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2016年の“あの時”…今明かされる渡邉知晃が現役引退を翻意した理由とは──

PHOTO BY軍記ひろし/高橋学/渡邉知晃提供

Fリーグ優勝、アジア王者、得点王──。チームだけでなく個人でも数々のタイトルを獲得してきた稀代のストライカー・渡邉知晃。しかしそのキャリアは決して順風満帆ではなく、タイトル数よりたくさんの挫折があった。

そして、引退の2文字はすぐそばにあり、何度も頭をよぎりながら、34歳までプレーを続けた。

2020-21シーズンを最後に15年間の競技人生から退いた渡邉に、引退の理由や現役時代の思い出、さらには今後のビジョンについて語ってもらった。



ゴールは一番こだわった部分。200ゴールを達成したかった

──本来なら今はシーズンに向けて準備している時期です。改めて引退を実感しているのでは?

寂しいということはないですけど、感覚的に変な感じですね。Fリーグで12年、その前にはフウガでプレーしていたので、およそ人生の半分となる15年間を選手として戦ってきました。SNSを見るとプレシーズンを過ごしている選手の様子が上がってきて、そこに自分がいないというのは不思議な感覚です。

──立川・府中では同じ86年組の上福元俊哉が同時に引退しましたが、アスリートとして35歳は1つの節目?

30歳を超えてからはどのタイミングで引退するかを少しずつ考えていました。35歳になる年は区切りだと思っていて、35歳までやり切ってからやめるか、その歳を迎える前にやめるか、意識した部分は多少あります。でもカミとタイミングが被ったのはたまたまです。

──過去には「300試合を達成した2018-19シーズン限りで引退」とも話していました。

298や299では終わりたくないじゃないですか。キャリアを考えて300試合は達成したいと思っていて、2018-19シーズンの終盤に達成できました。そこでいい区切りなのかな、と。

──でも、続けました。

今度は得点を見たら、192でした。ゴールは一番こだわっていた部分です。もちろん、次のシーズンの22試合で8ゴールを取れる保証はないですが、やはり、200ゴールは達成したかった。それが、2019−20シーズンを終えた時の気持ちでした。

──では、昨季200ゴールを達成できていなかったら今季も続けていた?

たぶん続けていたと思います(笑)。逆に、2019-20シーズンが0点だったら、それが実力だと思ってやめていた。でも0じゃないとすれば、目標に向けて積み重ねているわけですからね。より近づいた状態でやめることになる。だから、悔しくてやめれないでしょう。200という数字と、192は全然違いますからね。



──そういう目標をしっかりと達成するところに、渡邉知晃の強さがあると思います。実際に2017-18シーズンは、食事制限などストイックに追い込んで、45ゴールで得点王になりました。

それまでは得点ランキングの10位以内に入ったことはありましたが、得点王を狙えるような位置にいたことはありません。得点王というものを現実的に考えられていなかったなかで、あのシーズンはいろんな巡り合わせがあり、栄養士の方に夕食の面倒を見てもらう試みをはじめたときでした。実際に「今年はいけるかも」と思ったのは、開幕して数試合後。試合を重ねて、ゴールが取れ始めて、得点ランキングでトップになったあたりで、自分の感覚、食事制限による体のキレ、調子の良さを感じられるようになり、得点王を意識し始めました。

──シーズン中盤ごろに取材した時に「やれる自信がある」と。まさに有言実行。

あれほど点が取れましたが、最後まで安心感はなかったですね。ルイジーニョ選手(名古屋)、ロドリゴ選手(湘南)など点を取れる外国籍選手が多く、ヴィニシウス選手(町田)もいたので気が抜けなかったですね。なので、試合で1点取ればよしではなく、取れるチャンスは全部取りたいという気持ちで積み重ねていったのが、あの数字につながったと思います。そしてこれはあまり記録として取り上げられていないですが、実は11試合連続ゴールもリーグの最多記録です。最後は執念で、全チームからゴールを決めました。名古屋から点を取るのは簡単ではないですし、この記録が出たのは本当に執念でしたね。

──個人では323試合で201ゴールを記録しました。タイトルについては名古屋時代にアジア王者にも輝き、もう取り残したものはないのでは?

