更新日時:2024.12.31
【独占インタビュー】初めて明かすW杯予選敗退の真実。元日本代表監督・木暮賢一郎、栄光と挫折の969日
PHOTO BY本田好伸
木暮賢一郎が日本代表監督として過ごした969日は、栄光と挫折の道のりだった。
2021年11月22日、日本代表に4代ぶりの日本人監督が誕生した。
2004年の世界選手権(現ワールドカップ)初出場から2008年の二度目のW杯まではブラジル人のセルジオ・サッポ監督、その後、2016年まではスペイン人のミゲル・ロドリゴ監督、続いて2021年の四度目のW杯まではブルーノ・ガルシア前監督が指揮を執った。いずれの時代も第一線で過ごしてきたのが木暮氏だ。
サッポ監督時代にエースとなり、ミゲル監督時代にキャプテンとなり、その後、現役を退いてからは指導者となり、ブルーノ監督時代にコーチとして、日本フットサルにおける最高峰のカテゴリーに身を投じてきた。
言わば木暮氏は、フットサル・エリートだ。
2000年から2012年までは選手として、W杯に三度出場。指導者としては、2013-2014シーズンのFリーグU23選抜監督を皮切りに、2014-2015シーズンからシュライカー大阪の監督に就任。3カ年計画で強化を続けた3年目、2016-2017シーズンには、Fリーグ初制覇を成し遂げた。過去17回のリーグで、名古屋以外のチームが頂点に立ったのはこの時が唯一のことである。翌年まで大阪で指揮を執り、2018年から日本代表スタッフに入閣するのである。
そのキャリアに“挫折”はなく、全てが順風満帆に進んでいるように見えた。
2022年10月9日、日本はAFCフットサルアジアカップクウェート2022で優勝。就任後初のアジアカップで、なおかつ決勝で宿敵イランを倒しての戴冠という最高の結末は、木暮監督が思い描いたとおりのシナリオであると感じさせた。
だが、悲劇は起きてしまった。
2024年4月22日、日本はAFCフットサルアジアカップタイ2024で史上初のグループステージ敗退。アジアに5枠が与えられたW杯出場権を手にするどころか、手をかけることもできないまま、大会を去ることになった。
木暮氏が就任した当初の目標は、アジアカップのタイトルはもちろんのこと、2024年のW杯出場と、同大会のベスト8以上の成績だった。決して無謀なチャレンジではなく、日本はそこに到達しうる成長曲線を描きながら着実にミッションを遂行していた。
一体、何が起きていたのか。
2024年7月18日、アジアカップ敗退後、約3カ月の“空白期間”を経て、木暮氏の監督退任が発表された。その後、木暮氏は自身の活動をSNSで報告することはあっても、新しい所属先はなく、メディアで発信する機会もなかった。
日本代表監督として過ごした969日と、その後の5カ月。何を感じ、何を考え、何と向き合い、どう過ごしたのか。そしてこの先どこへ向かうのか。アジアカップを現地取材したSAL編集長・北健一郎が直撃。木暮氏が今、真実を語る。
インタビュー=北健一郎
編集=本田好伸、伊藤千梅
追加招集で仁部屋と安藤を選んだ決断
──2021年のW杯終了後、ブルーノ・ガルシア監督からバトンを引き継いで代表監督に就任しました。当時、木暮さんが描いていたものとはなんでしょうか。
思い描いていたものは三つありました。
一つは、代表チームの取り組み方や構造を変化させていくことです。強化方針では、代表招集期間をFIFAデイズに沿って行うことや、育成世代との連携を強固にすること。また、カテゴリーやライセンスの有無に関わらず、日本人指導者の養成に力を入れていくことを考えていました。二つ目は、世代交代を図ること。
そして三つ目は、代表チームの宿命である、アジアでのタイトル獲得やW杯出場といった成果を出すこと。その三つを自分の軸に置いてスタートしました。
──その成果を出すために、2年間でどんな準備を行いましたか?
