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作成日時:2023.02.18
更新日時:2023.02.18

【引退直前インタビュー】西谷良介はなぜ「フットサルの教科書」と呼ばれ愛されたのか?盟友・渡邉知晃に明かした、現役ラストメッセージ

PHOTO BY本田好伸、FIFA/Getty Images

「フットサル選手の教科書」と言われ、たくさんのフットサルプレーヤーがお手本にしてきた男が、ユニフォームを脱ぐ決断をした。レギュラーシーズンも佳境を迎えた1月16日、クラブのHPを通して今シーズン限りの現役引退を表明すると、SNSなどでもその発表を惜しむコメントであふれた。本当に多くの人に愛された選手である。

大学時代は日本学生選抜に選ばれるなど“サッカーエリート”街道を駆け上がってきたなか、飛び込んだのがフットサルの世界。デウソン神戸でキャリアを再スタートすると、「フットサル選手」として完成していく過程で、少しの時間を要した。

チームメートや監督に恵まれ、徐々に才能を開花させていく。

2021年9月、ワールドカップのブラジル戦で決めた左足のゴールは、多くの人々の記憶に残っている。このゴールが、ブルーノ・ガルシア監督が率いたブルーノ・ジャパン最後のゴールであり、西谷にとっても日本代表における最後のゴールとなった。

実は、2016年にブルーノ・ジャパンが発足してから、公式戦で最初のゴールを決めたのも西谷だった。ハンガリー代表との国際親善試合で、西谷は試合終盤、左足で同点ゴールを決めた。余談だが、アシストしたのは筆者である。

利き足ではない”左足”から生まれた2つのゴールは「フットサル選手・西谷良介」を象徴するようなゴールだ。ブルーノ・ジャパンは、西谷で始まり、西谷で終わった。

「自分の中では、なにか物語があるのかなと感じている」

西谷は、多くのフットサルプレーヤーに目標とされてきた。そんな稀有な選手は、なにを大切にしてきたのか。なぜ引退を決断したのか。ゆっくりと語り出した。

※インタビューは1月20日に実施

インタビュー・編集=渡邉知晃

西谷良介のFリーグラストマッチを見逃すな!ABEMAでプレーオフ決勝生中継!

 

どう?俺まだやれてる?

──いきなりだけど、引退を決断した理由は?

自分の中で目標にしていたW杯の舞台を経験できたことが一つ。それが大きなウエイトを占めていて、あとはやりきった感覚を得られているので決意したという感じかな。

──年齢を考えた時に、W杯が終わったタイミングもやめる時期の一つではあったと思うんだけど、現役を続行した。そこから1シーズン続けた理由は?

自分の中に、W杯熱じゃないけど、燃えているもの、欲というのが当時はあったと思う。直後はね。引退するという決意をそこまで持っていなかったし、その選択肢は全くなかった。

──引退するというのは、どのタイミングで決めたの?

今シーズンに入る前には決意していたかな。

──W杯を終えて、新シーズンを迎える時には今シーズンがラストのつもりだった。

そうそう。欲を言えば、Fリーグを噛み締めて終わる1年にしたかったのと、もし昨シーズンでクビを切られたら引退を決意したけど、チームから必要とされているならしっかりと向き合って、最後、Fリーグの舞台で楽しみたい。初心を思い出させるようなシーズンにしたいなっていうのがあって、延びた1年だった。

──引退発表は、シーズン前に発表する(星)翔太くんのような例もある。このタイミングでのリリースには意図があったの?

翔太のようにシーズン前っていう選択もあったけど、特に意図はないかな。チームといつ発表するかを話し合った時に、アジアカップや中断期間もあったから、そのタイミングで発表するのもなということで、年明けでお願いしますという感じかな。

──俺が引退した時は、シーズン開幕前に決断はしていたんだけど、もしかしたら撤回する可能性もあったから終盤の発表になった。そういう気持ちはなかった?

引退コメントにも書いたけど、決意したシーズンだったから、ずっとカウントダウンをしている感覚で、撤回する気持ちには正直ならなかった。だからこそ、1分1秒を噛み締めたいという気持ちが出てきた。それと同時に感謝だよね。その気持ちしか出てこない。だからシーズン途中で撤回する気は俺の中ではなかったね。

──ABEMAで解説をさせてもらっていて、名古屋の試合ももちろんチェックしているけど、まだやれると思ってるでしょ?

