更新日時:2025.10.23
【連載】その1 きっかけとなったブラジル遠征/その2 いよいよ統合関東リーグ開幕/その3 「見る」を加速させたワールドカップに向けて|第2部 栄華期|フットサル三国志
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【連載】フットサル三国志|まとめページ 著者・木暮知彦
第2部 栄華期
第6章 「見る」スポーツへの胎動(2003年1月~2004年2月)
その1 きっかけとなったブラジル遠征
その2 いよいよ統合関東リーグ開幕
その3 「見る」を加速させたワールドカップに向けて
その1 きっかけとなったブラジル遠征
2003年1月15日、日本代表はついにブラジル遠征を敢行する。まさかこのブラジル遠征がのちのFリーグ設立につながるとは誰も思わなかったが……。
試合は、サンパウロ州サンベルナルド市の記念イベントとして組まれたもので、招待試合であった。サンベルナルド市はサンパウロ市の近郊に位置し、毎年この頃になると、市民のために大きなイベントを開催するという。なぜ、そのイベントに日本代表戦が組まれたのかは不明であるが、ありがたいことであった。
メンバーは、関東からはカスカヴェウの相根澄、前田喜史、金山友紀、ファイルフォックスの難波田治、木暮賢一郎、プレデターの市原誉昭、ゾットのゴールキーパー渡辺博之(のちにバルドラール浦安、ゾット早稲田)が選ばれた。関西からはマグの藤井健太、旭屋の松田和也、山蔦一弘、東海からは田原FCの和泉秀実(のちに同チーム監督、アグレミーナ浜松GM)、ゴールキーパー川原永光が選ばれた。監督は引き続き原田であった。
ブラジルはフル代表で、トビアス、ファルカン、ベットン、レイトンなどそうそうたるメンバーだった。日本人が多く住むサンパウロの土地柄、フル代表のせいもあってか、約7000人の観衆が集まり、大歓声の中で試合が行われた。日本代表のほとんどのメンバーは、プロ契約、武者修行、ツアーなどでブラジル経験があったから、日本代表としてブラジルに渡り、このような雰囲気の中で試合ができたことは感慨もひとしおだったに違いない。
また、ブラジル代表と試合ができること自体、滅多にないことである。ちなみに、この時点で過去のブラジル代表戦の成績は、1985年にスペインで行われた第2回サロンフットボール世界大会で1-15、1988年のオーストラリアでの第3回世界大会で1-29、1996年のベルギーでのフラワートーナメントで1-13である。
今回も結果は1-8の大敗であったが、日本の選手たちは、語弊があるかも知れないが試合を楽しんでいるように思えた。それは、負けていてもフットサルのボール回しの楽しさ、相手を欺いて点を取る楽しさを、ブラジル代表と共有している喜びのようなものがあったからであろうか。実際、ブラジルの得点シーンは、サイド攻撃、スルーパス、ピヴォからの展開、強烈なトゥーキックシュートなどフットサルのゴールはこうするものというエッセンスが詰まっていた。ちなみに、日本代表の1得点は相根が決めた。
試合結果もさることながら、この遠征がのちに大きな変化をもたらすことになった。それは、この遠征に、のちに日本サッカー協会会長となった大仁邦彌が帯同していたからである。大仁は、本場ブラジルで行われた日本代表との試合に約7000人の大観衆が集まり、体育館を揺るがすほどの熱狂に驚いた。帰国するとさっそく当時の川渕三郎チェアマンに状況を報告、日本代表の強化を訴えるのであった。それからしばらくして、川渕チェアマンはジーコに相談し、彼の推薦でセルジオ・サッポの招聘が決まった。サッポは最初はコーチとして就任し、監督になるのは翌年の第6回アジア選手権からであった。サッポは、フットサルブラジル代表、世界選手権優勝経験の持ち主である。
大仁は、その後も日本代表戦に団長として帯同するとともに、フットサルの育成に力を注ぎ、Fリーグ設立に至るのであった。
