更新日時:2025.04.12
「またF1でと言うより、ペスカドーラ町田の選手としてFのピッチに立ちたい」。カスカヴェウに憧れた少年が歩む、終わりなき夢への旅路|全日本の爪痕
PHOTO BY伊藤千梅
ベスト8進出がフロックではないことを、彼らはそのプレーで証明してみせた。駒沢屋内球技場で行われた、第30回全日本フットサル選手権大会準々決勝。2回戦で新F1王者・バルドラール浦安を破って勝ち上がったペスカドーラ町田アスピランチは、ボルクバレット北九州にも互角に渡り合った。最後は宮崎岳のボレーに沈み1-2と敗れたものの、その健闘ぶりは、会場を埋めた観衆を惹きつけるのに十分なものだった。
今はまだ無名の、しかし将来を嘱望される原石たちが輝きを放つ一方、Fリーグでのプレー経験を持つキャプテン・小幡貴一もまた、たしかな存在感を示していた。かつてエスポラーダ北海道で、そしてFリーグ選抜でスポットライトを浴びてから約5年。檜舞台への帰還を目指す背番号7は、いま何を思いながらプレーしているのだろうか。胸に抱く、そのエンブレムへの熱い想いに迫った。
取材・文=福田悠
全日本のピッチで示した、確かな成長
聖地・駒沢で行われた、全日本フットサル選手権大会準々決勝。20歳前後の若き黄色の戦士たちが、格上・北九州相手に勇猛果敢に食らいつく。自信と意欲にあふれたその戦いぶりは、2カテゴリーの差を感じさせないものだった。そんななか、Fリーグでのプレー経験を持つ27歳の“ベテラン”も、実に渋い存在感を発揮していた。アスピランチの主将を務める、小幡貴一だ。
小幡は北海道室蘭市の出身。2016-2017シーズン、地元・エスポラーダ北海道の選手として弱冠19歳でFリーグデビューを果たし、2018-2019シーズンにはFリーグ選抜の一員としてもプレー。リーグ通算81試合9ゴールを上げており、その実績は現在のアスピランチのなかでもピカイチだ。Fのピッチを離れて久しいが、サイドからのドリブルの仕掛けなど、そのアグレッシブなプレーを記憶に留めている人も多いことだろう。筆者のなかでも、小幡と言えば「アタッカー」のイメージだ。
ところが、5年ぶりにスタンドから観た小幡のプレーは、かつてFリーグでプレーしていた頃とは様変わりしていた。以前とはまた違った意味で、とにかく“効いている”のだ。
北九州にボールを持たれる時間が長くなるなか、FPの最後尾で全体をコントロール。同じくF1でのプレー経験を持つゴレイロ・石井遥斗と連係しながら、バランスを取り、要所を締め、攻撃の芽を摘む。相手がピヴォ当てを狙う直前にピヴォの前に入って牽制する駆け引きや、それとは逆にあえて出させた上での前カット、サイドでの1対1のカバーリングなど、地味ながらもそのプレーは実に効果的だ。ポジションはアラ/フィクソだが、どちらかと言えばフィクソの色の方が濃い。すっかり大人のプレイヤーとなった小幡の姿が、そこにはあった。
「年齢を重ねるごとにチーム内での立ち位置も変わってきて、だんだんといろんな役割を担うようになりました。2回戦の浦安戦も今日の北九州戦にしても、格上相手に勝利を狙うにはやはりまず守備で渡り合うのが最低条件だったので、自分はその役割を全うしようと。僕たちは東京都予選、関東予選、全国ラウンド1回戦とすべて完封で勝ち上がってきて、浦安戦の1失点が今大会初の失点でした。今日初めて2失点を喫してしまったのが悔やまれますし、このメンバーでもっと上に行きたかったです。でも、チーム一丸となって戦い抜く、ということは最後までやれたのかなと思います」
Fのピッチを離れて以降もプレーの幅を広げ、確かな成長を遂げた小幡。「トップレベルの相手にも“やれる”と感じた部分もありました」と語ったように、現在のパフォーマンスはF1復帰の可能性を十分に秘めているようにも見える。例えばの話、選手層の厚い町田での昇格が難しかったとしても、他のF1クラブに活躍の場を求めることも選択肢の1つとなり得るのではないか。第三者の勝手な意見でしかないが、客観的な立場から見れば素直にそう感じてしまうくらい、小幡のプレーは素晴らしかった。
「実際、練習試合で他のFのチームと対戦させていただく機会があるので、そういう時に相手チームにいる知り合いの選手やF選抜の同期から『移籍したらチャンスあるんじゃない?』と言ってもらえることもあります。でも、僕のなかではあくまでも“町田のトップチームで活躍する”ことが目標なので。だから少なくとも現時点では、F1の他のクラブに行くという選択は考えていません」