2022年のアジアカップで優勝した直後、世界で戦うことを考えてプレーモデルの変更を決断しました。具体的には、イランなどの強豪国に対してもゲームを支配して勝つために、ポゼッション率を高める必要があると考えました。
プレーモデルを変更するなかで、ヨーロッパなどの強豪国とのマッチメイクも行いました。課題や通用することを、選手一人ひとりが肌で感じながら、その感覚を忘れずにそれぞれのクラブでトレーニングを重ねるサイクルを生み出せていたと思います。
2024年2月のポルトガル遠征まではいい状態をつくれていました。選手個人のシュート数やリーグ戦のプレータイム、走行距離や短期間でのフィットネスレベルの落ち具合、体脂肪率といった細かいスタッツやデータを見ても、いい数値が出ていたと思います。
そこまでの強化は、完璧とは言わないまでも、予定通りの準備はできていました。
──その後、怪我人が続出した以外にも想定外のことが起きた。
ここですべてを語ることはできないですが、ポルトガル遠征が終わってから、本当にこれでもか、これでもかというくらい、解決しないといけない難題が多かったのは事実です。
例えば、我々は予算の元に動いていますから、スケジューリングはかなり早めに組まないといけません。Fリーグの日程もそうですし、あらゆるスケジュールと予算立てをクリアしないといけないので、そもそも簡単なものではありません。
Fリーグに所属する選手の公式戦、全日本選手権は3月頭まででした。アジアインドアゲームズの度重なる日程変更などの影響もあり、最終的には選手よっては2カ月近く公式戦がない状況になってしまいました。
──なるほど。実戦機会やコンディション調整の難しさがあった。
さらには、FIFAデイズの問題もあります。それ自体は、今に始まったことではないので準備をしていました。アジアサッカー連盟(AFC)の日程がFIFAデイズから外れているのですが、これはブルーノ監督の時代の2021年も、自分が監督となってアジアで優勝した2022年もそうですし、今回の2024年のアジアカップもそうです。次の2026年も同様に、FIFAデイズから外れていることが決まっています。つまり、呼びたい選手を呼べない。
2022年大会の時は、毛利元亮と逸見勝利ラファエルを呼びたかったものの、クラブが出してくれなかったので招集できませんでした。その経験から、2023年には欧州行脚に出向きました。
スペインやポルトガルの1部、2部のクラブの監督や会長に連絡を取ってFIFAデイズからは外れているものの、「必要だから選手を出してほしい」と交渉を続けました。
途中まではうまくいっていました。ポルトガル遠征では、逸見と内田は怪我で呼べませんでしたが、原田快を呼ぶことができました。ただしその後、遠征から帰って、アジアカップに向けてオフィシャルのラージリストを出す時に、クラブの事情で出せないと言われました。
登録メンバーのうち、内田、逸見、原田快、25名のラージリストでは、毛利と中島圭太の5人の選手は呼べないことが確定したので、リストを直前で差し替える必要がありました。
──そんなギリギリの交渉があったんですね。
さらに、それが難しいタイミングが重なりました。Fリーグが1カ月以上オフになる時期に、ベトナムから大会参加のオファーが届きました。それに参加するかどうかという返事のリミットの時点ではまだ、海外組が全員呼べるという状況だったんです。
──まだ、クラブに断られる前のことだったんですね。
そうです。でも何が起きるかというと、仮に、ベトナムの大会は国内組で行ったとして、本番では海外組を呼ぶために半分ぐらい差し替える可能性がある、ということでした。
海外組はシーズン中なのでコンディションは上がっている状況であり、一方で国内組は、試合をしていない状況ですから、そうなる可能性が高い。
結論としては、入れ替わりが多くなることを考えて、行かないことにしました。
──どうしてでしょう?