はははは(笑)。知晃さんどうですか?俺、やれてる?

──やれてるでしょ!

年齢なのか、若い時にできていたプレー、前はできていたのになって思うことも多くなったのが正直なところ。ここで足が出ないかとか、ここで自分をスピードダウンさせちゃうかとか。自分の理想と現実のギャップ。考えないようにしているけど、そういう現状もあったりして、まだまだやれるという部分はあると思うけど、自分が思い描いているプレー像に届かなくなっているというのは感じている。

──引退にはいろんな考え方がある。カズ(三浦知良)さんのようにやれるまではとことんやる。もしくは主力で活躍している間はやるとか、それぞれあるけど、理想の引退の仕方はあった?

ボヤっとしていたかな。それじゃダメだからW杯を一つの目標にしていた。自分の夢だったし、そこを追いかけてきたからね。でも、W杯が終わったタイミングではやめられなかった。まだやりたかったのか、自分でもまだ整理がついていないけど、W杯以降はやりきって終わりたいと思っていた。

日本代表を自ら放棄したくなかった

──今の新生日本代表になってから、木暮賢一郎監督と話した?

特に話してはないね。今、トモに言われて思ったけど、俺が小さい時から、例えばJリーガーとかが「代表引退します」っていうニュースを目にするじゃん。アレがよくわからなくて。日本代表はチャンスがあれば入りたいとずっと思っていた。

当時は若かったというのもあるけど、チャンスをなんで自ら放棄するんだろうなという感覚でもあった。思い出したけど、W杯が終わって、直後にトモ(渡邉知晃)の取材で今後について聞かれて、誤魔化したじゃん(笑)。

──うん。

でも、代表を引退する選択肢はなかった。特別な場所だし、俺の価値観では常に目指す場所だし、自ら幕を降ろすことはしたくなかった。今回のアジアカップを戦ったメンバーとか、新生日本代表が始まったタイミングで、もし選ばれたなら準備もしていたし、選ばれるために今まで通りやっていた。

そこに自分の名前がなかった時に、世代交代もあるかもしれないけど、日本代表チームがどんどん進んでいくことを実感した。一つの区切りなのかなって思っちゃったというのは正直なところ。でも、俺から代表引退しますとかは、グレさんには言わなかった。言ったらチャンスがなくなるし、自ら放棄したくなかったから。

──ベテランという年齢でも選ばれている選手がいる。アルトゥール、バナナ(クレパウジ・ヴィニシウス)、(ピレス)イゴール、黒本(ギレルメ)。(吉川)智貴はまだそこまで年齢は高くないけど。次、W杯予選を兼ねたアジアカップとW杯本戦が2年後にあるから、まだパッシャンはチャンスがあるんじゃないかと思っていた。グレさんの中で、選手のバランスや経験値を考えた時に。そこまで引っ張ろうとは思わなかった?

そうね、なかったかな。ある程度、自分が決意して臨んだシーズンだったし、そのなかでやれることがあればやろうという。

──代表に呼ばれたら現役続行するというのもあった?

いや、なかったと思う。

──その場合は、仮に今回のアジアカップを戦っていても引退していた。

していたね。その大会での役割は全うするけど。

──揺るがない気持ち。

そういう意味でもやり切りたかった。それがすごい自分の中で強い意志だったね。

代表ではずっと不安定なパフォーマンスだった

西谷良介のFリーグラストマッチを見逃すな!ABEMAでプレーオフ決勝生中継!

──Fリーグでは何年プレーした?

Fリーグ開幕2年目からだから、15年かな。

──15年を振り返るとどうだった?

どうだったんだろうね(笑)。一言でいうのは難しいけど、フットサルを本当に知らないで入ってきたから、自分がここまでやれたのは、フットサル経験がゼロの選手を根気強く、我慢強く指導してくれた方たちがいたからだろうなというのはすごく強く感じる。

最初は小さいサッカーだと思っていたからさ。でもいざピッチに入ると全然違う。やっていくうちにこれは別競技だなって感覚もあったから、素晴らしい指導者に巡り会えたこと、自分がこれだけ長い道のりを歩めたのは、その方たちのおかげだなって。

──誰かを挙げるのは難しいかもしれないけど、特に影響を受けた指導者は?

