームにスポンサードをして、消滅の危機から救ってくれました。
その恩返しとして少しでも協力できることがあればという気持ちでした。
簡単に「やります」とは言えない
──そして今年の2月に「プロジェクトマネージャー」に就任しました。この役職は具体的にどういうことをしているんですか?
はじめは、「GMか社長になってほしい」と言われていたんですが、それはちょっと荷が重すぎるぞ、と。今自分でバーも経営しはじめてほかにもやりたいことがいろいろあるので、どちらかというとアンバサダーのような立ち位置かなと思っています。
なのでやっていることも、ホームゲームでイベントをちょろっとやったり、前座試合に出たり……。
──絶対もっといろいろやっていますよね?
いやいやいや(笑)。
あとは、今の大阪体育大学の監督が僕が4回生の時の1回生なので、江藤くんのオーダーに沿って「誰かいい選手いない?」と聞いてみています。今の10番がセットスター和歌山(関西1部リーグ)のエースだった選手なんですが、その子もたまたま知り合って声をかけて加入を決めてくれました。
──監督としてというのもあまり考えていない?
リンドバロッサで5年くらいやったから、もういいかな。
やるつもりもなかったんですけど「いい選手おるから!」って内田さんに言われて、行ってみたら全然選手がいなくて……。という半ば騙されたみたいな感じで引き受けることになったので(笑)。
やるからには降格させたくなかったからなんとか1部に残留させてそこから少しやる気になりましたけど、もともと感覚でプレーしていたタイプでしたし、監督も向いていないと自分では思っています。
──なるほど……。でも原田さんは昔からコミュニケーション能力も高いし、人の懐に入るのが上手だから、営業とかも向いていそうですよね。
そんなことないですよ!
リンドバロッサでもスポンサー探しをしましたけど、自分からお願いするのは苦手なんですよね。
なので「もし良かったら……」とSNSで発信したら、友人や知り合いが向こうから連絡をしてきてくれて、けっこう資金が集まったんですよね。本当にありがたい話です。
──それも、原田さんの人間性ありきだと思います。ゆくゆくは、上永吉さんが担ってたような役割を、原田さんが担っていく未来も……?
いやあ……。興味がないわけではないですけど、いろんなクラブが苦しんでいる状況も見てきているので、ちょっと簡単には「はい」とは言えないですね。
ビジネスとしての基盤がもう少し出来上がっていればやってみたいなという気持ちにもなりますけど、なかなかそこまでいくのにも時間がかかるし、「じゃあ自分が」と言っても力のある後ろ盾をつけて巻き込んでいくところから始めないといけない。一筋縄では行かないですからね。
同年代の元チームメートや、代表で一緒にプレーした元選手たちが、今監督になったりGM職になったりしていますけど、話を聞けば聞くほど大変そうだなって(苦笑)。
その責任を負う重大さを感じれば感じるほど、簡単に「やります」とは言えないです。
個性が輝くチームで「F1復活」を
──ただ、就任時のコメントにある「またあの舞台に戻れるように」というのは、当然F1に戻るために力になりたいという気持ちの表れということですよね?
そうですね。F2とF1は全然レベル差も違うし、今いる選手もこの神戸のためにものすごく頑張ってくれているので、その舞台に立たせてあげたい。
そして1シーズン頑張って勝ち抜くだけじゃなく、その後ずっとF1に居続けるため地力をつけないといけないですね。
──そのためには、なにが必要だと思いますか?
やっぱりスポンサーと地域密着じゃないですかね。ボアルース長野のGMの土橋宏由樹さんやヤマくん(山蔦一弘監督)とも喋っていたんですが、長野は地域に密着して応援してもらえるクラブを目指して少しずつ基盤ができてきて、今黒字で運営できているらしいんですよ。
スポンサーももちろん大事ですけど、大きいところが一つつくだけだといつどうなるかわからないので、大切なのはたくさんの人、つまり地域に愛されるチームにしていかないと難しいだろうな、と。
じゃあ応援されるために何が必要かと考えると、たしかに「勝利」というのは大きな要素だと思うんですが、選手一人ひとりの個性も大事かなって。
僕が選手だった頃って、苦手なものもあるけど抜き出ているなにかをもっている選手が多かった印象なんですよ。正直最近の選手は、平均値は高いしなんでもできるのかもしれないけど、なんか同じに見えてきちゃうなというのは感じていて……。
なので、もう一度「個性のある選手たちが輝く、デウソン神戸」としてF1に復活できるように、自分の無理のない範囲でできることから貢献していきたいです。
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