タイトルについてはないですね。強いていうなら、名古屋以外のチームでFリーグ優勝できたらと思っていました。Fリーグの歴史の中で、シュライカー大阪しかリーグタイトルを取れていません。僕は名古屋で優勝したので、それ以外のチームでも優勝できたら良かったなという思いはありますね。アスレに加入した年はオーシャンカップで優勝できたので、それはいい思い出です。



2016年は3本の指に入るほどの後悔

──代表でも結果を残し60試合で20得点。2014年にはアジア王者になったメンバーの一員でした。当時は28歳で油の乗った時期だったと思いますが、あの大会を振り返っていかがですか。

代表でアジア王者になれたことは、とても嬉しかったですね。何度もイラン代表と試合をしていて、彼らの強さは知っていました。結果的にPKですけど、それほど強いイランを倒して優勝できたことは感慨深かったですね。本当に、あの時はチームで達成した感覚がすごく強かったです。

──あの大会は代替わりをして迎えた最初の大会でしたね。

2012年のW杯の後、最初のアジア選手権で世代交代をして臨みました。僕も2012年のメンバーには入っていなかったですが、2014年では代表入りをしました。だからこそ大会中に結果を残すことが、自信になると思っていましたね。いろんなアクシデントもあって、決勝では森岡薫選手がケガでほとんど出られず、それでもチーム一丸となって勝った優勝だったのですごく印象に残っています。そういえば一つ裏話があるんですよ。

──お?ぜひ教えてください(笑)。

ベトナムで開催された大会で、実は結構な選手がある日同時にお腹を壊しました。おそらく水か食べ物に当たったんだと思います。ドクターから薬をもらい改善されたのですが、僕は食中毒になっていたのかなと。みんなは治っているのに、僕だけ治らない。準々決勝でタイ代表に接戦で勝った試合があって、その前日は一睡もできなかったです。これはやばいなと。勝ち上がっても体調は治らず、さらに決勝では森岡選手のヒザのケガが悪化して出られない。本当にしんどかったですね。日本に帰ってきても1週間くらい治らなかったです。

──そんな状態でプレーされていたんですね…。でも決勝ではゴールを決めています。

公式はオウンゴールですけど、延長で僕が打ったシュートを相手が触って入りました。試合はアドレナリンが出るので大丈夫ですけど、試合前は本当にやばかった。海外の洗礼を受けましたね。

──2016年も1つの思い出の年だったと思います。2014年の天国からいきなり地獄に落ちたような感覚だったと思いますが、当時の中心だった選手としては?

本当に天国から地獄という言葉がしっくりくるものでしたね。2014年に優勝した自信もありましたし、チームの完成度が上がっている感覚もありました。そんななかで敗退してしまって、改めてフットサルの難しさを感じました。

──過信みたいなものがあった?

それは全くありませんでした。でも勝ち切ることへの自信はあった。W杯の出場権だけではなく、アジアで優勝してW杯に行きたい気持ちでした。ただ、近年のアジアはレベルアップしています。当時のベトナム代表はブルーノ監督で、彼らの諦めない姿勢とか必死にしがみついてくる姿勢がありました。僕たちはそういう相手を蹴落としきれずにPK戦までもつれてしまった。勝負の世界の難しさをあの時に感じました。W杯を逃してしまったことが、3本の指に入る後悔ですよね。

──W杯にいけないことが決まった瞬間、率直に何を思いましたか?

たぶんこれは何人かの選手もそうだったと思いますけど、正直に引退しようと思いました。あの時に、本当に燃え尽きたというか。30歳という年齢もあり区切りをつけようかなと、初めて強く思いました。あの年は中国でプレーしていて、もぬけの殻の状態で中国に戻って、惰性のようにリーグ戦をこなしました。帰国するタイミングでは、もう日本はプレシーズンが始まっていて、それでやめようかなと思っていましたね。

──それでもやめなかった理由は?

中国には完全移籍で行ったのですが、アスレの中村恭平さんや谷本俊介監督には「終わったら戻ってこいよ」と言っていただいていました。実際に帰国したシーズンのアスレは19名の選手を登録していて、最後の1枠は僕が戻ってきた時のために空けておいてくれました。谷本さんには帰国を伝えていて「少しのオフを挟んだら練習にきなよ」と言ってもらいました。実際に参加したのですが「参加した以上はやるよね。登録もするよ」と。そこで「いいです、やめます」というほどの決意をしていたわけではないので、「やります」という感じでシーズンが始まりました。