めちゃムズイなぁ。俺の歩んできた過程で、最初はデウソン神戸でスタートして、当時はチーム自体がフットサルっぽくなくてサッカースタイルだったんだけど、それも良かった。そこから比嘉リカルド監督に、初めてフットサルを指導してもらった。こういう守り方、攻め方、いろいろな戦術を教えてもらい、日本代表でミゲル(ロドリゴ)監督に教えてもらい、そこでもこんなやり方があるのかって発見があった。戦術メモリーというか、自分の中の引き出しが増えたね。もちろんフットサルの壁にはぶち当たったんだけど。そう言われると、比嘉さんとミゲルは俺の中ではデカかったのかな。

──サッカーから入って、本格的なフットサルを教わることになった2人だね。

自分をフットサル選手にさせてくれた。そのタイミングもすごく良かったと思う。その後には須賀(雄大)さんとか、代表ではブルーノとは思い出もあるし、たくさんのエピソードはあるけど、ベースを作ってくれたのは彼らかなって。

──サッカーから入って、フットサル選手になっていく。最終的には、日本代表としてW杯に出て活躍するところまで上り詰めた。ターニングポイントはあった?

ミゲル監督時代のアジアインドアゲームス、韓国の仁川でやった大会だね。トモもいたでしょ?俺はあの時がターニングポイントだったと思う。

──パッシャン、ブラジルは行った?

グランプリ?行ったよ。

──グランプリでは、(北原)亘さんと、てつくん(村上哲哉)の2人がキャプテンで、俺ら中堅から若手が混ざったメンバーで行った。2012年のW杯に出たメンバーと、これから代表に絡んでいく選手の融合チーム。あのメンバーをベースにミゲルは今後を考えていたと思うんだよ。そんな中で、グランプリで惨敗したじゃん。

したね(笑)。

──その後に行われたアジアインドアゲームスのメンバーはFリーグのシーズン中ということもあり、ほぼ若手だった。

そうだったね。滝田(学)と逸見(勝利ラファエル)と、(皆本)晃。智貴が韓国に行く前に離脱しちゃったけど。(佐藤)亮もいて、同世代が多かった。

──他のアジアの国はフル代表で、日本は若手。それでもアジアの強豪に勝ち続けて、決勝まで進んだ。イランには負けたけど準優勝。この結果でミゲルは世代交代を決意したと思うんだよね。

そうだね。個人的にはそれまで代表には選ばれていたけど、自分の中で代表に入った時にストレスを抱えていた。何がストレスって、自分が思ったプレーもできていないし、自分の良さも出せてないし、常に評価を気にしているというか。普段のプレーを評価されて代表に選ばれていると思うけど、その場所では自分を見失う。選ばれて嬉しいけど、地に足をつけてプレーできていない感覚があった。もどかしいというか、手応えがない中でずっと代表合宿をしていた。なにかしっくりこない気持ちでグランプリにも行って。

それで、インドアゲームズだよね。俺の中で、なんか吹っ切れた。なんだろう、今までは監督の目ばかり気にしていたし、それに気を取られていたから相手と戦えていなかった。仁川に行く前だったかな、気づいたのは。監督の評価を気にするのはやめよう、と。そこと戦う場所じゃないし、相手と戦えていないことに気づけたのがそこだったね。それからは矢印が相手に向かっていくようになったかな。

──たしかに、パッシャンは代表定着までに少し時間がかかったよね。

だいぶね。かなりかかったよ。

──翔太さんや、俺とか滝田とか晃とかその世代がコンスタントに呼ばれるようになってからも、パッシャンは飛び飛びで呼ばれていたよね。

そう。全然自信がなかったし、そういう評価をされても仕方がなかった。代表に行けば不安定なパフォーマンスだったと思うからね。

──そういう意味でも、仁川がデカかった。

デカかったね。自分の中で矢印が変わった感覚があったからね。

──アジアの他国のフル代表を相手に、あの若くて経験のないメンバーで勝てたことも自信になったよね。

そうだね。結果も出たから自信が持てて、今後につながったと思うんだよね。

──その代表での葛藤は知らなかったわ。

めっちゃ悩んでたよ。最初、訳がわかんなかったもんね。

──言われてみると、チームの時の方がパフォーマンスいいなと思って見ていた。

そうなんだよ。あの時、トモや滝田の年代とプレーすることが多かったけど、「合ってる?」「大丈夫?」って聞くのが口癖だった。でも、振り返ればその時間も絶対に必要だったと思うけどね。

──それがあったからこそ。

無駄じゃなかったなと思うね。

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