さて、お宝写真は、この記念すべきブラジル代表戦の両チームの表彰式での集合写真にしよう。そうそうたるブラジル代表に混じって中央、ファイルカンの左から、難波田、前田、金山、市原、木暮、相根、藤井と続く。中央右のトビアスの下にはゴールキーパー川原が写っている。そして、相根、藤井の下には大仁の姿もある。
その2 いよいよ統合関東リーグ開幕
2003年3月16日、第5回関東リーグに向けて、都県リーグ上位チームによる参入戦が行われた。自動降格は最下位のブラックショーツ(神奈川)と11位のメイクナイン(千葉)で、その2チームに替わって参入戦リーグの1位、2位が関東リーグに昇格できる。
参入の本命はなんといっても、スーパーリーグ優勝のシャークス(東京)であった。案の定、シャークスが優勝、2位には千葉県1位のセニョールイーグルスが入り、この2チームが関東リーグに昇格した。
もう一つ、ここで忘れてはならない大会がある。それは、フットサル専門雑誌ピヴォ!が主催する「第2回ピヴォ!チャンピオンズカップ」で、のちに大化けする関東のチーム「森のくまさん」が優勝を遂げたのだ。森のくまさんは暁星高校サッカー部OBを中心に結成されたチームで、特に公式リーグに所属しているわけではなくもっぱら民間大会に出場し、優勝をさらっていた。メンバーには、稲葉洸太郎(のちにファイルフォックス、バルドラール浦安、フウガドールすみだ、Y.S.C.C.横浜、同チーム監督)、北原亘(のちにボツワナ、名古屋オーシャンズ)、須賀雄大(のちにフウガドールすみだ監督、日本女子代表監督)らがいた。すでに紹介したボツワナと森のくまさんが合体してフウガとなるわけであるが、この頃から、民間大会でよく顔を合わせていて、メンバーを共有して大会に出ることも多くあったという。しかし、それにはもう一つのドラマを待たなければならなかった。
ところで、奇しくもこの大会の決勝戦はその後、何度となく戦うことになる因縁のファイルフォックス対フウガ前身の森のくまさんとなった。この大会で活躍し、MVPの副賞であるブラジル航空券を獲得したのは稲葉であった。稲葉はのちに木暮の誘いでファイルフォックスに加入している。しかも、第1回ピヴォ!チャンピオンズカップのMVPは当時ウイニングドッグの木暮であり、木暮はその切符を利用してブラジル・バネスパにサッカー留学をした。今度は、稲葉が北原と一緒にブラジル・カスカヴェウにフットサル留学をしている。
そして、2003年5月17日、記念すべき第5回関東リーグが開催された。〝記念すべき〟とは、スーパーリーグと統合したリーグとなったことと、その結果、リーグ運営スタッフも統合され、スーパーリーグで培われた観客を集めるコンセプトで運営が開始されたことである。
実際、この年からホームページも一新され、結果速報が始まり、顧客の便宜を図る試みがなされた。関東リーグはJリーグやFリーグとは異なり、ホーム&アウェイ方式ではない。試合会場は関東地域を転々とする。したがって、どこの会場に行ってもそれまでの試合結果情報をネットで知らせることで興味をもって足を運んでもらえるようにしたものである。また、観客数を数える試みも行った。これは運営スタッフのみならず選手にも顧客意識をもってもらおうとしたものである。アマチュアとは言え、見られてこそ技術の質も上がり、より真剣にプレーできるというものである。
サポーターの応援も活発となった。大きな横断幕は会場を華やかにし、シャークス、ガロの応援に続いて府中アスレティックFCがこの頃から馬の横断幕を張るようになった。
何よりも画期的だったのは、開幕節および不定期だったものの、試合をピックアップして、CS放送のスカイA(プロ野球・阪神タイガースの全試合放送で有名)でテレビ放送が決まったことである。フットサルはまだメジャーでもなく、地域のリーグであり、スポンサーもつかないにもかかわらず無料のテレビ放送が流れたのである。加入者獲得のためとは言え、スカイAの先進的な取り組みには敬意を表したい。