──流れに任せて始まった2016-17シーズンだった。

そうですね。ただ「何を目標にやるんだ」という葛藤がありました。性格的にも長くダラダラ続けるタイプじゃないので、2014年のアジア選手権から2016年のW杯を集大成に捉えていて、その先のことを考えていなかったです。でも当時は90ゴールで、100ゴールが迫っていました。2016-17シーズンは33試合だったので、100ゴールを決めてその区切りで引退しようと決めました。これは誰にも言ってないですけど、あの時はその気持ちでがんばりました。



──でも、ここでもやめていません(笑)。

これも今だから明かせますけど、シーズン終了後に向けて就活ではないですけど、次の仕事の準備をしていました。100ゴールはシーズンの中盤頃には達成していて、それで次のステップに向けて僕なりに準備をしていました。すると、そのタイミングで代表復帰の連絡が来ました。当時はブルーノ監督になって、若手にシフトチェンジしているなかでの招集。「えっ?」って思い、アスレのスタッフからきた連絡に「送る相手間違ってない?」って聞いたほどです。しかし「いや間違っていません、アキラさんとトモアキさんが招集されています」と。

──2016年のアジア選手権からかなり久しぶりの招集だった。

そのタイミングでブルーノ・ジャパンに初招集されたのが、僕と森岡薫選手と滝田学選手でした。ベテラン3人だったので、とりあえず手元において見たいのかなって。そしたら次も呼ばれ、その次も呼ばれとなってきて、これはコンスタントに招集される可能性があるなと。まさか引退することを考えていたとは言えないし、代表に呼ばれる可能性があるのにやめるのは違うと思っていました。代表は誰でもいけるわけじゃない特別な場所ですから。そこで、続けることに切り替えました。これは誰にも話していません。

──その後も、2017年、2018年にもコンスタントに招集されていましたが、そこでもう一度、W杯へという気持ちも出てきましたか?

そこまでは見ていなくて、まずは2018年のアジア選手権に入るのかどうか。その後で継続できるのか。代表チームは、アジア選手権とW杯の2年周期で変わり目があります。2018年のアジア選手権は32歳で、その後のことはどうなるかもわからない。結果的に、2018年の準優勝した大会は出場機会をそれほど得られなかったので、さらに2年後のW杯というのは意識がなかったですね。

──まさに2019年から遠ざかりました。他にも1986年生まれの選手たちが代表から遠ざかるなか、同級生の皆本晃選手だけは今でもコンスタントに招集されていますね。

彼とは長いこと一緒にやっていました。2016年のアジア選手権は、前十字靭帯損傷していて代表に入れていません。自分の手でW杯を逃したのではなく、仲間に託して出場権を得られなかった。今回はイレギュラーなコロナ禍で出場権を獲得できましたから、唯一、同年代のアスレで残ってるメンバーとしてやり切ってほしいですね。彼自信も大きな目標だったと思いますし、今の立ち位置やこれまでの経験からすると間違いなくメンバーに入るでしょう。ただ、ケガだけが心配。そこさえちゃんと乗り越えることができればメンバーに入れると思うので、僕らを代表して頑張ってほしいですね。

──かつての戦友が、今の代表で軸となっています。

アキラだけじゃなくて、星翔太選手、西谷良介選手、吉川智貴選手などみんな近い世代。特徴も性格も知っている仲間で、純粋に応援したいですね。この年齢で残っているのは実力だけでなく、リーダーシップの面も必要。言われなくても引っ張っていける選手だし、W杯はみんなの目標だと思うので、楽しんでプレーしてほしいですね。

──俺の思いも背負ってくれとかは?

それはないですね(笑)。ただ、僕ら近しい世代は、口に出さなくてもそういう気持ちがあると思います。2016年を逃した後、中心選手の8人とご飯に行きました。そこで鼓舞し合った仲間なので、きっと頑張ってくれると思います。

──代表入り当落線上にいる選手へのメッセージは?

僕が日本代表デビューしたのは、ミゲル監督が就任して最初の国際親善試合のアルゼンチン戦でした。Fリーグ入りしてすぐの頃で、最初は代表メンバーに入っていませんでしたが試合の2日前とかに、高橋健介選手がケガをして、急にメンバー入りしました。1試合目はベンチでしたが、2試合目でデビューしました。人のケガを望んではいけないですけど、ケガとか体調不良とか何が起こるかわからない。瀬戸際の選手は常に準備をしておくことだと思います。自分が代表のメンバーに入る意識を持っていたら、必ずチャンスが来る。そこのチャンスを生かすか殺すかは自分次第。そのチャンスがいつきてもいいように準備が必要ですね。

──最後に、これから代表に入ってくるであろう若手選手には?