クラブへの愛着を語る小幡。だが、町田から遠く離れた北海道の出身で、町田のアカデミー育ちでもない彼がなぜ?という率直な疑問も浮かぶ。そのルーツは、今から約20年前。小幡が小学生だった時代まで遡る。
異国の地で抱いた、カスカヴェウへの憧れ
小幡の生まれ故郷である北海道は雪が多いため、屋外でサッカーをプレーできない期間も長い。従って、他地域と比べてフットサルがより身近な存在だ。例によって小幡もそんな環境でフットサルに出会った……のかと思いきや、実はそうではない。幼稚園までを室蘭で過ごした小幡少年がフットサルと出会ったのは、なんとそこから遥か5,000km南西。小学校1年生の時に移り住んだ、南国・タイだった。
「幼稚園までは剣道をやっていて、ボールを蹴ったこともなかったんです。けど、タイに行ったら当然、剣道なんてやれる環境がないんですよね(笑)。どうしようかなと思っていた時に、同じマンションに住んでいた日本人の友達から『日本人向けのフットサルスクールができるみたいなのだけど、一緒にやらない?』と誘ってもらって。そこで初めてフットサルをプレーしました」
赤道にも近いタイは、熱帯モンスーン気候。年間を通じて高温多湿な環境だ。そういった気候から、サッカーよりもインドア競技のフットサルを好んでプレーする人も多い。タイ代表のアジアのなかでの立ち位置を見てもわかる通り、タイではフットサルは非常にポピュラーなスポーツの1つなのだ。
そんな東南アジアの国で、小幡は小学5年生までを過ごすことになる。徐々にフットサルへの関心が深まり、両親に連れられてタイリーグの試合を観に行くようにもなった。
そうなると少しずつ湧き上がってくるのが、母国・日本のフットサルリーグへの興味だ。年に数度の一時帰国の際には、フットサルの試合を観に行くのが恒例となっていった。Fリーグ誕生目前、関東フットサルリーグが空前の盛り上がりを見せていたあの時代。小幡少年の心を奪ったのが、ペスカドーラ町田の前身・カスカヴェウだった。
「タイにも『フットサルマガジン ピヴォ!』が輸入で少しだけ入ってきていたんです。多分、数もそんなに多くなかったはずなので、当時の僕にとっては貴重品でした。新刊が手に入ると、もう夢中で読んでいましたよ(笑)。そんなピヴォに出ていた憧れの選手たちが、すぐ目の前にいて。そのなかでも、カスカヴェウのフットサルが特に魅力的だったんです。普段なかなか観に行けない環境にいた僕からしたら、みんな雑誌の向こう側のスターでした」
その後小幡が小学4年生の時に、Fリーグが開幕。帰国時の恒例行事だった関東リーグ観戦はFリーグ観戦に変わり、小幡が5年生を終えて日本に戻るまで続いた。
また、帰国直前の2008年には、タイで開催されたAFCフットサル選手権を現地観戦する幸運にも恵まれた。しかも準決勝の日本代表対イラン代表の試合では、ハーフタイムショーとしてピッチでリフティングチャレンジも行ったという。当時の記憶はあまりにも鮮明だ。
「前半終了間際に、日本の選手の自陣でのパスが、プレスをかけてきたシャムサイー(当時のイラン代表のエースピヴォ。後のイラン代表監督)の足に当たって入ってしまったんです。それに対して、木暮賢一郎さんや小野大輔さんがブチ切れていて。その迫力といったら、もう本当に凄かったですよ。代表の厳しさみたいなものを肌で感じた瞬間でした」
初めて目にする、フットサル日本代表の公式戦。ヒリつくようなその空気感は、少年の脳裏に深く刻まれたのであった。そんな代表戦士たちのなかでも小幡を夢中にさせたのは、やはりペスカドーラ町田のあのレジェンドだった。
「金山友紀さんのプレーが本当に好きで。カスカヴェウやペスカドーラでのプレーはそれまでにも何度も観ていましたけど、日の丸を背負って戦う姿を見て胸が熱くなりました。“あの人みたいになりたい”と、本気で思いましたね。それもあって、僕のなかで“いつかはペスカドーラで”という気持ちがずっとあったんです」
「このままじゃ終われないだろう」。つなぎとめた指揮官の言葉
2019-2020シーズン終了後、小幡はサテライト時代から長きに渡り在籍していたエスポラーダ北海道を退団した。言うまでもなく、小幡にとっては北海道ももう1つの特別なクラブだったが、第二の母国であるタイへの移籍を目指しての決断だった。
しかし、ここでよもやの事態が起きる。新型コロナウイルスの世界的蔓延により、タイリーグ移籍はおろか、海外への渡航すら難しい状況となってしまったのだ。