選手のモチベーションに影響が出ると考えました。海外組は、クラブの試合を休んで呼ぶという確約をもって交渉していたので、ベトナムに行った場合、仮に国内組が良かったからといって海外組を呼ばないとなると、選手を出したクラブとの関係も難しくなります。
また海外組はシーズン中ですのでコンディションが良いということはわかっていたので、行かないという決断をしました。
もちろん、ベトナムに行くとなると、2024年の12月までのスケジュールを変更するという難しさもありますので、簡単な問題ではないないということです。12月に予定している活動の予算を、当初予定のなかった活動に使うことになりますから。その時に誰が監督であってもW杯後にも継続的な活動をするべきだというのは私の考えでもありました。
──順調に見えた活動も、予算を踏まえたスケジューリングや、大会の変更や中止、海外クラブとの交渉など、さまざまな事態に直面していたわけですね。木暮さんにとって、想定外の中での、あらゆる決断をしてきた。でもさらに、大会直前にオリベイラ・アルトゥール、清水和也、フィウーザが立て続けに負傷。この出来事をどう受け止めましたか?
3人ともこちらの管理で全てをコントロールし、未然に防ぐことのできるタイプの怪我ではなかったので、動揺はありました。直前の怪我人でしたし、アジアカップの戦いが難しくなったことは間違いありません。
サポートメンバーにGKピレス・イゴールがいましたが、アルトゥールと和也の代わりはすぐに決めないといけない。決断が1日遅れたら到着が1日遅れるくらい、本当にギリギリの状況でした。監督としては、“秒速”で差し替えの選手を決断する必要がありました。
海外組は怪我やチームの許可が出なかったために呼ぶことができず、限られた時間で「このタイミングで誰が必要なのか」を考えることは、予想以上に難しい決断でした。
──そして、仁部屋和弘と安藤良平という2人のベテランを招集しました。
追加招集は、監督の決断がすべてだと思います。ここまでいろいろなシミュレーションをして、いろんな選手を試してきた上で決めたことなので、まったく悔いはありません。
例えば安藤は、私が監督に就任してから代表活動に一度も呼んでいませんでしたが、ラージリストにはずっと入っていました。アルトゥールに何かあった時の代わりになり得るのは、安藤と、この時は怪我をしていた内村俊太だと考えていました。緊急事態でも、ベテランとしてなんとかしてくれるという期待ですね。安藤はアジアの戦いもよく知っていますし、名古屋でプレーしていることから、名古屋の選手が多い既存の代表のセットに対してフィットしやすいと考えました。
通常時であれば同じような実力であれば若い選手を呼んできましたし、メディアにも明言していました。ただ緊急事態でしたし、内村も怪我をしていたので、性格を含めて知っていて信頼ができる安藤を選びました。もちろん他の選手もギリギリまで悩みましたが、非常にデリケートな状況だったので、すぐにフィットできる選手をと熟考した結果です。
──秒速のなかで熟考した。
そうですね。仁部屋もリーグ戦ですごく活躍していて、直前のポルトガル遠征でもメンバーに入れていました。あとは、2016年のアジアカップでW杯出場を逃した経験という、彼自身のキャリアでの悔しさをプラスのエネルギーにしてくれるのではないかと考えました。チームが苦しい状況のなかで参加しますから、その雰囲気を変えるために、仁部屋はストーリーや思いをもってチームのために戦ってくれるだろうと思い、決断しました。
タケ(本石猛裕)と(伊藤)圭汰ら若い選手たちが実力的に劣っていたかというと、決してそうではありません。この決断は、あくまで私自身の感覚です。今まで、自分が選手だった時代にも、多くの途中参加の選手を見てきましたが、必ずしも差し替えがうまくいくわけではありません。途中から合流してチームにいい影響をもたらしてくれる場合もあれば、遅れて参加する難しさも見てきました。パフォーマンスに限らず、メンタルやチームにどう馴染むかといったこともそうですね。