試合結果は、開幕節こそ前年上位チームが下位チームを下す順当な滑り出しであった。前年1位のカスカヴェウは新規参入のセニョールイーグルスを5-4、2位のフトゥーロはシャークスを3-2で下した。3位のロンドリーナは4-4で小金井ジュールと引き分けたものの、4位だったファイルフォックスは府中アスレティックFCを3-1で下した(なお、ファイルフォックスの監督は昨シーズンまでフトゥーロの監督だった松村栄寿を招聘した)。
しかし、その後、様相は一変、波乱の展開となるのだった。まず、2節、3節で、カスカヴェウがシャークス、小金井ジュールに2-8、1-4と連敗する。一方のファイルフォックスは2節は試合がなかったものの、同じく3節、4節で、ガロ、プレデターに2-5、2-3と連敗したのであった。
これには理由があった。ちょうど、2節、3節とマレーシアで行われた国際大会と日程が重なり、ファイルフォックスの難波田、木暮、カスカヴェウの前田、金山が抜けていたからである。むろん、そればかりではなく、実力が拮抗しはじめたこともあるが、少なからず影響があった。その後、リーグは日本代表活動との両立に悩まされることとなる。結局、両者ともこの2敗が大きく響き、この年は優勝を逃すのであった。
さて、お宝写真は、のちに大化けするフウガの前身「BOTSのくまさん」の写真にしよう。名前は、まさにボツワナと森のくまさんを組み合わせたもので、時期は翌年のものになるが、2004年末のF-NET主催の第4回御殿下スーパーカップで優勝した時の写真である。
太見寿人、金川武司、関健太朗、稲葉、北原らが映っている。御殿下スーパーカップといえば、懐かしく思うオールドファンも数多くいると思うが、フットサルの強豪チームがその年の締めくくりとばかりに集結する年末の大会として知られている。目玉は当時の日本代表メンバーの主力がオフということもあって、臨時の混成チームを結成していることである。チーム名は「バウスポーツ」と言い、年によって若干メンバーは変わるものの、難波田、木暮、小宮山友祐、森岡薫、岩田雅人、金山、前田、市原、稲田祐介、三輪修也、小野大輔、狩野新、遠藤晃夫、伊藤淳、福永秦(元浦和レッズ、パラレッズ監督)などが参加していた。ちなみに、御殿下スーパーカップは2001年に始まり、バウスポーツが3年連続優勝、2代目の優勝チームがBOTSのくまさんだった。
その3 「見る」を加速させたワールドカップに向けて
この頃より、来年行われる世界選手権(のちのワールドカップ)に向けて、日本代表は海外遠征を頻繁に行うようになった。2003年4月以降、4月のオーストラリア遠征、マレーシア・クアラルンプールで行われたKL WORLD5、7月にイラン・テヘランで行われた第5回アジア選手権、10月のエジプト・カイロで行われたピラミッドカップ、11月のタイ・バンコクで行われたタイランド5、翌年3月のオーストラリア遠征など、第6回アジア選手権(ワールドカップ予選)まで計6回の遠征が行われたのである。
2003年6月3日、KL WORLD5の国際大会は、マレーシアがスポーツ振興のために開催したもので、世界12カ国の強豪が集まる大会であった。ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイなどの南米勢、イラン、ウズベキスタン、タイなどのアジア勢、そして南アフリカ、イングランドなどが参加している。
結果は、予選リーグでアルゼンチンに1-5で敗れて2位となり、2位トーナメントにまわることになった。しかし、ウズベキスタン、タイを3-2、4-3で破り、2位トーナメントながら優勝を果たした。日本にとっては国際試合では初めての優勝カップであり、日本で開催予定のアジア選手権に向けて大きな弾みとなった。