思い切って自分を出すことが大事だと思います。生かしてくれるベテラン選手がたくさんいるので、自分を出すことに集中するのがメンバーに入ることにつながります。遠慮をしないで自分の良さを最大限、出し切ってほしいですね。僕も23歳で初めて代表に入りましたが、当時は木暮賢一郎さん、小宮山友祐さん、北原亘さん、村上哲哉さんなど見本になる選手がたくさんいました。ベテラン選手から技術だけでなく、メンタルも、振る舞いも積極的に盗むことが大事で、それが糧になります。

──23歳で代表に定着できていなかったら人生変わっていた?

絶対に変わっていましたね。もっと早くやめていただろうし、オーシャンズにも入っていないだろうし。それがあったから、中国とかインドネシアの海外移籍もできたと思うので、代表が自分のキャリアにつながりました。



引退後は渡邉知晃だからこそできるライター、解説者、指導者へ

──目標に向かって突き進む強さを見せた現役時代でしたが、引退後はどのようなビジョンを持っていますか?

まだ模索段階というのが正直なところです。この1年は、仕事をしながらも休養期間だと考えています。仕事は、フットサルスクールで子どもたちへの指導をメインにしています。せっかくここまでキャリアを積んできたので、フットサル界に貢献することを考えていて、少しでも力になれたらと。それ以外にも貢献したいと思っていることがあり、少しずつ動いていますね。

──例えばどのようなことに取り組んでいますか?

初公開ですけど…。近々、書籍を出します。僕の中ではこれも一つの貢献と思っていて、得点を取ることが特徴の選手だったので、ゴールを決めたい子どもたちやサッカー、フットサルをプレーしている選手に伝えたいと思っています。やはりゴールを決めて嬉しくない人はいないと思うので。でも決めることは簡単じゃないし、日本はずっと得点力不足が課題と言われ続けています。実際に得点ランキングでも、外国籍選手が上位にいる。そこの差を少しでも埋めて、得点を取れる選手を一人でも多く輩出したいという思いで、僕のなかでゴールの取り方に特化した本を出版予定です。

──教本のような技術系の本ですか?

違いますね。いい蹴り方、正しいフォームに関する本はたくさんあると思うので、僕はマインドの部分。ゴールを取るにあたり、僕が考えることを文章で伝えています。ちょっとした意識の変化、考え方、ポジショニングのこととか、そういうことを変えるだけで得点力は上がると思っています。そういう本を7月に出版するつもりです。

──渡邉さんはオンライサロンを開設したり、文章を書くことも好きですよね。

そうですね。もともと文章を書くことは好きだし、得意だと思っていて、ライターもやりたいと思っています。ジャンルは違いますけど、大学院では論文を書いたりもしていたので。

──メディア界に進出?

それは粛々とキタケン(北健一郎)さんに相談しています(笑)。僕は選手としてプロを経験していたので、ピッチに立ったからこそ感じていたこと、見えていることがあります。外から試合を観戦するメディアの人とは異なる視点で、フットサルの魅力を発信できたら面白いだろうなと思いますね。

──ライターだけでなく、今年はAbemaで解説をされるとも聞いています。

解説陣の先輩方は、仲良くさせてもらっている人なのでアドバイスをもらって。でも、自分の色は出したいですね。特にゴールの部分は詳しく解説したいと思っています。あと、試合に出ていた頃の姿から「あいつ絶対しゃべららないな」と思われているので「結構しゃべるじゃん」って違った一面を見せたいです(笑)。ファン・サポーターの方にも「話しかけにくい」、「怖そう」とよく言われるので(笑)。

──渡邉知晃の新たな一面が見られそうですね(笑)。フットサル界への貢献で言うと、大学院にいかれた際にも大学フットサルの普及に携わりたいとおっしゃっていました。

大学院はこの3月に無事に修了して、修士号を取得できました。大学フットサル界も僕のなかでは考えていて、この年代を指導することでそのまま主力としてFリーグに送り出せると思っています。サッカーでもFC東京などは、積極的に大学生を獲得していますし、フットサルにもその流れがくるだろうなと。すでに、先輩の佐藤亮さんとかもやっていますけど、チャンスがあれば大学フットサルを指導して、Fリーグにいい選手を輩出したいなという気持ちがあります。

──いろんな可能性を模索して、突き進んでいく。

そうですね。今はタネを蒔いている段階。いろんなことを模索して、これからも頑張っていきます。



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