もし、「若い選手を呼んで、エネルギッシュさで乗り越えられたのではないか」と言われたら、そうなっていた可能性はもちろんあります。ただし、あのギリギリの局面のなかで、自分は若さではなく、ベテランの経験値を優先して決断したということです。
1点を守る選択肢を準備していなかった
──大会初戦、結果的に敗れたキルギス戦は先制を許しました。
優勝した2022年の前回大会も初戦は敗れていましたし、当然「初戦の入りは大事だ」だと全員が認識していました。特に先制された「チョン・ドン」は、2016年大会のプレーオフでキルギスにやられた時と同じような形でしたし、映像でも選手に共有していました。前日にもシミュレーションして、セットプレーを含めて時間をかけて対策していたことは事実です。
また、これまでフリーキックの壁に入っていたアルトゥールと和也がいないことで、代わりの選手の役割は確認していたものの、試合中にいつもと違う配置、人であることによる混乱があったと思います。
ですが、キルギス戦に関してはそもそも何が起きているのだろうかという感覚も少なからずありました。
この試合だけではなく、ポルトガル遠征以降の2、3カ月で、代表活動以外の部分で誰も予想することが難しい課題が次々と起きていました。私自身、日本代表には選手や指導者として18年間携わってきましたが、これほどの想定外が重なったという経験は正直初めてのことでした。
──第2戦の韓国戦からは“3セット回し”にしました。
アジアカップであると同時に、W杯予選ですから、2つの視点がありました。
2022年大会と同じように、初戦で敗戦してもそれ以降すべての試合に勝利すれば優勝できます。それが最高の結果だと思います。ただし、2016年大会の例があるように、監督としては優勝を目指しながらも、5位決定戦に回ることもリスクヘッジとして考えないといけません。心理的にもタフな道になることを考慮して準備する必要がありました。
第1戦に敗れ、例えば第2戦から慌てて主力の5人だけを使う戦い方を選んだ場合、それでは最後まで戦えないというのが、自分が出した答えです。選手は疲弊しますし、コンディションやチームの一体感をつくることを含めて、3セットを選択しました。新しく合流した選手もいたので、一番いいバランスを探りながら力を発揮する意味でもそれがいいだろうな、と。
──しかし、タジキスタン戦はまさかの引き分け。何が起きていたのか。
グループステージの中で一番注意すべき存在がタジキスタンだと考えていました。
タジキスタンは前回大会もベスト8ですし、ここ数年を見たなかでは、GK攻撃やカウンターの早さ、テクニックのある選手もいますから、警戒していました。
1-0で折り返したところまではうまくいっていましたし、第2ピリオドに入って、27分に失点した時も、慌てるよりは冷静にという気持ちでした。ただし、相手はそのまま引き分けでもノックアウトステージにいける状況でしたから、体を張って何がなんでも守り切るという気持ちが前面に出ていました。我々はそれをこじ開けないといけなかったのですが、シュートが3本くらいバーに当たりながらも、最後まで得点を奪えませんでした。
試合に入る時には、ありとあらゆるシミュレーションをしたと思っていました。ですが、改めて指導者として何ができたかを振り返ると、1点リードしている時に、より時間を稼ぐための準備をしていたかと言われると、それはしていなかった。
例えば先制したタイミングでパワープレーをするなど、なりふり構わずにゲームを優位に進めるやり方を用意しておくべきだったかもしれません。指導者として振り返りをすれば、自分の決断一つで結果を変えることができたかもしれないと、今でも感じてしまうことではあります。
「責任は自分にある。ただし、胸を張りたい」
──試合終了の笛が鳴った瞬間はどんな心境でしたか?