「自分のなかでは大きな挑戦になるはずだったんですけど、予想もしないかたちでそれが頓挫してしまって。数カ月間所属クラブがない状態が続いていた時に、相根澄さんに声をかけてもらって、東京ヴェルディフットサルクラブ(当時東京都エントリーリーグ)に加入しました。その後、当時ヴェルディのコーチを務めていた前田喜史さんから『町田アスピランチでプレーしてみるのはどうか』と提案していただいて。甲斐(修侍)さんとつないでくれて、アスピランチに加入しました」
それから4シーズン、中心選手として活躍してきた。既述の通り、プレーの幅は着実に広がり、キャプテンとして若いチームを引っ張る立場となった。しかし、現時点でまだ、トップチーム昇格は果たせていない。
23歳だった加入時とは、様々な状況も変化してくる。Fリーグ選抜時代の同期のなかには、F1上位クラブで中心選手として活躍している者もいる。彼らの活躍は刺激となる一方で、焦りとなって押し寄せてくることもあるだろう。
「これまでに、フットサルを辞めようと思ったことはありましたか?」
話の流れのなかで、失礼を承知の上でそう質問した。
「もちろん!何度もありましたよ(笑)!」
意外なくらい屈託のない笑顔で答えた小幡。「でも……」と続ける。
「このチームでも試合に出られないとか、実力が無いなと感じたらもう辞めていたと思います。ただ、以前Fリーグに出ていた時と比べても今の方が成長できている実感があるから、“まだやろう”と思えているのかなと。『ここが天井だな』とか『これ以上はうまくなれないな』と感じたら、その時は辞めてしまうかもしれません。ペスカドーラを離れる時が、フットサルを辞める時かなと考えています」
実際、前回の全日本で敗退した際には、競技引退も頭をよぎったという。
「このチームでこれ以上必要としてもらえるかもわからなかったので、正直もう厳しいかなと思っていました。でも、小川(亮)監督と話した時に『このままじゃ終われないだろう』『まだ必ずチャンスは来るぞ』と言っていただいて。もう一度気持ちを入れ直して、続けてみようと決めたんです」
引き止めた側の小川監督は、当時の会話を次のように述懐する。
「彼の表情を見ていると、まだ燃え尽きた感じではなかったんですよね。彼自身のなかでやりきった上で辞めるというのであれば、その時は『よく頑張ったな。お疲れ様』と言えると思います。でも、小幡の場合はまだ違うなと感じました。
実際、彼はここへ来てから物凄く成長していると思います。入ってきた当初は『個人としてどうトップに上がるか』という気持ちが強かった。それが今では、『チームで結果を出すことで評価される』『チームが勝つためにどう貢献するか』と考えられる選手になりました。そこはすごく成長しています。今のチームのなかでも替えが利かない選手であり、経験値も含めて、いる・いないで大きな違いが出ます。凄いシュートをバンバン決めるタイプではありませんが、チームが強くなるためには、彼のような選手の存在は必要不可欠です」
「あとは……」と小川監督が続ける。
「今日、彼は一度決定機がありましたよね。チーム全体をオーガナイズする今のプレーに加えて、ああいうところを決められるようになると、選手としてもう一段上の存在になれるのではないかと思います」
準々決勝・北九州戦の第1ピリオド、相手ゴレイロの鈴木雄大が飛び出した流れのなかで、小幡が左サイドから無人のゴールへシュートを放った場面があった。決まったかに見えたが、惜しくもサイドネット。好機を逸した恰好となった。
角度的には左45°よりも外側。加えて、相手DFのプレスを受けながら打つかたちとなったため難しいシュートではあったが、決めたい場面だった。
「自分でも、あそこだなと思います。あの場面で決められれば、準決勝に進めるチャンスもあっとはずなので。簡単ではないかもしれないですけど、あれを決められる選手が上に行ける。だから、まだ足りないですね。もっともっと成長して、必ず上で活躍できる選手になりたいと思います」
小幡貴一の目標は、再びF1でプレーすることではない。ペスカドーラ町田の選手としてF1のピッチに立ち、そしてその舞台で活躍することだ。
幼少期に異国の地で抱いた、カスカヴェウへの憧れ。その想いを原動力に、人生を懸けた挑戦は続く。
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