しかし、その第5回アジア選手権はSARS(重症急性呼吸器症候群)の影響を受けて日本は返上を決意、残念ながら関係者にとって悲願の日本開催はならなかった。日本開催は結局、4年後の2007年、第9回大会まで待つことになる。なお、サッポは大会には帯同したものの、監督は原田理人であり、まだベンチ入りはしていなかった。
2003年7月、日本が返上した大会はイランが引き取って開催されることになった。イランでの開催が予定外であったこと、同じ地の開催はわずか1年の間をおいてのことであったことから、そこにはドラマがあった。
今回メンバーに選ばれた関東の市原、難波田、前田、関西の藤井は、第3回のイラン大会は、元Jリーガー重視の選考基準の影響もあって選ばれていなかったからである。
したがって、再び選ばれた彼らの大会にかける意気込みは相当なものがあった。また、この大会では最低でも2位になることが至上命題であった。なぜなら、翌年のアジア選手権はワールドカップ出場権の予選を兼ねた舞台であり、そのためにはシード権を得てイランとは別のブロック、別のトーナメントの山に入る必要があったからである。
結果は、前回と同じく2位、少なくとも安定的に2位を確保できる力をつけてきたと言える。とりわけ、負けたとは言え、イランに4-6、一時は4-5と1点差まで追い上げた戦いぶりは、彼らの奮闘によるところが大きい。それにしても、会場に大挙して押し寄せた1万4千人のイラン人に囲まれての戦いだったというから、想像を絶するプレッシャーだったに違いない。なお、この大会ではサッポが始めてベンチ入りをした。
■第5回アジア選手権 試合結果 7月28日 ◯日本 4-0 パレスチナ 藤井、鈴村、木暮、市原
7月30日 ◯日本 14-1 マカオ 得点者不明
7月31日 ◯日本 5-0 クウェート 鈴村、相根、金山3
8月3日 ◯日本 7-0 台湾 市原、藤井3、渡辺、相根、木暮
8月4日 ◯日本 3-2 タイ ※延長Vゴール 木暮、前田2
8月5日 ⚫︎日本 4-6 イラン 難波田、鈴村、前田、市原
代表活動が一段落して選手がチームに戻ると、関東リーグはより一層活発化し、好ゲームが展開されるようになった。8月30日、駒沢屋内球技場で行われた第6節、ちょうど中盤にさしかかる頃、1位がプレデター、勝ち点3差で2位シャークス、3位柏RAYO、4位ファイルフォックス、5位カスカヴェウと4チームが同じ勝ち点で並ぶ混戦となっていた。
観客動員数もこの時はのべで約2600人、1試合平均約500人が入るようになってきた。同じ駒沢屋内球技場の3節はのべ1500人であったから1・7倍に増えた計算になる。のちに1試合1000人以上入る試合も見られるようになるが、着実に「見る」スポーツとして胎動を始めたと言える。
お宝写真は、珍しいピラミッドカップの試合の模様にしよう。写真を見てもわかるとおり、背景はピラミッドである。ピラミッドが見える砂漠の上に防砂グラスを張り巡らした特設コートを作って行われた。この大会は、2003年10月4日からエジプトのカイロで行われた国際大会で、2002年にも行われたらしい。
今回は日本も招待され、ブラジル、ベルギー、アルゼンチン、ウクライナ、エジプトの6カ国が参加した。メンバーは、ゴールキーパー川原永光、岩坂浩行(FUTSAL OITA 2002エスペランサ)、フィールドプレーヤーが渡辺淳一、保坂信之(ともにMidfield Futsal Club)、鈴村拓也(マグ)、相根、藤井、前田、木暮、大地悟、関新、江藤正博(カンカンボーイズ)である。日本は、予選リーグでエジプト、アルゼンチンに敗退、5-6位トーナメントでベルギーに勝利を収めて5位になっている。
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2025.04.11