たくさんの方々に申し訳ない気持ちや、ポテンシャルのある選手たちを世界に連れていきたかったという思い、悔しさなど、当然、思うことはいろいろとありました。
ただ、敗退直後に感じていたのは、そういった言葉というよりは、直感的に自分がどうあるべきか、どうなっていくかといった感覚でした。
この結果を受けて、自分がどのような責任を負わないといけないかは、誰よりもわかっていましたし、今も理解しています。なので、状況を無理に自分のなかに落とし込もうとしたわけではなく、感覚的に、次の未来はわかっていたのかなと思います。
──木暮さんが監督として積み重ねてきたプロセスは、評価されるべきものだと感じています。それでも、W杯出場を逃したという結果が何よりも重く、決定的なものだ、と。
自分自身への見方は二つあります。
一つは、結果を問われる代表チームにおいて、W杯出場を逃した監督がそのまま継続して指揮を執るべきだとは思いません。もちろん今回のW杯で躍進したウクライナ代表のように、出場権を逃しても継続した強化を行なってきた結果、ベスト4に入ることもあります。ですが監督は責任を取る立場にありますし、(代表監督の退任は)当たり前のことだという気持ちです。
もう一つは、スポーツには絶対がなく、勝敗が決まっているわけではありせん。僕らが勝者に回る時もあれば、相手チームにスポットライトが当たることもあります。自分は、勝ったからいい監督で、負けたから最低な監督だと思うことはありません。当然、この責任は受け入れますが、負けたから自分の人生が悪かった、自分の仕事が悪かったとも思いません。
大事なのは、一つの試合や得点を切り取って、この人は「スター」であるとか、この人は「悪者」であるとか、そうやって決めつける必要はないということです。
代表監督としては、2年という短い間の仕事でした。ただし、コーチやU-20日本代表監督、日本女子代表監督など、6年間でさまざまなカテゴリーに携わり、その期間で指導者養成など、表には見えないところでも携わってきました。
そうしたプロセスは、負けたからといって誰かに否定されることも、自分自身が否定することも違うと思います。これまでやってきた仕事に対しては胸を張るべきだと考えています。
試合に引き分け、敗退が決まった直後、感覚的にはこの二つの感情が浮かびました。
──直後に感じた思いは、今も変わらない?
そうですね。日本に帰ってからは「あの時こうしていれば」「なぜこんなことが起きたんだ」と考えましたし、いまだに自問自答を繰り返す時もあります。
ただ、どれだけ考えても、最後にたどり着くのはその二つです。
責任は自分にある。それと同時に、勝ったからいいとも思わないし、負けたから悪いとも思わない。プロセスが正しかったかどうかはわからないですが、胸を張りたいと思います。
負けから学ぶために必要な存在でありたい
──大会後から退任発表までの3カ月は何をされていたのでしょうか?
退任については、物事の結果が出るまでは、振り返りもなければ、フットサルの未来に向けての議論をする場もなく、自分はただただ意思決定を待っている状況でした。
また、オフィシャルの結果が出るまでは他のチームを探すことはしないと決めていました。プロの監督としては甘いかもしれませんが、任期中に他国へ心が動くことは私の日本代表に対する思いに反すると思っていました。
次に向かうタイミングを逃し、再出発に時間がかかる状況になることは想像できましたが、ただ待つ日々を過ごしていました。人間、何も状況がわからないまま待つことは苦しいものだと思いますが……僕も、非常に苦しかったです。
スポーツ選手でも、芸能人でも、会社の経営者でも、「いい時はみんなが称賛してくれて、失敗したら離れていく」という話はありますけど、そういった辛さはありました。
──木暮さんは、育成年代からトップカテゴリーまで、男女を問わずあらゆる指導者に門を開いていましたし、指導内容やメソッドをオープンに共有されていました。代表チームとは、選手を育成した指導者や、日々Fリーグで指導する監督がいて初めて成り立つものだと話していましたし、そのリスペクトがありました。それでも、離れてしまう人はいる。
これまで、選手時代に批判を受けてきたことは何度もありましたし、負けたことで否定的な意見を言う人がいるのも当たり前のことだと思っています。そうした意味で、メディアの発信や、SNSのリアクションなどは気にならないですが、今まで近くにいた方たちが、負けたからということだけで「木暮はダメだ」と、必要以上に周囲に言っていることを耳にしたり、自分が困っている時にだけ知識だけを取りに来た人もいたりと、ふさぎ込んでしまった時期もあります。
私は、指導者養成やリフレッシュ研修会などでは本当に多くの方たちに、自分の経験や情報をシェアしてきたつもりですので、そうした周囲の変化には正直に、少しの悲しさがありました。
──退任発表から5カ月、今はどんな日々ですか?
私も人間ですから、落ち込んでいた時期はあります。自分が思っている以上にふさぎ込んでいたな、と。そうした時に、助けてくれる仲間もたくさんいました。ネガティブなこともありましたけど、心配して、支えてくれる人たちのありがたさを感じました。
今はあの経験を乗り越えようという、ポジティブな気持ちがあります。
最近はいろんな現場に行って指導すると、そこで感じられる喜びがあります。久しぶりに自分がプレーを楽しむ機会では、改めてボールを蹴る喜びも感じています。
この期間に手を差し伸べてくれた全ての方たちには感謝してもしきれないですし、自分なりのやり方で恩返ししていきたいなと思っています。
こうしたエネルギーは、次に自分が監督として現場に戻った時に、以前の自分よりも広い視野で物事を見ることにつながるのではないかと思っています。今のこの経験は、言い方は難しいですけど、負けた経験があったからこそ得られるものです。
こうして、自分の今の思いを伝えることが、誰かの考えるきっかけになったらいいなとも思います。今のままでは、アジアカップで負けたことが、何事もなかったかのように忘れられてしまうかもしれない。本来、敗戦も財産であるはずです。
──あの敗戦を、きちんと検証することも必要。
まさに今日、聞いてもらった「追加招集選手の意図は?」「なぜ最後の試合で時間を有効に使うためにパワープレーを使わなかったのか?」「どんな準備、練習をしていたのか?」といった話は大事だと思います。日本フットサルがもっと強くなるためという視点での議論があるべきです。
自分は、あの負けから学ぶために必要な存在でありたいですし、どんな形であっても、日本のフットサル界に貢献したいという思いは、変わらずにもっています。
──いつとは言わないまでも、もう一度、日本代表監督を務めたいという思いも?
夢や目標は、簡単に叶えられるわけではありません。日本代表監督の枠は一つしかないですし、自分がなりたいと思ってなれるものではありません。ただ、日本代表として、良い時も悪い時も経験してきて、代表チームへの思いは誰よりも強いと自負しています。
なので、どんな場所からでもまずは現場に戻り、自分が思ういい仕事をしていきたいです。
──監督として、再スタートを切る。
今はまだ所属チームはありません。当然、戻りたいという情熱や、フットサルへの情熱が失われたわけではありません。代表チームをW杯へ導けなかったことはネガティブですが、それをいつまでも言っていても、先には進めません。
フットサル界に貢献したい気持ちは変わらずに強くもっていますから、表に出ることから逃げたくはないですし、逃げないといけないことではないと思っています。
──2024年は、日本にとっても、木暮さんにとっても試練の1年でした。
本当に、2024年は、自分のフットサル人生のなかでダントツに苦しい年で、いろんなものを失い、考えさせられました。そこで手にしたものをひっさげて、パワーアップしたいと思います。自分を育ててもらった日本フットサル界がより良くなるために、やれることはたくさんあります。これからも変わらずに、一つずつ取り組んでいきたいと思います。
代表チームとして関わった全ての選手たちとメディカルスタッフ、総務のみなさんのさらなる飛躍を心から願っています。
そして私の想いを全て知っている(高橋)健介(現日本代表監督)、うっちー(内山慶太郎GKコーチ)の2人が中心となり、必ず日本フットサル界を次のステージへ導いてくれると信じています。
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